第二十二話 青い火の灯った時
忌み宮から帰った夜、真広は天狐の名で、座敷を一つ借り切った。
夕餉の後、茜に身を清めるよう言うと、自分は忌み宮から持ってきたつづらを座敷へ運び込み、
部屋を注連縄でぐるりと囲む。
それから、どこからか調達していた供物台を座敷の中央に据えると、つづらの中身を慎重に並べていった。
「真広さま――」
ほどなくして、茜がやってきて、襖の向こうから声をかける。
「入ってきて。」
真広の呼びかけに応じ、座敷に入って来た茜は、真っ白な絹の単を身に着けていた。
これは真広が用意したもので、帯まで白かった。
髪は解いてまっすぐ背中に流している。
「もうすぐ準備できるから、茜はそこに座って待っていてよ。」
真広は部屋の一角を指すと、自分は隅に積んであった布団を一組、持ってきて、供物台の脇へ敷いた。
その布団もまた、全て白い布で作られていた。
――まるで婚礼の床入りみたい……
心の中で呟いてしまった茜は、急に恥ずかしくなってくる。
「これでよしっと……」
茜の気持ちなど露も知らず、真広は満足げに座敷を見回した。
最後にくるり一回転、身をひるがえすと、真広もまた茜とそろいの純白の単姿になった。
「茜、おいで」
真広は優しく微笑むと、茜の手を取り、布団まで誘った。
「ふふ、床入りみたい、って思ったでしょ」
真広が悪戯っぽく言うと、茜の頬がポッと赤くなった。
「やだ……真広さま、私の心、読んだのですか?」
「ううん、でもそんな顔してた。
どうする? じゃあ、このまま床入りってことにしちゃう?」
「……もう、今回はそんなんじゃないでしょ?
お戯れはほどほどにしてください。」
「『今回は』って、次は床入りで良いんだ?」
「……揚げ足を取らないっ!」
軽口を言い合い、じゃれ合いながらやがて二人は布団の上に腰を下ろした。
「冗談はさておき――さっきも少し説明したけど……
君も一緒に記憶に潜るには、僕と縁を繋がなければならない。
床入り、とまではいかないけれど、契りが必要になる。それについては、心を決めてきてくれたって思っていいんだよね?」
真広は茜の指に自分の指を絡め、握り込みながら問いかけた。
縁を結ぶ必要があることは、白い単を渡された時に軽く説明されていた。
そのためには、口づけよりも深く、互いの気を交わす必要があるとも――。
「ええ。そのつもりです。」
茜が表情を引き締めて頷くと、真広はクシャリと笑顔を歪める。
「乱暴なことはしないし、無理やりだってしない。
だけど……、多分、僕……、もう茜を手放せなくなると思う。
茜が、いつか僕と一緒になってくれるよう、大事にするつもりだけど――」
真広の視線が自信なさげに、茜の顔から膝の上へと落ちてゆく。
しかし茜は、しっかりと手を握り返し、彼をのぞき込んだ。
「手放す気、無いんでしょう?
それに、私、真広さまが好きだって、言いましたよね?」
「うん、言った。もう、手放せない。茜、大好き。
じゃ、はじめるね。」
真広は片手を繋いだまま、もう片方の手で懐から赤い紐を取り出すと、つないだ手をほどけないよう幾重にも巻いてゆく。
「絶対に手を離しちゃいけないからね。
もし、中で迷子になったら、帰れる保証はない。」
器用に硬く結ぶと、もう一度、ほどけないか確認して、空いた手で茜の背を支えながら彼女を布団に横たえた。
手をつないだまま、まるで床入りのように彼女に覆いかぶさり、身体を密着させる。
「ああ……茜の匂いだ……安心する。」
彼は茜の髪へそっと顔をうずめ、小さく深呼吸した。
それからしっかり抱き合うと、幾度も軽い口づけを茜の唇に落とす。
「じゃあ、目をつぶって――、僕の気を感じて。
意識が遠のいたら……そのまま身をゆだねて――」
やがて深く、深く口づけ合うと、茜は闇の中へ、静かに意識が沈んでゆくのを感じた。
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『――百済の姫様って言ったってねぇ。妖術を使うんだろ?
