第十六話 名をくれた姫と、消された奥宮
『真広や――おいで。干し肉をやろう――』
庭先で柔らかい声が降ってくる。
植え込みの葉陰に隠れていた真広は、注意深くそろそろと進み出る。
声の主は真広がやって来るまでずいぶん長い間、庭にいたらしい。
石の上に腰かけた彼女は、干し肉をちょいちょいと動かして、真広を誘う。
彼女が彼を『真広』と名付けたのはつい先日。
ただの白狐だった彼の格が上がったのを、彼女はまだ知らない。
真広は周りに彼女以外いないのを確認すると、素早く駆け寄って、干し肉そっちのけで彼女の足に身体を擦り付ける。
『おお、おお、そなたは可愛いねぇ。ほらおいで――』
彼女が手を差し伸べ、膝の上を指す。
真広はためらいなくその膝に飛び乗ると、彼女の胸へと鼻頭を擦り付けた。
『あはは、くすぐったい――、ほら、お食べ。』
彼女の金の耳飾りが揺れて、シャラシャラと軽い音をたてた。
彼女がいるのは、堀と塀と柵を、幾重にもめぐらした居館の奥深くの離れだった。
遠く海の向こうから命からがら逃れて、流れ流れて、この館に幽閉されている。
この館にやって来てから、彼女は一度も外へ出されていないし、ごく限られた人間としか会っていない。
真広が彼女に会ったのは、偶然の出来事だった。
好奇心から潜り込んで、衛士に追われて逃げ込んだ離れ――
そこで、彼女に出会った。
彼女はこの珍客を嬉々として迎え入れ、やがて『真広』という名を与えた。
『ずっとお前といられればいいのにねぇ。
でも、お館様は、おまえを飼うことは、許してくれないだろうし、
おまえも自由でいたいだろう?』
真広の白い毛を撫でながら、彼女は悲しげに微笑んだ。
――僕は、君といたい。ずっといっしょにいられるなら、自由なんかいらない。
ああ……君と話が出来たら……
僕がしゃべることができたら……この思いを伝えられたら……
真広は心の中で叫びながら、
伝われ、伝われと念じながら、彼女の手に顔をすり寄せる。
彼女の言葉はわかる。
しかし、まだ真広の格では、言葉を交わすことはできない。
――ああ、好き。大好きだ。鹿奈媛……
胸がはちきれそうな気がして、真広はたまらなくなる。
フッと情景が途切れた。
鹿奈媛も、居館も、干し肉も、突然真広の目の前から姿を消した。
目を開けると、そこは天狐に宛がわれた居室で――
「夢――かぁ……」
真広は、ゆっくりと瞬きをする。
鹿奈媛は消えたが、彼女のぬくもりは消えなかった。
視線をそちらへやれば、茜が彼の毛に顔を半ばうずめて、寝入っている。
「……ふふ、茜……」
真広は低く笑って、彼女をしっかりと尻尾で囲い込むと、再び目をつむった。
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吉彦が天狐の居室を訪ねてきたのは、あの姫塚での遭遇から数日後だった。
朝餉の後、彼は何やらぎっしりと文書の入った木箱を抱えてきた。
部屋には三人のみ。
空也は天狐として、夢喰みと交流を深めており、他の狐たちもそちらへ付き添っている。
小萩は雑用に出て昼過ぎまで戻らない。
「まだ確定ではないんですがね――、だいぶいい線まで近づいてると思います。」
吉彦が、ガサガサと木箱を漁ると、ツンとカビの臭いがして、真広は顔をしかめる。
茜は慌てて立ち上がり、障子を開け放って部屋に風を入れた。
「……岳彦には、断って持ってきているのか?」
真広が鼻を押さえたままたずねると、吉彦は顔を上げずに答えた。
「いいえ、まあ、あの人はこの文書の価値なんか分かりゃしないし、
今は、言の葉姉さんが突然出奔して、屋敷は大わらわなんです。
俺が蔵を漁ろうが、誰も気がつきゃしませんから。」
