アダージオ「体験」レッスン当日
いよいよアダージオ体験レッスンの日。
「そっか、いずみ先生のレッスンに康太先生が来るんだっけ」
と真理。
「それで、アダージオをやるって、無謀もいいところだわ」
とエリゼがつい本音を漏らす。
アダージオ、パドドゥといわれている、男女ペアの踊りだ。
女性ダンサーは男性のサポートで、優雅に踊るアダージオ。
ピルエットやアラベスク、単体で踊るテクニックを男性がサポートするとまだ違う動きになる。
時に、ダイナミックで、時に静かに流れるように。
そのほんの「さわり」の部分をいずみ先生のバレエクラスの生徒たちに体験させてくれるというのだ。
エリゼが通ったバレエ学校などでは、高学年になるとパドドゥのレッスンが始まる。
それに、いずみ先生のバレエクラスの母体である、あすかバレエスタジオでも、講師が認めたテクニックがあり、身体の条件を満たしていれば中学生くらいから、発表会などで「パドドゥ」を踊る。
真理の娘、舞香もそうだった。
しかし、それは選ばれた生徒だけだ。
誰でもが出来る訳ではない。
ましてや、大人から始めた生徒たちにとって、パドドゥを踊る、それは夢に近い。
「何事も経験だもんね」
とエリゼ。
いずみ先生のバレエクラス、特別講座である、康太先生によるアダージオ体験を、存分に楽しむことにしたようだ。
「大河君も来てくれるなら、がんばらないとね」
と真理。
しかし内心、
「このお腹、大丈夫かしら」
と不安に思う真理だった。
男性ダンサーのサポート、女性のウエストに手を添えることが多い。
真理の少々いやかなり緩んだウエストライン、これを康太先生や大河に触られるのか、そう思うと少々複雑だ。
「せいいっぱい、身体を引き上げてなんとかごまかさないと」
真理は合同発表会が終わってから、つい緩みがちな体型管理をいまさらながら悔やんでいるのだった。
翌日、アダージオ体験レッスンの日。
真理は仕事帰りにスタジオに直行するつもりで家を出た。
せっかくなので、気合を入れて勝負レオタードに、勝負スカートを用意した。
それから、トゥシューズも忘れずに。
あとは、髪をいつもより綺麗にお団子に出来るヘアセットも持参だ。
大きなバッグを抱えての出勤だ。
しかし、その日オフィスに大河の姿がない。
今日は休みの予定ではないはずだ。
念のため、パソコンから部署のメンバーたちのスケジュール表をを見ると、大河は急遽終日外出となっていた。
「予定が変わったんだ」
と真理。
営業職である大河、外出も多い。
ちょうどその時、真理あて社内メールが届いた。
送信元は大河だ。
「真理さんすみません、今日は急に外出になりました。
そこでお願いがあるのですが」
と大河のメール。
昨日、遅い時間に上司から連絡があったのだと言う。
今日、得意先に行くはずだった社員が、急病でとても出勤できそうにないので、その代わりとして指名されたのだ。
「それで、折り入ってお願いしたいことがあり」
とメールが続く。
「僕のロッカーに入っている、僕の稽古着とシューズを持ってきてもらえないでしょうか」
と。
大河はバレエに必要な着替えなどを、既に会社に持ってきておりロッカーに入れていたのだ。
そして、今日はそれを持ってそのままあすかバレエスタジオへ向かうつもりだった。
それが、一度オフィスに戻るい時間はない。
それで、致し方なく真理に頼んだというわけだ。
「大丈夫よ、まかせて」
と真理。
「しっかり営業して、夕方スタジオで会いましょう」
と返信をする真理。
そうは言ったものの。
大河の個ロッカーを開ける。
なんだか、ドキドキする。
誰かに見られたりしないように、こっそりと行動しないと。
何故か鼓動が勝手に早くなる。
その日、何度かフロアの片隅にある、ロッカーへと向かうが運悪くいつも誰かいる。
しかも、大河のロッカーの真横の持ち主だったり、真下の持ち主だったり。
これでは、あからさまに大河のロッカーは開けられない。
何度目かのチャレンジでやっと誰もいない瞬間にでくわした。
今だ。
四角いロッカーが5段ほど並んでいるのだが、大河のロッカーは一番上だ。
真理には少し高すぎる。
ダイヤル式のロックが付いており、大河から聞いた番号に合わせる。
すると無事、ロッカーが開いた。
背伸びをしながら、大河のロッカーの中を見る真理。
驚くほど整頓されている。
大河は几帳面なのだ。
「男子って極端よね」
とエリゼ。
バレエ団にも、楽屋にそれぞれのロッカーが用意されていた。
男性ダンサーのロッカーを何度か覗いたことがある。
乱雑か綺麗に整頓されているか、そのどちらかだった。
「大河君らしい」
と、真理は思う。
しかし、この胸の高まりはなんだろう。
真理としては、息子とあまり変わらない年頃の男性のロッカーを開けたところで、母の気持ちにしかならない。
しかし、エリゼは違う。
若い男子のロッカー。
これはもう胸がドキドキしてたまらない。
エリゼのドキドキを真理の本心が何とか押さえつけている。
そうやって平静を保ちながら、素早く探し物を見つける。
レッスン着一式が入った布製のバッグだ。
幸い、すぐに見つかった。
バッグをつかみ、取り出そうとするもうまく引き出せない。
背伸びも限界だ。
「あっ」
という小さな悲鳴と共に、よろめく真理。
そして布製バッグを掴んだまま床に倒れこんでいた。
「おい、だいじょうぶか」
と真理に駆け寄る人影があった。
すぐに真理を助け起こしてくれた。
それは、大河に急遽ピンチヒッターを依頼した上司だった。
その上司は、真理が倒れた拍子に中身が丸見えになった布製バッグをまじまじと見つめていた。
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