悲劇3
「お母さん」
「何?」
和泉の母親が振り返った。
洗って持って来た洗濯物を紙袋から出している所だった。
「看護師さんの事だけど」
「え? 毎日来てくれてる方の看護師さん?」
「うん、もうさ、来てもらわなくてもいいって、賢ちゃんに言ってくれる?」
「どうして?」
「自分で何でも出来るようにならないと……いろいろ自分で練習しなくちゃ」
と和泉が言った。
母親は和泉のワンルームマンションから毎日病院へ通っていて、父親は新しい場所での生活を安定させる為に四国へ帰っている。
「賢ちゃんに聞いた。もう左足、動かないんだって」
「……ごめんね」
「別にお母さんのせいじゃない。あたしの不注意だし、しょうがないよ。でもいつまでも賢ちゃんの世話になってるわけにいかないでしょ。退院した後の事も考えないとね。仕事も辞めて。立ち仕事なんて絶対無理よね?」
「仕事は賢さんがもう先方へ話してくれて……事故のすぐ後に退職してるのよ」
「そうなんだ」
うつむいて淡々と話す和泉に、
「大丈夫よ。和泉」
と母親が言った。
「何が?」
「賢さんがあなたの足がどうでも結婚の意思は変わらないって……」
和泉の顔がかっと赤くなり、すぐ手元の枕を母親に投げつけた。
「あれだけ反対しといて、今更賢ちゃんにすがりつくような真似はやめてよ! みっともない! 結婚なんてしないわよ! 出来るわけないじゃん!! 五体満足でもたいして役に立たないのに、車椅子なんて賢ちゃんに恥かかせる以外の何が出来るのよ!」
母親は洗濯物を持ったまま、凍りついたように真っ青な顔をしている。
和泉は母親を睨みつけて、
「賢ちゃんに可哀相な娘をお願いしますなんて格好悪い事言わないでよ! どうせなら最後まで反対しなさいよ! 結婚なんてしないわ。一生、誰とも結婚なんてしないわ!」
と泣きながら叫んだ。
和泉の母親は言葉もない。
ただ立ちすくむだけだ。
「いつ退院できるのか先生に聞いてきて。その後の事も。どこかの病院でリハビリをしなくちゃならないのか、それならよその県の病院でも紹介してもらえるのか、ちゃんと聞いてきて!」
と涙をタオルでぬぐって和泉が言った。
母親は肩を落として部屋を出て行った。
和泉は真っ白な新しい病室の天井の片隅に、手の平くらいの茶色い蜘蛛が張り付いているのを見た。和泉はその蜘蛛をじっと見つめて、
「いつからあそこにいたのかしら」
とつぶやいた。
「和泉さん、お加減いかがです?」
と美登里が見舞いにやって来たので、和泉は全力で笑顔をしぼり出した。
「美登里さん、ありがとう。元気よ」
「そうですか、随分と痩せられましたわね」
「そうかな。まあ、動かないからね」
美登里は珍しく洋装でパンツスーツだった。
背の高い美登里がかつかつとハイヒールの音を響かせて歩くのは格好がよかった。
「この度は何と言ったらいいか」
「あたしは大丈夫。美登里さんも靜香伯母様が亡くなって、寂しいでしょう」
加寿子と靜香が亡くなったのは自分のせいだが、それを美登里に告げる勇気は和泉にはなかった。美登里にまで罵倒されたら、今の自分では耐えられない。このままスルーさせてもらいたかった。
「ほっとしてる所もあるんです」
と美登里が言った。
「え?」
「おばあさまが亡くなって、悲しいのは確かなんです。花嫁姿も見せてあげられなかった、楽しみにしていたひ孫も。でもそれを強制されなくてすむ、と思ったら、少し肩の荷が下りたような気もして……私は酷い孫ですよね」
「そんな事ないんじゃない。結婚は美登里さんがいいと思う時にすれば。美登里さんが幸せな結婚をするのが一番よ」
と言ってから、賢ちゃんと結婚すればいいのに、と思った。
