第十一話 無間地獄の、その先で
茜は、寝間着にしている浴衣を着こんで、暗い廊下をきしませながら、ゆっくりと篤彦の部屋まで向かう。
――大丈夫。ただ、身体を触られて、ちょっとナカに入られて、小一時間も我慢すればすぐに終わる。
私は一寸だって削られないし、何もなくすものはない。
純潔などと大切にするのは、身分のある御方だけで、
たかだか村娘のそれなどは、大したものではないのだ。
向かいのミーコは、祭の夜に隣村のカンキチと盛り上がって、神社の裏手でって言っていたし、
女中仲間のおキヨなんかは、旦那様の手籠めになったけど、今では御寵愛を賜って特別可愛がられてる。
なくすものなんかない。
私は、何にも変わらない――
何度も言い聞かせて、
けれども、一歩また一歩と篤彦の部屋が近づくたびに、
指先が冷え、脚が震えた。
永遠とも思える道中も、所詮は限られた屋敷の中の事。
あっという間に目的の襖の前へとたどり着いてしまった。
のろのろと膝をつき、たっぷり深呼吸してから声を出す。
「――篤彦さま、失礼いたします。」
「入れ。」
返事は短く、間髪入れずに返って来た。
篤彦は文机で、酒を片手に東京からの書簡に目を通しているところだった。
部屋には既に布団が一組敷かれている。
茜はなるべく音を立てずに襖を閉めると、じっと篤彦に呼ばれるのを座ったまま待っていた。
やがて篤彦は、書簡をいくつかに分けて置くと、杯の残りの酒を一気にあおって茜へと向き直る。
「――おまえは生娘か?」
事務的な、感情の載らない声で篤彦が尋ねた。
「……はい」
茜も、なるべく感情が載らないよう、冷たく返す。
「まあ、そうだろうな。親父の好みでもないし、吉彦にそんな度胸はないだろうし――
誰かのためにとっておいたのか?」
「いいえ、特には――」
茜は斜め前の畳の上に視線を落としながら、そっけなく答える。
すると篤彦は、不満げに鼻を鳴らした。
「ふん、つまらんやつめ。」
それから茜のすぐそばまでやってくると、胸倉をぐいっと掴んで彼女を立たせた。
「狐に見初められたのは、本当だったようだな。ちょっと探りを入れたら、すぐに話が出て来たぞ。」
「……そんな、事実はございません。ただの噂でございます。」
「まだ嘘をつくのか、往生際が悪いぞ。」
首が絞まって、茜が苦し気に呻くと、篤彦は布団の方へと彼女を突き飛ばす。
布団へと転がった彼女に、間髪入れずにのしかかった。
「まあ、生娘でなくなれば、狐も興味をなくすだろう。
従者風情がうちのモノを欲しがるなどおこがましい。」
篤彦の手が茜に触れる。
布越しだが、悪寒が走った。
――逃げちゃダメ、嫌がっちゃだめ……
茜は思わず歯を食いしばる。
無意識に逃げ出しそうになる身体を、何とか押さえつける。
――喜ばせてやるものか。
茜は知っていた。
篤彦が、嫌がる女を無理やり手中にするのが、なにより好きなことを。
「具合が良ければ、東京に連れて行ってやろう。俺を楽しませるなら、妾にしてやっても良い。
まあ、最初の男が俺だと、せいぜい、感謝するんだな。」
篤彦は初めて口端をニヤリと釣り上げて、茜の帯に手をかける。
茜は思わず顔を背け、身体をこわばらせてしまう。
彼は茜の抵抗を敏く嗅ぎ取ると、愉悦に笑みを深めた。
――ああ……やっぱり嫌だ。
きつくまぶたを閉じると、目尻に涙が伝う。
「――僕の茜に、何してるの?」
突然声がした。
足音も、襖が開く音もしなかった。
「っ!」
篤彦は声の方へと振り返り、茜もはっと目を開ける。
布団から三尺も離れたところに、真広が静かな微笑を湛えたまま立っていた。
「取り込み中だ。従者ごときが口を挟むな。」
篤彦が不機嫌そうに笑みを消して言うと、真広はますます笑みを深めて一歩近づいてくる。
「人間のさぁ、オスとメスが布団でするのは交尾だってことくらい、僕、知ってるんだよね?