「……二の姫が屋敷を出たのか」
「ええ、多分一昨日に。発覚したのは昨日ですけど。」
それからしばらく、吉彦は書簡や冊子を選り分け、畳の上へ並べてゆく。
真広と茜は黙ってその様子を見つめていた。
「さーて、どこから話すかなぁ……」
吉彦はキラキラした瞳で、文書を眺め、やがて一冊の冊子を手に取った。
「まずですね、誰があの塚を開けたのか――という話ですが、
今から五百年ほど前、南北朝時代に遡ります。」
そう言うと冊子をぱらぱらとめくり、やがてある頁で手を止める。
「今から十七、八代前の先祖――忌部成親までさかのぼります。
当時我が忌部家は、南朝方に組しており、隣接する同族の斎部氏と度々戦闘を繰り返していました。」
吉彦は冊子を開いて真広と茜の方へ押しやると、一節を指さした。
「自領に攻め込まれるほどではありませんでしたが、彼は戦局が苦しくなるにつれ、打開策を求めた――。
姫塚には、神代の霊宝が納められており、それを手中にしようと画策したのです。」
「……それで、塚が開けられたのですか?」
茜が思わずたずねると、吉彦は深くうなづいた。
「ああ。斎部氏は、当主をはじめ男衆が、強い異能の使い手だったそうだから、我が忌部氏も、霊宝を手に入れれば、互角に戦えると思ったんだろうね。
だが、思惑は外れた。人知を超える神通力は授かったが――それは当主や息子たちではなく、姫たちだったんだ。
結局忌部氏は領地を大きく削られ、この桧ヶ瀬村一ヶ村のみを治める土豪と成り果てた。」
そう言うと、興が乗って来た吉彦は次の頁をまくって指さす。
そこには姫塚から出てきた『霊宝』の数々が、図画によって記録されていた。
吉彦は、そのひとつひとつを指さして解説し始める。
「墳墓は未盗掘で、神代以来、何人も足を踏み入れていなかったようです。
中には石棺と、灰色の器の数々が納められていたそうで、高坏には桃の種がまだ載ったままだったとか――
石棺の中には、一体分の遺骨と、金製の宝飾品、それから鏡と玉器が納められていました。」
それから、吉彦は真広の方へ顔を上げる。
「従者様は、この文物の行方を知りたいのですよね?
成親は、この遺骨を壺に納め、出てきた宝飾品や鏡を洗い清めて奥宮へ祀った、とあります。
この“奥宮”というのが曲者で――文字通りに読むのなら、村社の裏山山頂にある祠を指すのですが、あんなところに納めたとは、ちょっと考えづらい。
そこなら天狐さまや従者さまがご存じないわけがないし、忌部の神通力の源を野ざらしにしているとも思えません。」
「……じゃあ、どこなの?」
真広が低い声でたずねると、吉彦はまた別の文書に手を伸ばす。
今度取り出したのは大きな絵図で、この忌部屋敷の見取り図だった。
「これを見てください。この屋敷の見取り図です。今の屋敷は寛政年間に建て替えられたものです。」
そう言うと、吉彦はもう一枚、屋敷の別の見取り図を広げて見せる。
そして、一点を指さした。
「こちらがそれ以前の屋敷のもので――おわかりになりますか?
『オクミヤクチ』と書いてあるのが消されてるでしょう? 以前の屋敷には、“奥宮”に通じる通路があったけれど、何らかの理由で封鎖され、建て替え時に再建されなかったんです。」
「そ……それは、どこなんですか?!」
茜が青ざめてたずねると、吉彦は二枚の絵図をスッと重ねる。
絵図の紙は薄く、今の絵図の下にうっすらと昔の間取りが透けて見えた。
「おそらく、末の妹――御座の居室あたりだと思います。」
「御座さまの――」
座敷にしばし沈黙が落ちた。
やがて、吉彦は居住まいを正すと、真広へとまっすぐ向き直る。
「従者さま、いかがでしょう? これで、“ミトノカサマ”について、教えていただけるでしょうか?」




