5. 神々の末裔
……しまった。
ツクヨミと呼ばれた男のまとう気配が総毛立っている。わたしの言葉のなにがこの男の逆鱗に触れたんだろう。
尊称ってことは──尊か、姫か。
「答えよ、奴隷」
首輪から滲み出す、ねっとりとした瘴気。巨大な蛞蝓がじわじわと首を締めつけるような感触に悪寒が走る。隷属を強いる──従わねば頸骨を押し潰すという──支配の黒呪。
ちりり、と脳裏に馴染みになりつつある感覚が閃いた。
頸骨を潰されることなど怖れるな。隷属の呪具ごときに屈するな。眼に力を込めて跳ね返せ。
──俺は、ギルヴェルク。神を呪った真祖。不死の王。
ツクヨミの銀色の瞳を睨めつける。
首輪の黒呪が効かぬとみるなり、ツクヨミは舌打ちし、出し抜けに勢いよく鎖を引いた。思わず前のめりに膝をつくと、ぶらりと首を吊るされ、鳩尾を膝で蹴られる。
相変わらず矜持ばかりが高すぎる堕神の末裔だ。
ならば──煽ってやろう。
「俺を誰だと思っている? 神呪すら解けぬ男が秋津神ツクヨミを名乗るとは、嗤わせる」
そう言葉にのせて、ツクヨミの左胸に指をあて円を描くと、奴はぎりっと歯を軋ませた。すかさず、眼に力を込めて低く囁く。
「《無名の神》が敗者の肉体に刻みつけた支配の印、それが神呪だ。かつて、おまえの先祖は《無名の神》に神格を奪われ、秋津神の尊称たるミコトを奪われ、鬼に堕ちた。月読尊の末裔に、代々伝わる神呪の刻印が今もおまえの胸にはあるのだろう?」
「そうだ……ギルヴェルク……この忌々しい神呪を解く秘術をよこせ」
ツクヨミの銀色の瞳がとろりと混濁する。
このまま、支配下においてしまおうか。神呪が解け、《無名の神》の定めた位階から解放されたいま、俺は自由だ。
「ならば、ツクヨミ。おまえの神呪、俺が解いてやろう」
《無名の神》ではなく《不死の王》の下僕となるがいい。
「……ギルヴェルク」
ツクヨミの身体がぐらりと揺れて、腕の中に落ちる。鬼の頭領の血は甘いだろうか。
「月黄泉様になにを……!」
女の声とともに、はらはらと薄紅の花弁が舞い、視界を奪う。
邪魔な女だ。
背後から仕掛けてきたサクヤという娘の脚を、腕で受け止め、柳腰を引き寄せた。月光を映して揺れる怯えた瞳。蒼褪めた白い肌。長い黒髪のあいだから小さく瘤のような角がのぞく。成人しても女は蒼黒く鬼化しない。若い娘の血は──さぞや甘いだろう。
切れ長の大きな銀の瞳をじっと見つめた。
「殺しはしない……咲耶姫」
花の色をした小さな口唇を軽く咬んだ──。
甘い。淡い花の薫りだ。
とろりとした甘い血は花の薫り。
木花咲耶姫は桜の女神。
口唇も淡い桜の薫りがする──。
……口唇?
ちょっと待て。
なんで、なんで、なんで?
なんで、俺、女の子とキスしてるの?
「うううう、うそだあぁぁぁッ!」
俺は彼女を突き飛ばした。
目のまえで呆然と尻餅をつくサクヤに気づいて、助け起こそうとしたけれど、「この外道!」と思い切り罵られ、顎に蹴りを入れられ、逃げられた。
あたりまえだ。女の子にいきなりキスして、血を吸って、挙げ句の果てに突き飛ばすなんて、我ながら酷すぎる。
いまの、ギルヴェルクと共鳴していたというより、ギルヴェルクそのものになってたんじゃない? 怖い。全身の血が激しく脈打って、身体の中心が熱い。なんで? こんなの、厭だ。こんなの、俺じゃない。
俺は……わたしはギルヴェルクじゃない、のに。
「ギルヴェルク。貴様、今、なにをした」
背後から地を這うようなツクヨミの声が聴こえて、ようやく自分の膝が震えていたことに気がついた。
その後は、魔眼避けの目隠しをされ、後ろ手に縛られて、鎖を引かれて歩くはめになった。ツクヨミにみっともないと嘲笑われ、腰につけられたのがふんどしだったことには、もうなにも言うまい。
サクヤは大丈夫だったんだろうか。そんなに……吸っていなかったと思うんだけど。ギルヴェルクの妙なフェロモンにあてられてないといいんだけど。
下へと降りる階段らしきところで何度か転び、それにざわめく気配が、大勢の人──もしくは鬼──がこの場所にいることを物語っている。
地形とあたりの冷気からいって、ここは富士の風穴かも知れない。
ああ、また身体が冷えてきた。寒い。数時間まえにフェンリルと温泉に入っていたのが遠い昔のことのように思える。
「月黄泉様。参上つかまつりました」
後ろから落ち着いた若い男の声がした。
「大己貴、この者を牢に入れよ。明日、神呪について糾すことにする」
え? 今度は大己貴命?
大己貴──それは因幡の白うさぎで有名な大国主命の若かりしころの名前だ。
オオナムチに鎖が渡され、厭な男、ツクヨミの気配が去る。正直、ほっとした。
「こちらは、お寒いでしょう」
そう言われて、上着のようなものを着せかけられた。温かさにじわりとくる。酷い目に遭わされた白うさぎを助けた大国主命のイメージにぴったりだ。
もしかして、今のわたしって白うさぎ? つい、もふもふのうさぎ耳を生やしたギルヴェルクの悪役面を妄想してしまった。目が赤い、ところは合っている。髪も銀色でおかしくはない。なのに、全然かわいくない。かわいくないどころか、目つきも顔つきも凶悪すぎて、見てはいけないものを見てしまったという罪悪感でいっぱいになる。ギルヴェルク、おそろしい子。
なんて、現実逃避をしている場合じゃないんだけど。
「心遣いに感謝する」
ギルヴェルクのイメージを考えて、言葉少なにお礼を言うと、なぜかぴりりとした気配が動く。
『主の非礼の数々、深くお詫び申し上げます』
落ち着いた声が頭に直に響いた。
オオナムチのギルヴェルクに対する扱いは不思議なほど鄭重なものだった。目隠しを外されることはなかったけど、手首の縛めは前に変えられ、首の鎖ではなく手を引いて道案内をされた。
重たい石を引きずる音がして、「こちらでお休み下さい」と案内されたのは、おそらく毛皮の敷かれた寝台だと思う。ふさふさの感触が黒い狼を思い出させた。
「なにか温かいお飲物でもご用意いたしましょうか」
そう訊いてくれたので、ぼろが出ないように短く「頼む」と返すと、ふたたび重たい石を引きずる音がして、オオナムチが立ち去る気配がした。
困った。たぶん、彼はギルヴェルクを恐れ疑っている。
共鳴した時に感じた力の差から推して、本来、ギルヴェルクがツクヨミの力で捕えられるのは不自然だ。なにか考えがあって故意に捕まったと疑われているのだ。
まさか捕まっているのが、この身体の持ち主ではなく、平和にのほほんと生きてきた二十歳の女だとは──彼は知らない。