賢ちゃんと和泉と恋の始まり
島田先輩の霊が出たのは初夏だった。それが今では冷たい木枯らしが吹く季節になってしまった。和泉ははあっと白い息を吐きながら、店の外に置いてあるネオンの消えた看板を店内に引っ張りこんだ。これで今日の仕事は終わりだ。早く帰らないと雪でも降りそうな空気の冷たさだ。
あの後、本家には何も告げずに和泉達親子は家を出た。
今は父親の兄弟の住む北陸で暮らしている。家族三人、仕事も何もかも捨ててこちらへやってきたのだ。本家に対する意地もあった。
何度か賢や仁達から電話やメールが来たけれど、それに返信する事はなかった。
土御門家はやはり由緒ある古い家柄で長い歴史がある。そしてそれは誰も手を入れることなんか出来ないんだ。反抗や諍いはこれまでもあっただろう。だが、それでも土御門は伝統を重んじた形で生き残ってきたのだ。長い長い歴史の中で少しくらいの反抗をしたところで、土御門はびくともしないだろう。
そういえば一度だけ若尾刑事からも連絡があったけれど、理由あって本家とは縁を切った状態だと返すと、それっきりだった。意外と若尾刑事は静香伯母様に気に入られたかもしれない。
今はアパートを借りて親子三人で細々と暮らしている。父親も母親もそれなりな仕事に就いたけれど、和泉だけが再就職出来ずに今はドーナツショップでバイトをしている。
私服に着替え、挨拶をしてから、和泉は裏口から店を出た。
夜の八時過ぎの街は冷え込んでいたが、そろそろ近いクリスマスに浮かれた姿も見える。
路地裏から店の表の道まで出ると、
「よう」
と声をかけられた。
しまった、と思った時には遅かった。近くには誰もいない。
和泉に声をかけた男はこのドーナツショップの常連客だった。毎日毎日開店と同時に来ては和泉に声をかけてくる。百円のドーナツとお代わり自由のコーヒーで何時間も粘り、にやにやとしては和泉や他の女の子が働いている姿を眺めている。薄汚れたコートにズボン、足下はこの寒いのに裸足にビーチサンダルだった。従業員の間ではホームレス疑惑が出ているが、安いとはいえ毎日二、三百円の出費が出来るのという事は少しでも働いているのだろうか。毎日毎日やってくるこの男が和泉は嫌いだった。一度愛想よくしただけで、友人のように話しかけてくる。しかも、何をしゃべっているのかもよく分からない。一人でしゃべっては一人で笑う。
「今、帰り? 送ろうか?」
「結構です」
そう言って後ずさる。背中を向けるのが不安だったからだ。急に後ろから襲いかかられたら適わない。
「そう言うなよ。こんな夜遅くに女の子一人じゃ心配だしね、ね?」
困った、どうしよう。一気に走って逃げようか。あの角を曲がればバス停があるから人もいるかもしれない。ただ、あの角へ向かうには男の横をすり抜けなければならない。
反対方向へ走ると余計に薄暗い道に出てしまうから。
「いえ、本当に結構です。じゃ、さようなら」
和泉はそう言ってから一気に男の横を走り抜けた。
「きゃっ」
走り抜けたつもりが、バッグをつかまれたようだ。ガクンと体に衝撃が走って、そのまま転んでしまった。
慌てて起き上がったが、男は和泉のバッグをつかんだままだ。
「な、何? お金が欲しいの?」
と言うと、
「違う、金は持ってる、ほら」
と別の手でコートのポケットを探って、小銭を出して見せた。百円玉が三つ。
「な?」
よく分からない恐ろしさで泣きたくなってしまった。
「お、送るよ。家まで」
「だから結構ですって。バッグから手を離してよ!」
ぐいっと引っ張ると、ぐいっと引っ張り返された。
和泉は心底恐ろしくなって、自分の方がバッグから手を離そうとした。財布が入ってるけど、しょうがない。
「お、送りたいんだ。あんたを」
男の体が迫ってきて、もう片方の手で和泉の腕をつかんだ。
「ちょっと! やめてよ!!」
じたばたと暴れていると、
「汚い手で和泉に触るんじゃねえ」
と声がした。
「え?」
と和泉が振り返るのと、男が頭を抱えて道にうずくまったのが同時だった。バッグが急に軽くなって和泉はひっくりかえりそうになった。
男は「うううううう」とか言って頭を抱えている。
「賢ちゃん!」
賢が立っていた。
「ど、どうしたの?」
「どうしたのじゃねえ。それはこっちのセリフだ、乗れよ。送る」
と言った。顎で指した方向に大きな四駆車が止まっていた。
賢は少し怒っているようだった。
「え、うん、っていうか、この人どうしたの?」
「意識だけ霊道に飛ばしてやった。汚い手で和泉に触りやがって」
「ええ?」
霊道っていつか迷い込んだあの恐ろしい場所だ。何十、何百もの骸骨に襲われたっけ。
思い出しても恐ろしいけど、そんな事が出来る賢がもっと怖いんだけど。
「行くぞ」
と言って賢が車の方へ歩き出したので、
「こ、この人大丈夫なの?」
と聞くと、
「少しは懲りるだろ。しばらくしたら戻ってくるさ、行こう」
と言った。
一瞬迷った。でもバイト先が見つかったんなら、アパートなんかも知られているだろうな。それに別に姿をくらますのが目的だったわけじゃないし。
賢は珍しくジーンズ姿だった。トレッキング用みたいなごつい靴を履いて、スキーウエアみたいな防水のジャケットを着ていた。スーツ姿くらいしか印象にないが、なかなか似合っていた。
和泉が助手席に乗り込むと、賢は車を発進させた。
「賢ちゃん、車の運転出来たんだ」
「当たり前だろ」
「だって、いつも運転手つきだったじゃん」
「ああ、そうだな」
「伯父様や朝子はお元気?」
「ああ」
久しぶりだけど、話は弾まない。そりゃ、そうだよね。
「あ、そこ、右に……右ってば!」
賢は平気な顔で直進して行ってしまった。
「ああ、もう、賢ちゃん、今のとこ曲がらないと、すごい遠回りになっちゃう」
ところが、賢はずんずん車を走らせる。
「賢ちゃん、送ってくれるんじゃないの?」
賢は何故だか無言で答えない。車の中は暖かく、ラジオから一昔前にはやったスキー場のシーエムソングが流れていた。
「どこか行くの?」
晩ご飯でも奢ってくれるのかな、と和泉は厚かましい事を考えていた。
しばらくの沈黙の後で賢が、
「拉致る」
と言った。
「え? 何て言ったの?」
賢は運転しながらも和泉の方へ顔を向けて、
「拉致する」
と言った。
「拉致??」
「そう、和泉を拉致する」
拉致すると言われても、幼なじみの賢の言葉に何一つ危険なんてなかった。
「どうして?」
と和泉が聞くと、
「会いたかったから」
と賢が答えた。