前夜
祈祷祭、前日、午後八時。
夕食も済ませ風呂にも入り、後は明日に備えて寝るだけである。
和泉は自分の部屋でぼーっとしていた。
明日の祈祷祭の事を考えれば、今夜は眠れそうもない。
心臓がどくどくと脈打つのが自分で分かるほどに緊張していた。
自分で何かするわけでもないのだが、やはり平静ではいられない。
側で寝そべっていた赤狼が、ひょいと顔を上げた。
「どうしたの?」
「呼んでいる」
「え?」
「次代が呼んでる」
「賢ちゃんが?」
「ああ、行くか? 断るか?」
会いたい気持ちと会わない方がいいと思う気持ちがある。
会わない方がいいのは分かっている。だが和泉は、
「行くわ」
と答えた。
人型になった赤狼に車椅子を押してもらって、和泉は外へ出た。
九月の夜風は少しだけ秋の気配を連れてくる。
昼間はまだ暑いが空を見上げれば高く、それはすでに夏の空ではなくなっている。
庭から外へ出ればすぐに公園の堀が見える。
堀の外周には小さな橋がいくつかかかっているが、今はどれもが通行禁止になっていた。
城跡周囲には足場が組まれて白いシートがかかって、中を覗くことも出来ないようになっていた。赤いランプを灯して、警備員が二十四時間交代で見張っている。
小さい橋の上で立っている人影が見えた。
橋の上にはオレンジ色の照明が灯っている。
赤狼は橋の手前で車椅子を止めた。
賢が和泉の方を向いて、
「久しぶりだな」
と言った。
和泉はかすかにうなずいた。
「赤狼、よく復活したな」
と賢が赤狼に言い、
「まあな」
と赤狼が答え、それから、
「これから和泉は俺が護るさ。あんたはもう和泉を護るつもりがないんだろう? 足が不自由になったくらいで追い出しやがって!」
と言った。
「違うのよ。赤狼君、あたしが勝手に逃げ出したの。賢ちゃんは……」
と和泉が言ったが、
「あんたがずっと側にいて和泉を護ると思ったから、俺は!」
と赤狼が続けた。
「悪かったな、赤狼。自爆までして俺達を護ってくれたのに」
「……」
「だけど、お前が和泉の側にいてくれてありがたいと思ってる。赤狼なら安心して任せられるからな」
賢の言葉に赤狼はぷいとよそ向いた。
「少しだけ話をしてもいいか?」
賢がそう言うと、赤狼は和泉の車椅子から手を離した。
そして人型の赤狼の姿がゆらっと揺れながら消えた。
「夜とはいえ、どこででも姿を消すなよ」
と賢が笑った。
しばらくの沈黙の後、
「銀猫達が来たか?」
と賢が言った。
「うん」
「そうか、悪かったな。あいつらの言うことは気にするな」
銀猫さんの言う通りだよ、あたしが悪いから、という言葉を和泉は飲みこんだ。
今更、それを言ってもどうにもならない。
何の慰めにもならない。
心臓がきゅーっと痛くなるほど、それは分かっている。
せめて涙は見せないでおこう、と和泉は少しだけ笑って見せた。
微笑みを顔に貼り付けるのが精一杯だった。
「明日の祈祷祭で最後にする」
と賢が言った。
「やっぱり駄目なんだろ? もう諦めるよ。電話もメールももうしない。今まで悪かったな。これでさよならだ」
和泉は少しうつむいた。
身体が重くなって、急に動けなくなった。
左足だけではない、右足も、手も、顔も、頭も、もしかしたら心臓さえ止まってしまったのかもしれない。言葉を発する事も出来ず、涙も出なかった。
今までありがとう、と言うべきだと思ったが、和泉の口は開かなかった。
こつこつと足音がして、和泉に賢が近づいてきた。
そしてうつむいている和泉の頭を優しく撫でてから、
「送らないから、赤狼に迎えにきてもらってくれ」
と言って、そのまま和泉の横を通り抜けて去って行った。
一時間ほど和泉はそのまま動けなかった。
賢が去って行った瞬間から涙が溢れた。
それをぬぐうという行為も頭に浮かばなかった。
ただ、泣きながら、しょうがない事だと自分に言い聞かせた。
自分で選んだ道だった。
ぐるぐるぐると頭の中で「さよならだ」の言葉だけが何度も聞こえた。




