4. 月黄泉
竜の背から見下ろす地上は、わたしの知る日本と同じ大地とは思えないものだった。
月光に照らし出された白っぽい荒野は、映像でしか見たことのない月の面に似て、生き物の息吹を感じさせない静寂に包まれている。目を凝らしてよく見れば、ぽつりぽつりと森林や集落らしきものが点在しているけれど、そこに緑豊かな富士の裾野の面影はない。
風が鳴る。巨大な竜の翼が風を切る。
竜は雲を避けて、皓く輝く月へと昇った。
眼下に浮かぶ雲が月光を浴びて銀色に煌めく。
雲のうえに竜が落とした黒い影が揺らめいた。
「ギルヴェルクが泣くか」
蒼黒い肌の男の乾いた声にわずかな驚きが入り混じる。
涙が止まらなかった。異界の富士は荒涼とした大地にあってなお、酷く美しい。それが哀しいのか寂しいのか苦しいのか悔しいのか、自分でもわからない。
ここは違う。たしかに違う。富士山のある日本なのに、わたしの知っている日本じゃない。
でも──だからこそ解ってしまった。どこにあろうと富士は富士だ。
首に嵌められた冷たい金属に触れる。どうしても外れない首輪。どこでどんな姿をしていようと、わたしはわたしのままだ。根性なしで泣き言ばかりの臆病者。不死身で身体能力の高いこの身体もまったく活かせない。
「……身体が冷えただけだ」
「ふん、負け惜しみが過ぎるな。その首輪は外れぬぞ」
ねじれた角を生やした男が嘲りの声をあげたけれど、半分は本当のことだった。
──寒い。
雲の上なのだ。気温も気圧も低い、空気は薄い。蒼黒い肌の男は厚地のロングコートを着込んでいるけれど、こちらは竜の炎で腰布まで焼かれて全裸なのだ。感覚の鈍いヴァンパイアの身体とはいえ、芯まで冷えた。おまけに首まで折られて、治癒するためにギルヴェルクの記憶がいうところの『新陳代謝が加速して』しまったのだ。
寒い──ふと、黒い狼の温もりを思い出した。
フェンリルは、ここにいない。誰も本当のわたしを知らない。
顔をあげて厭な男に向かって笑ってやる。蒼黒い顔がわずかに引き攣った。ギルヴェルクの笑顔は凶悪だろう、ざまあみろ。奴隷の首輪をつけられて、泣きながらしゃがみこんでするなんて、まっぴらだ。
わたしはバランスをとりながらゆっくりと立ち上がり、竜の背で両脚と下腹に力を込める。そして、風下に向かって、勢いよく放尿した。
空に十六夜の月、眼下に霊峰富士。風に流され月光に煌めく銀の飛沫に笑いがこみあげてくる。背中に厭な男の冷ややかな視線を感じた。
バカヤロー、羞恥心なんて、クソ食らえ、だ。
用を足し終えてすっきりしたその時、ふいに竜が啼いた。低く重たい咆哮が夜の静寂を斬り裂いて、雷鳴のように轟く。凄い。この声って大阪あたりまで響いてるんだろうか、ぼんやり考えていると、竜の長い躯が富士山に向かって急降下をはじめた。
「う……ぐぁっ?」
ジェットコースター並みの急激な落ち方にバランスを崩して落下しそうになったところを、蒼黒い腕に腰をつかまえられる。
「いっそ鎖で吊るしてやろうか」
竜の躯につけた鞍のようなものに腰をあずけ、いつのまにか自分だけベルトでしっかり身体を支えた男が白い牙をみせて嘲笑った。
「吊るし切りをしても、俺は鮟鱇と違って不味いぞ」
わざと解りにくい台詞を吐いてやると、狡い男は案の定、「はあ?」と首をひねった。知らないだろう、鮟鱇の吊るし切り。わたしも食べたことはない。
激しい気圧の変化に耳鳴りがする。大きく旋回をはじめた竜の背から富士五湖らしき湖面が黒く光るのが視えるけれど、やはり有名な青木ヶ原の樹海はない。
おそらく、わたしの世界では樹海があったと思われる平坦な岩場に、黒く煌めく竜は舞い降りた。
典型的なインドア文科系のわたしは河口湖周辺くらいしか旅行をしたことがないので、このあたりの地理には疎い。
それでも、ここが日本でよかった。頭の中にだいたいの地形が入っているのは少しだけ心強い。
「早くしろ」
先に降りたねじれた角の男が首輪についた鎖を引き、こちらに向かって口の端をあげて嗤う。
厭な男。
竜の背で相対したときに気づいたけれど、この男の顔立ちはモトカレの彰吾に少し似ている。つまり、認めたくはないんだけど、均整のとれた日本男子の顔をしている。すっきりと吊り上がった切れ長の銀の瞳、高すぎない鼻梁、うすい唇、長めのまっすぐな髪は鴉の濡れ羽色。目尻に紅く歌舞伎風の刺青を入れている。
もしかして、この世界の日本人はみんなこういう肌と瞳の色で、角が生えているんだろうか。
それとも、単にこの男だけが見た通りの──鬼、なのか。
鎖に促され、しぶしぶ竜の背から跳び降りると、じゃらりと重たい音が響いた。こんなもの、早く外したい。でも、悔しいけど体術ではとても敵いそうにない。格闘技とかの趣味はないのよ、インドア女子だから。
だけど、もし、帰れたら──魔法を教えてもらえないかな。
「月黄泉様!」
どこからか、凛とした女性の声が聴こえてきた。
……ツクヨミ?
「咲耶か。面白きものを拾ってきた」
人が変わったように優しい声で、厭な男が首輪の鎖を愉しげに引いた。仕方なく振り返ると、本当のわたしと同年代くらいに見える和風美人がこちらに顔を向けるなり恥ずかしげに目を逸らした。
……そりゃそうだよね。全裸の男だからね。
厭な男とふたりきりのときには、寒いだけで気にならなかったのに、きれいな女の子のまえでまっ裸な自分がものすごく恥ずかしくなってきた。
「月黄泉様、こちらのかたは……」
そうだ、それよりも気になるのは──ツクヨミ、サクヤといえば。
「月読尊? 木花咲耶姫?」
思わず口をついて出た日本古来の神の名前に、目のまえのふたりの身体がびくりと震えた。ツクヨミと呼ばれた蒼黒い肌の男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「ギルヴェルク。堕ちたヴァンパイア風情が、どこでその尊称を知った」
銀色の瞳の奥に閃く憎しみ。
竜の翼の飛び去る音がやけに遠くに聴こえた。




