第十四話 痛みを吸う口づけ
夕餉の膳を引き上げ、小萩が布団を敷いている間に茜は一日ぶりの定時報告のため、夢喰みの居室へと向かっていた。
通いなれた廊下に、見慣れた襖――
だがしかし、一歩また一歩と座敷に近づくにつれ、心身に微かな違和感を感じ始める。
腹の底がそわそわする。手が汗ばみ、動悸が激しくなる。
――行きたくない、行きたくない、行きたくない……
茜の心を、忌避感が埋め尽くす。
脳裏には、夢喰みから受けた暴力と、暴言の数々が駆け巡った。
――私、どうしちゃったの?
この前まで、何をされても、何を言われても、夢喰みさまをお慕いする気持ちは、全く揺るがなかったのに……
震え始め、歩みを止めた膝がしらを、冷たくなった指先で包み込んで叱咤する。
「――夢喰みさま、茜でございます。」
やっとたどり着いた襖の前で膝まづいて声をかけると、茜が開けるより早く、襖が開いた。
影が差し、振り仰ぐまもなく――
横ざまに足蹴にされた茜は廊下に倒れ込んだ。
「――っ」
蹴られたこめかみをとっさに押さえ、首にもじんわりと違和感を感じる。
思わずうめいた茜を構わず、胸倉をつかんで引き起こしたのは、夢喰みだった。
「……遅いっ!」
鋭く叫ぶと、茜を室内へと突き飛ばす。
その手つきは、昨夜の篤彦とまるで同じで、茜は倒れ込んだ畳の上でしばらく動けなかった。
夢喰みに対する恐怖心と、昨夜の篤彦の記憶とが重なって、血の気が引くような気がした。
ピシャリと後ろ手に襖を閉めた夢喰みは、全身に纏った怒気が、炎となって見えるような気さえした。
「……なぜ昨夜は来なかった? なぜ報告を怠った。」
――ビシリッ
卓の上にあった竹尺を手に取り、茜を打ちすえながら、夢喰みは詰問する。
茜は必死で顔を庇いながら、息も絶え絶えに釈明した。
「昨夜は――篤彦さまに呼び出されておりました――。それゆえ、ご報告に上れず――」
「言い訳をするなっ! 今朝だって、その後だって、いくらでも時間はあっただろうっ?
大体なに? 篤彦兄さまに呼び出されたって――おまえ、兄さまに色目を使ったのかっ」
「色目なんて、そんな――」
――ビシリッ
竹尺は肌が出ている場所、着物の布が薄い場所を執拗に狙って打ち下ろされた。
やがて、竹尺で叩くのにも飽き足らず、手も足も出る。
絶え間ない暴力にさらされて、茜はだんだん気が遠くなってゆくのを感じた。
「汚らわしいっ、欲に目がくらんだのかっ、おまえのクセにっ」
暴行は夢喰みの気が済むまで続き、最後などは支離滅裂になっていた。
やがて夢喰みは、肩で荒い息をつきながら、ぺったりと畳に座り込んだ。
「――篤彦兄さまは、今朝早く東京に帰られた――、残念だったわね。」
「……」
酷くゆがんだ笑みを浮かべ、勝ち誇る夢喰みに、
茜は答えようと口を開いたが、何も言葉は出てこなかった。
「おまえは、私のために働けばいい。余計なことを考えないで、私の指示だけをきいてればいい。
これに懲りたら、人間の男になんて、色目を使うんじゃないよ。」
「……はい、承知いたしました。」
茜はそれだけやっと言うと、よろよろと立ち上がり、深々と礼をしてその場を辞した。
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――おかしい。
暗い廊下をゆっくりと、腹を庇いながら進む茜は、
言いようのない違和感に襲われていた。
――絶対におかしい……。
だって、今までは、何をされても、何を言われても、私は全然傷付かなかった。
何があっても夢喰みさまに対する気持ちは、深い崇敬と厚い忠義のみで、
恐れも、嫌悪も、全く無かった。全く湧いてこなかった。
なのに……
今は、夢喰みさまが、とても怖い――。
暴行を受けた身体はズキズキと痛み、熱を帯びている。
茜はせめて火照った身体を冷まそうと、裏の井戸まで歩いて行った。
井戸端は虫の鳴く声もせず、しんとして誰もいない。
冷たい銀板のような満月が、煌々と青白くあたりを照らし出していた。