で、茜がおまえとそういうことするの、嫌がってるように見えるんだけど……」
「だからなんだ? 奉公人は主家のモノ。主家のモノは跡取りである俺のモノだ。
こいつは俺のモノだから、好きにして構わないんだよ。
女中が嫌がろうがそんなこと関係ない――」
篤彦が勝ち誇って言い切ろうとしたその瞬間、真広はピンッと指で弾き飛ばす仕草をした。
その瞬間、篤彦の身体は宙を舞い、茜の上から弾き落とされる。
「茜が、誰のモノだって?」
また一歩、真広が布団へと近づいた。
「ねぇ、茜は、この男と交尾したいの?」
真広は転がった篤彦には目もくれず、布団のそばでしゃがみ込むと茜と視線を合わせた。
「――っ」
声にならない。
だが、力いっぱい首を横に振った。
とめどなく涙が落ちる。
茜が精一杯腕を伸ばすと、真広は彼女を抱きしめた。
「もう大丈夫だよ。
茜はお前が嫌だってさ。」
真広は茜に頬ずりすると、軽々と彼女を抱き上げる。
それから、焼き尽くすような苛烈な視線で篤彦を貫いた。
「茜はもらってゆくよ。
おまえは僕を従者だって侮っているようだけど、実は僕、意外と偉いんだよねぇ。」
そう言うとしっぽを揺らして見せる。
四本の尾の先に青い炎が灯ると、篤彦の顔から余裕が消え、みるみる青ざめてゆく。
「えっ……あ、あぁっ……そ、その色は――」
「おっと、それは秘匿事項だ。余計なことを言うのなら、この場でおまえを消し炭にしてやる。」
真広が目を細めると、篤彦はきゅっと口を結んで首を横に振った。
「じゃ、口を滑らせる前に“東京”とやらへ帰ることをお勧めするよ。
僕の縄張りにいつまでもいるようなら、うっかり燃やしちゃうかもしれない。」
ニヤリと笑うと、真広は茜を抱えたまま後ろざまに宙返りする。
すると、たちまち霞のようにその場から消えていなくなった。
後には篤彦だけが呆然と、狐につままれたような顔をして座り込んでいた。
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「真広さま、大丈夫でしたか?!」
「茜は無事ですか?!」
真広の腕の中で、茜がそろそろと目を開けると、そこは天狐の座敷だった。
空也と従者たち、それから小萩が茜をのぞき込む。
「うーん、危機一髪だったぁ。
あの人間の男、茜にのしかかってさぁ」
真広は茜を敷いてあった布団の一つに降ろすと、くるりと一回転して大きな狐の姿になる。
すると口で茜の帯を咥えて、引き抜いてしまった。
「きゃっ、何する――」
茜は襟を押さえるが、真広は浴衣も咥えて引きはがそうとした。
「着物脱いで。あの男の臭いがべったりついてて、我慢ならない。」
「ちょ、従者さまっ、やめてください。茜がかわいそうです。
人間の女は、裸を見られるのは恥ずかしいんですよっ」
横から小萩も参戦して、茜の着物が引きはがされるのを何とか阻止した。
「天狐さま方にご用意してある浴衣があちらにございますでしょ。
それに着換えさせますから、どうぞ落ち着いて――」
小萩が指さすと、従者の狐の一人が素早く浴衣を持ってくる。
真広は渋々着物を離した。
「わかったよ。早く着換えて。
あー、臭い臭い……僕の身体まで臭い。」
そう言うと布団の上にうずくまり、自分の身体をぺろぺろと舐めて毛づくろい始める。
空也は真広のそばに座り、従者たちは茜と小萩を、部屋の隅にある衣桁の陰へといざなった。
「なんで、小萩がここにいるの?」
浴衣を脱ぎながら茜がたずねると、替えの浴衣を持ったまま小萩が答える。
「ちょっと迷ったんだけどね、やっぱりこれはまずいって思ったの。
だから、天狐さまに知らせたの。茜が手籠めにされるって。」
「小萩――」
茜が複雑そうな顔で口を開きかけると、小萩は素早く遮った。
「あー、あんたのためもあるけど、あんたのためだけじゃないの。
このままあんたが若様の慰み者になれば、忌部家はタダじゃすまないって――
分るでしょう?」
小萩がチラリと真広の方を見れば、茜もフムと納得する。
「まあ、そうだけど……」
「あー、私の事だったら大丈夫。
空也さま――天狐さまが、私も茜と一緒に天狐さま付きにしてくれるって。」
「小萩、天狐さまの御名前までうかがったの!? 凄っ――」
「ふふん、さすが私、でしょ?
それに、しばらくはここで寝起きしてもいいってお許しをもらったわ。
だから、一応、安全ね。」
小萩はわざとおどけて片目をつむって見せた。
「ねぇー、茜、まだぁ?」
布団で待ちくたびれた真広が茜を呼ぶ。
「はいはい、ただいまぁ」
小萩は茜の帯を結んでやると、衣桁の陰から彼女を押し出した。
「あー、やっとマシになった。あー、でもまだ髪が臭うね?
ほらほらおいで、僕にくっついて。毛づくろいしてあげる。」
真広は狐の姿のまま茜を抱きこむと、すりすりと身体を擦り付ける。
「茜は僕が嫌じゃないでしょ?」
彼女の髪をそっと喰みながら、真広は甘えるように言った。
「――っ」
突然の問いかけに、茜が思わず詰まると、真広はふふんと機嫌よく頬ずりする。
「実は僕、知ってるんだよねぇ。茜が僕の毛が好きなこと。
今夜は僕を枕にしていいよ。僕はあの男みたいなことはしないから、安心してね?」
茜はじっと真広の目を見て、
それから彼の毛に顔をうずめると身体を小さく丸めた。
やがてくぐもった嗚咽が聞こえ始めると、真広も身体を丸め、彼女を守るように優しく包み込んだ。




