別離
和泉はベッドの上に起き上がって、キャラメルの箱を開けた。
十粒のキャラメルが並んでいる。
天井の四隅を見ると、一番近い隅っこに茶色い蜘蛛がいた。
和泉は箱からキャラメルを一粒取り出した。
狙いを定めて、茶色い蜘蛛めがけて投げつけた。
キャラメルは壁に当たってこんっという音を立てた。
茶色い蜘蛛は微動だにしない。
もう一個投げつけると、今度は茶蜘蛛のすぐ側に当たって床に落ちた。
三個目は茶蜘蛛に命中しそうになったが、茶蜘蛛が少し動いてよけたので壁に当たって落ちた。
「よけるなんて生意気ね」
四個目は届かずに、空中からそのまま床に落ちた。
五個目は茶蜘蛛の足が動いてキャラメルを打ち返したので、和泉の元まで戻ってきた。
「打ち返すなんて、ますます生意気ね」
六、七、八個目は時間をおかずに次々と投げたので、茶蜘蛛は忙しそうにひょいひょいひょいとよけた。
「賢ちゃんに言いなさいよ。いじめられるから、和泉の側にいるの嫌だって」
九個目は自分で食べた。
「賢ちゃんのとこに戻りなさいよ!」
と言うと、茶蜘蛛の身体がきゅっと縮んだ。
十個目は茶蜘蛛の腹に当たりそうになったが、茶蜘蛛が最小限の動きでキャラメルをキャッチした。
「食べるならあげるわ」
と和泉は言った。
茶蜘蛛が嬉しそうな顔をしたかどうかは分からないが、カサカサと音がしてキャラメルの紙を器用にむき出した。
「ゴミはゴミ箱へ捨ててね」
和泉はそう言ってから、布団に潜り込んだ。
朝、九時頃に母親が洗濯物を持って来る。
それから和泉はお風呂に入り、着替える。
特別室のシャワールームは広く浴槽もついているので、服を脱ぐのも身体を洗うのも楽だ。風呂から出れば、後は特にする事がない。
リハビリに行くようにスケジュールが組まれているが、それも最近はサボりがちだ。
「和泉、本当にいいの?」
と母親が言ったので、和泉は天井の隅を見てから、黄色いノートを広げた。
(うかうかしゃべらないでって言ってるでしょ。茶蜘蛛に聞かれてるんだから。ノートに書いて!)
そう書いてからノートを母親に見せた。
(退院は五月末。賢さんに言わなくていいの?)
と母親が書いた。
(いいの。結婚なんてしないと言ったでしょ。賢ちゃんには何も言わないで。あたしがいなくなればそのうち諦めるわよ。病院はどうなるの)
(定期的にはここへ来なければならないけど、あちらの大学病院を紹介してくれます)
(あと二週間。部屋の解約と、荷造りもしてね)
(分かったわ。徳島は田舎だけど、いい所よ)
と母親が書いた最後の言葉には和泉は返事をせずに、
(それとあの事はどうなったの?)と書いた。
(書類の提出は終わったわ)
和泉はパタンとノートを閉じた。
「和泉、外へ散歩に行く?」
と母親が言った。
「今はいいわ」
面倒くさそうに和泉が答える。
「何か買ってこようか? 本でも読みたいなら……」
「何もいらない」
普通に振る舞うのが精一杯だった。
賢に対しても、誰に対しても。
茶蜘蛛がいつだって和泉を監視しているから。
わざと、ああやってうろうろと姿を見せているのは明らかだ。
賢が和泉を警戒している。
別れを告げたら賢は和泉を諦めるだろうか、と考えて、責任感が強い賢が別れを納得するはずもない、と思った。
可哀相な自分の為に一生を捧げてくれるに違いない。
そんな意地の悪い妄想までする自分がみじめだった。
だから賢には何も言わずにいなくなろうと思った。
そんな事をする自分に愛想をつかせばいい。
だからこれはとてもいいアイデアだと和泉は思っていた。
退院まであと一週間となったある日、朝から賢が来た。
「どうしたの?」
和泉は朝風呂を済ませて着替えた所だった。
「今日は休みをとった」
「へえ、だからって朝から来なくてもいいのに。別にする事もないし」
「出かける」
と賢が言った。
「どこへ? って外へ出てもいいの?」
「外出許可は取ってある」
「何それ。いつの間に」
賢に車椅子を押されて駐車場まで行くと、見知らぬ車があった。
「どうしたの? あの四駆は?」
「買い替えた」
「え、買ったの?」
「あれは乗りにくいだろ。振動もあるし」
自分の足の為に車を買い替えた、という意味か。
白いぴかぴかの高級車は静かで振動も少なく、確かに快適だった。
「どこへ行くの?」
「冷静な話し合いが出来る所だ」
「何それ」
「何か俺に言うことはないのか?」
「事故の時には大変お世話になりました」
「喧嘩売ってんのか?」
「……何の事よ?」
「和泉が入ってる病院の院長は親父の同級生で、土御門はあの病院じゃ融通が効くようになっている。うちが出資もしてるしな。医療機関だけじゃない。それ以外にもどこの組織でも大抵は口を挟める。土御門というのはそういう一族だ」
「……」
「つまり、だ。お前の入院状況はお前の母親よりも先に俺に届くようになっている」
「え……」
「二週間先の退院をいつ俺に言うのかと思ってたが、言うつもりはないらしいな。お前もお前の母親も」
「……」
和泉はぽりぽりと頭をかいた。そこまで知られてるとは思わなかったので、とっさのうまい言い訳も口から出てこない。
「おまけに……お前が土御門を捨てるとは思わなかったよ」
と賢が言った。その言葉に和泉の身体が固まった。
だが、事実だった。
そうだ。私は土御門を捨てたのだ、と和泉は思った。