あたしゃ気味が悪いよ――』
『でも、それを買われて、旦那様は奥方にお迎えになったんだろ?』
『奥方なんて言って、お渡りが全然ないじゃないか。侍女によれば、白い結婚なんだろう?』
『何でも生贄にするとか――、いくら大和で持て余したからって、むごいことするよ……』
かしましい女たちの噂話が耳に刺さり、茜は目を開けた。
目の前の井戸端では、見たこともない着物を着て、見たこともない髷を結った女たちが集まって、
幾本ものサラシを洗いながら噂話に花を咲かせている。
茜は真広と手をつないだまま、女たちのすぐそばに立っていたが、女たちはこちらに気が付かなかった。
「成功したね。ここはもう、鹿奈媛の記憶の中だよ。
これは記憶だから、僕たちは関われないし、あちらも影響を受けない。ほら――」
真広が言った、その瞬間だった。
一人の女が彼の身体を何事もないようにすり抜け、そのまま井戸端へ加わる。
『ちょっとあんたたち、声が大きいよっ、奥様に丸聞こえじゃないかっ!』
『大丈夫よ、奥様にゃ、東言葉は分かりゃしないって。』
一同、どっと笑う。
不意に景色が横へ流れ、井戸端から塀一つ隔てた庭先へ移った。
高床の建物の前に、一人の美しい少女がたたずんでいる。
緋色の鮮やかな絹の着物を着て、髪を結い上げ、黄金の耳飾りを着けているが、そのどれもが茜が初めて目にするものだった。
『――全部、聞こえて、わかっているって言ったら……どうなるかしら……』
少女がぽつりとつぶやいた。
「――ああ……あれが、鹿奈媛だよ……。」
真広が茜の手を引いて囁く。
不意に、庭先の草むらがカサリと音を立てる。
鹿奈媛が、まっすぐこちらへ目を向けた。
『ああ……おまえ……また来てくれたのか――』
鹿奈媛の目が、嬉し気に細められる。
草むらからそろりそろりと歩み出てきたのは、一匹の若い白狐だった。
鹿奈媛はしゃがみ込むと、袖の中から隠し持っていた干し肉を取り出す。
『ほら、おいで。そう、良い子――』
白狐は、鹿奈媛の膝さきまでやってくると、干し肉の匂いを嗅ぎ、一心不乱に齧り始める。
鹿奈媛はそっと手を伸ばし、白狐の頭を撫でると、語りかけ始める。
『ああ、可愛い子……、そろそろ呼びかける名が欲しいわね。
おまえ、名はあるのかい?』
白狐は干し肉から顔を上げ、小さく首を横に振った。
『ふふ、私の言葉が分かるの……、そこの下女よりよっぽどお利巧。
おまえ――名は欲しいかい?』
白狐は今度は首を縦に振る。
『そうかい、そうかい……、なら、私が名付けてやろう……。』
鹿奈媛が少し考えこむと、白狐はその顔をじっと見つめる。
『ま……ぴろ……、真広にしよう。
真に広い世の中を、おまえは知ることができるよう――。広く先の世まで、おまえが健やかであるように……』
その時、白狐の尾の先に、小さな火が灯った。
青く、美しい火だった。
「ま……ひろ……さま……。真広さまのお名前は、鹿奈媛がお付けになったのですね?」
鹿奈媛にじゃれつく白狐を見つめたまま茜が呆然と呟くと、真広はこくりとうなづいた。
「うん。僕の名は、鹿奈媛が付けてくれた。
力ある姫巫女に名を授けられた僕は、そこで初めて格を得た。
そして、鹿奈媛が願ったとおり――この先、千四百年を生きることになる。
一言では言い表せないけれど――、僕にとって本当に特別な人なんだよ。」
「――特別、な、人……」
「うん、僕を僕にしてくれた、僕の唯一。僕のすべてだった人。だから、絶対に、見間違えないんだ。
記憶がなくても。力を失っても。魂だけになったとしても。」
真広が茜に身体を寄せて、離すまいと頬ずりする。
景色が――ゆっくりと暗転していった――。