美登里ならきっと賢が当主になった時に、いいパートナーになるだろう。
いや、和泉が余計な心配をしなくても、近い将来きっとそうなるだろう。
「結婚式には呼ばないでね」
と和泉が言った。
「え?」
「あ……ほら、あたし、この先、車椅子になっちゃうから、迷惑かけるし。美登里さんの結婚式には呼ばないでってあらかじめ言っとくわ。遠くからお幸せをお祈りします」
「まあ、そんな先のお話。でも、もしどなたかとご縁がありましたら、もちろん和泉さんには真っ先にご報告しますわ。その頃には賢様が御当主をお継ぎになってるかもしれませんわね。お二人揃って来ていただかないと」
「……そうね。あ、そうだ。美登里さんにお願いしようかな」
「何でしょう?」
「付添の看護師さんなんだけど。これからは自分で何でもやらなきゃならないでしょ? いつまでも誰かの手を借りなくてもいいように。そう言ってるのに、賢ちゃんが聞いてくれないの。だからもう来てもらわなくてもいいって賢ちゃんを説得して欲しいの」
「まあ、そうですか。確かにご自分で出来る事はなさればいいですけど、でもやはりどなたかに側にいてもらった方がいいんじゃありません?」
「いらないよ~。あたしこの頃、頑張って、ベッドから車椅子に自力で乗り換えられるんだよ? 買い物も行けるし、トイレに行くのも、お風呂に入るのも自分でやってるもん。もう大丈夫って言ってるのに、賢ちゃん、駄目だって言うばっかりで」
ぶーっと頬をふくらます和泉を見て美登里が笑った。
「大体さあ、そこまで重傷じゃないじゃん? 右足は立つし、それなのに二十四時間付添なんて、大げさだよ。って言うか、ありがたいけど……息がつまる」
はあっと和泉がため息をつく。
「そうですか。ではお役に立てるかどうかは分かりませんが、お話してみますわ。その代わりに和泉さんも私のお話を聞いていただけます?」
「え? 何?」
美登里はこほんと咳払いをしてから、
「御本家では賢様と和泉さんのご結婚のお話でもちきりですのよ」
と言った。和泉の顔がみるみる色を失う。
「和泉さんが退院した後にはすぐに結納を……」
「そんなの無理に決まってるでしょ」
「あら、どうしてですの?」
「どうしてですって?」
和泉は大きく目を見開いて美登里を見た。
「ご両親が賛成するわけないでしょ」
和泉の声が震えている。
今までおじさま、おばさま、と呼んでいたのだが、まるで他人のように和泉はそう言った。
「あら、そんな事はないですわ。だっておじさまもおばさまも、和泉さんを娘のように可愛がられていたじゃありませんか」
「ご長男の結婚相手とは別でしょ。普通の家の人でもあたしとの結婚なんて反対するわよ、きっと。だから美登里さんも意見を求められたら、賢様の為には反対ですって言ったほうがいいわ」
と言って和泉は笑った。
「和泉さん」
「だって、そう思うでしょ? あなたもあたしの立場になったらそう思うわよ」
「ええ、確かに足が不自由になったのは残念ですけど、それであなたが変わるわけではないでしょう? 賢様とのご結婚は確かに今後の生活も大きく変わるでしょうけど、そんなに無理な話じゃありませんわ。賢様が御当主をお継ぎになって、あなたがその奥様になっても何の支障もありません。あなたは足が不自由でもあなたが御本家で出来る事をやればいいだけのお話ですもの」
「誰に頼まれてそんな事を言いにきたの?」
と和泉が聞いた。
「和泉さん」
「あのね……」
と言いかけて、和泉は天井の四隅を見た。
一番近い隅に茶色い蜘蛛がいる。
じっと動かない。
和泉は大きく深呼吸をしてから、
「そうね。美登里さん。よく考えてみるわ」
と言った。