時折吹く夜風は、すっかり秋の風で凛として冷たかった。
――カポン……
つるべを落すと妙に響いて、茜はしばしその水音に耳を傾ける。
やがてゆっくりと手繰り上げると、冷たい水に手を浸した。
散々叩かれ腫れていた手の甲の痛みが、スッと引いてゆく。
その感覚に、不意に涙があふれてきた。
――ついこの間までは、何ともなかったのに……今は、もう、これ以上……
茜は、井戸水で冷えた手で顔を覆った。
殴打に火照った頬にその冷たさは気持ちよく、ますます涙があふれ、止まらなくなった。
「――茜……」
不意に背後から声を掛けられる。
その声は、真広だった。
ハッとして振り向くと、彼は顔色を変えて、パタパタと駆けてくる。
「――ちっとも帰ってこないから、探しに来たんだ。
どうしたの? 泣いてるの?」
彼は茜の肩に手をかけて、心配そうにのぞき込む。
――その目を見たら、
その声を聞いたなら……
もうだめだった。
「真広さまぁ……」
茜はわっと泣き出して、真広に抱き着くと、その胸に顔をうずめた。
「――っ」
真広は一瞬たじろいだが、すぐに立て直して彼女の背に手を回す。
「大丈夫、もう大丈夫だよ。僕が付いてるから。」
真広は彼女の背をそっと撫でながら、何度も呪文のようにつぶやいた。
いつもは甘えてくるばかりの真広が、今はとても頼もしい。
茜は、彼の胸の中で、子どものように泣きじゃくった。
やがて茜が落ち着きを取り戻し始めると、真広はそっと彼女の顔をのぞき込む。
「――ずいぶん酷い目に遭ったね……すぐに助けられなくてごめん。
その――、君のケガ、治していいかな? こんな風に――」
真広は遠慮がちにそう言うと、茜の右手を取り上げて、その甲に口付けを落した。
すると、幾重にも手の甲を覆っていたミミズ腫れが、たちまち消え失せ、痛みが引く。
茜が目を丸くして真広を見返すと、彼はクスリと笑った。
「ただ触るより、口を付けた方が、簡単に治せるんだ。
ほら、傷もなめときゃ治る、だろ?」
「え……えぇ……じゃ、じゃあ、お願いします。」
茜が遠慮がちに答えると、
真広は喜んで彼女の傷や打撲跡、ミミズ腫れの一つ一つの上に口付けを落とし始めた。
彼の唇が触れ、チュッと小さな音を立てるたびに、即座に傷も痛みも消えてゆく。
着物の上からでも、真広は患部をまるで見えてるかのように探り当て、布越しでも効能は同じだった。
「――まさか、真広さま……着物の下、見えてます?」
あまりの的確さに、茜が赤面しながら聞くと、真広は首を横に振った。
「見えてない。だけど、茜が痛いところは分かるよ。」
「分かるんですか?」
「うん」
驚く茜に、真広は得意げに笑みを浮かべた。
やがて一通り、身体中に口付けを落して、真広はむくりと起き上がって身を乗り出してくる。
「どう? もう痛いところはない?」
茜は一瞬黙り込んで手を握り込んだり、足首を回して全身を確かめると、ゆっくりとうなづいた。
「ええ、もうすっかり――、ありがとうございます。」
「そう、よかった――
ねぇ、最後にさ、その心の痛みも、吸い出してあげようか?」
「え? そんなこと、できるんですか?」
「うん、できるよ?」
真広は澄んだ瞳で茜をのぞき込む。
「じゃ……じゃあ――」
答えると、真広の顔がぐっと近づいてきた。
「口から吸うんだ……。」
半開きの茜の唇に、真広の唇が押し当てられる。
「――っ」
硬直した茜に、真広はクスリと笑って、悪戯っぽく唇喰むと、チュッと音を立てて吸い上げた。
そっと真広が唇を離したときには――
茜はゆでダコのように真っ赤になっていた。
「――どう? 痛いの、消えたでしょ?」
「えっ、あっ? あぁっ!」
慌てふためく茜に、真広はいつもの甘えた様子で頬ずりする。
「嫌じゃなかった……よね? 僕のカンが、正しかったらさ……」
「……嫌じゃないです。」
「よかったぁ。
また、していい?」
真広が上目遣いで言うと、茜は手で顔を覆って、
「良いです。」
と消え入りそうな声で言った。




