悲劇
和泉の母親が来るころにはすでに賢が病院にいて、様々な指示を出し終えていた。
事故の加害者への対応は土御門家おかかえの弁護士に任せ、早急に手術が必要な和泉の為に同意書へのサインも賢がした。この場合のサインは身内でなければならないが、婚約者ならば受け付けられる。
母親が駆けつけてきた時にはすでに和泉は手術中だった。
「和泉は!」
と血相を変えて走ってきた母親へ賢は何も言葉をかけなかった。
賢には緑鼬によって、和泉が事故に遭った経緯を知らされていた。
泣きながら部屋を飛び出した事も、母親と口論した事も、和泉が部屋を飛び出した原因となった母親の言葉も。
不注意だったと言えば、和泉も不注意だったのは確かだ。
だが泣きながら部屋を飛び出すという事さえしなければ避けられる事故だった。
「喜美ちゃん」
と声をかけたのは朝子だった。
「朝子さん、和泉は……」
「手術中よ。足を酷く複雑骨折してるらしいわ。前方不注意の車に跳ねられたみたい」
赤いランプがついた手術室の前には雄一と朝子、三兄弟が椅子に座ったり、窓際に立ったりしていた。
「一刻も早くの手術が必要だとの医師の説明があったの。だから同意書には賢さんがサインしたわ。いいわね?」
「はい、賢さん、すみません」
と言って母親は賢を見たが、賢は視線も合わせなかった。
「賢さん!」
と朝子が声をかけて、ようやく賢は和泉の母親の方を見たが、
「全面的な責任は事故の加害者にある。制裁はきっちりと受けてもらう。けれど、事の起こりは俺にも責任があるし、和泉も不注意だった。でも俺は……不用意な言葉で和泉を傷つけたあなたを許せそうにない」
と震える声でそう言った。
「賢さん……」
号泣しだした母親は朝子に肩を支えられて、少し離れた長いすに座った。
やがてランプが消えるとともに、ドアが開き医師が出てきた。
和泉は集中治療室へ運ばれ、手術の経過を説明する旨が告げられた。
賢と母親が医師の部屋で説明を聞く。
命に別状はない事。
複雑骨折した骨の破片により神経を傷つけ、左足の膝より下の麻痺により自力歩行は難しいと思われる事。
だがリハビリの結果によっては松葉杖をついての自力歩行が可能になるだろう、という事が告げられた。
和泉の母親は泣き出し、賢は拳を握りしめた。
命が助かった事をまだましだと思うべきか、片足の麻痺だけでまだましだと思うべきか。
だがまだ若い嫁入り前の女の子の未来に影を落としたのは間違いない。
集中治療室で五日過ごした和泉は個室へ移動した。
土御門家の計らいにより一番上等の個室である。バス、トイレ、ソファにテーブル、付添用ベッドまであり、高級ホテル並の設備だった。
意識を取り戻した和泉は、もうろうとする頭で自分を心配そうに見下ろす賢の顔を一番に見つけて、
「まさる……ちゃん……」
と声にならない声で言った。
「和泉、大丈夫か」
「……うん」
と囁いてから和泉は少しだけ笑った。
若さ故、顔や手などの包帯はすぐにとれたが、それでも一ヶ月かかっていた。
特に損傷が激しいのは左足だが、右足も骨折はしていたので、両足にギプスがはまっている。だから和泉の両足はぴくりとも動かなかった。
ベッドの上でさえ身動きが出来ない。
不安そうな和泉の元に、
「和泉の世話をしてくれる人だ」
と賢が年配の女性を連れてきた。
「世話?」
「そうだ、元看護師だ。家政婦協会から来てもらった。これから二十四時間、三交代で来てもらう」
「え、世話する人なんて……お母さんが……」
と和泉は母親を見たが、和泉が意識を取り戻してから、母親が賢の前で発言した事はなかった。
「お母さんには昼間、話し相手になってもらえばいいさ。お母さんも疲れてるだろうから、少し休んでもらわなくては。この人には身の回りの世話をしてもらうんだ」
「うん……」
「佐藤と申します。お任せください」
と言ったので、和泉も、
「あ、よろしくお願いします」
と頭を下げた。
「そういえば、お母さん、仕事先に連絡してくれた?」
まだ和泉の身体には点滴がつながれ、もちろんトイレにも行けなかった。
「え、ええ、大丈夫よ。事情を話してあるわ」
と母親が言ったが、賢が手を回して和泉はすでに仕事先を退社となっていた。
例え退院したとしても、歩けるかどうか分からないのだ。
立ち仕事などとうてい無理な話だ。
「そう……ギプスっていつ外れるの?」
「あと一ヶ月くらいかな。それからリハビリが始まる」
と、賢が答えた。
「リハビリ? そんな事しなくちゃ、歩けないくらい、弱ってるの?」
「二ヶ月も寝たきりだからな。足の筋肉が随分と落ちる。足を鍛えないとな」
「そう」
「仕事があるから行く。また夜に来るから」
「うん、ありがとう」
病室を出て行く賢の後を母親と父親が追った。病室から出て、エレベーターの前まで賢の後を歩き、そして、
「賢さん、和泉には本当の事を……」
と父親が言った。
「まだです。リハビリが始まるまでは言いません」
と賢は冷たく答えた。
今、和泉に関する決定権はすべて賢にあった。和泉の両親は何も口を挟めない。
行動力も財力もとても賢に適うはずがない。
加害者との話し合いも、特別の個室を使える事も、専用の看護師を手配する事も、賢でなければとうてい出来ない事だった。
和泉の両親はただ賢に頭を下げるしかなかった。




