アダージオ「体験」レッスン直前のハプニング
飛んだハプニング、あるある?
真理は慌てて、布バッグ方飛び出していた「練習着」を元に戻そうとしてた。
スパッツとTシャツ、それに黒いシューズ。
男性の稽古着は女性のレオタードとは違い華やかさとは程遠い。
黒と茶色、それからグレーのかたまりを、掴んでいる真理は視線を感じ、
顔を上げると、そこにはあの上司がいる。
「これは」
とその上司、広瀬が言う。
バレエの稽古着だとわかっているようだ。
「大西君はバレエをやっているのかね」
と真理に言う広瀬。
どう答えて良いかわからず、曖昧に頷く真理。
広瀬はそれ以上問い詰めることもなく、倒れこんでいる真理に手を貸した。
「じゃ、これは大西君に」
と広瀬が布製バッグを拾い真理に渡した。
いつの間にか、バッグの中身をきちんと整えていた広瀬。
「どうも、すみません」
と真理はぽつりと言うと、受け取った布製バッグを自分のロッカーにしまい込んだ。
まあ、上司の広瀬に見られたとはいえ、ミッション成功だ。
後は終業時間を待つだけだ。
今日は定時でここを出る、そう決めていた。
大河には稽古着を確保したことをメールで伝えたが返信はない。
忙しいのだろう、と大して気にも留めない真理。
その日、真理は幸いにも、大きなトラブルもなくいつもの業務をこなした。
これなら心置きなく、定時退社できるだろう。
退社時間が迫った頃、真理のデスクに置かれている社内電話が鳴った。
電話に出ると、大河の声がした。
「真理さん、ちょっとトラブってしまって」
と大河の焦った声がする。
「先方にお渡しする見積もり、間違っていて。
昨日、先方さんが要望を変えてて、作り直すはずだったらしいんですが前のものを持ってきていました」
と大河。
訪問先の顧客へ提出する見積書。
昨日、新たな要望が出たため、再作成をするはずが本来の担当者が急病になり、それが引き継がれていなかったのだ。
「あと一押しで契約取れそうなんですよ。だから最新の見積もりがないと」
と大河が言う。
「じゃ、少し待ってて。すぐに作り直して送信するから」
と真理。
共有フォルダを慌てて確認すると、その顧客の最新の要望がデータに残っている。
これを使えば、顧客が希望している見積もりを作成するのも簡単だ。
しかし。
時間は、すでに定時まであと数分。
いや、今は定時退社よりも見積もりだ。
一旦電話を切り、見積書を作りなす真理。
すぐに定時となり、周囲は片づけをして次々と去って行く。
机にしまっていた真理のスマホから何度も着信を知らせるライトが光る。
そっと覗くと、真由子や幸子からメッセージが入っているようだ。
この後のレッスンのことだろう。
「まだ、大丈夫。間に合うから」
と焦る心を落ち着かせる真理。
それに、この見積もりが出来上がらなければ、大河だって顧客先を離れられないだろう。
しばらくして、最新の見積書が完成した。
確認も済ませ、上司である広瀬に承認を求めた。
上司の承認がないことには、この見積書のデータを大河に転送することが出来ないのだ。
事の事情を説明し、広瀬に見積書データを確認してもらう真理。
広瀬は、素早く点検をし、そして承認をしてくれた。
これで、大河に転送すればいい。
真理が大河の持参しているパソコンにデータを転送すると、すぐに大河から電話がかかってきた。
見積書への礼を言う大河。
先方も満足してくれてるそうだ。
このまま契約の話になるという。
これで、真理の仕事は終わりだが、大河はそうはいかないだろう。
まだ顧客との商談が続く。
今日の、稽古に参加するのは難しいかもしれない。
その時、上司の広瀬が真理に電話を替わるように言ってきた。
そのまま受話器を渡す真理。
しばらく、大河と話しをした広瀬。
途中からは訪問先の顧客と話しているようだ。
そして、穏やかに、
「それでは、すぐに準備をさせていただきます」
そういうと電話を切った。
「真理さん、見積もりをありがとう。お陰で先方も大変乗り気でね。
先方の上席に当たる方と、テレビ会議でお話をすることになったよ」
と広瀬。
商談の話は、このまま契約となりそうで、上司同士の話となるのだそうだ。
オフィスにいる広瀬と、遠方にいる先方の管理職がテレビ会議をつないで、詳細を詰めていく。
「だから、大西にはもう帰っていいと伝えたよ。」
と広瀬が言う。
広瀬の判断で、大河を解放してくれたのだ。
「君も、上がってください。遅くまでありがとう」
と広瀬。
帰り支度をしていると、真理のスマホに大河からメールが届いた。
「話がまとまりそうなんで、あとはお偉いさん同士での打ち合わせになりました。
と言うわけで、わたしこのままあすかバレエスタジオに直行できることになりました」
と。
そうなれば、真理も急ぐだけだ。
散乱している資料をまとめ、デスクを片付ける。
ふと見ると、ガラス張りの会議室に、テレビ会議の準備が整っている。
これから、広瀬が先方の専務とここで話をするのだ。
それを横目で見ながら、真理は自分の大きな荷物と、大河の布製バッグを抱えて、
オフィスを出た。
そしてエレベーターを待っていると、向こうから広瀬の姿が見えて来た。
真理を見つけると、側に寄り、
「今日はバレエの稽古なんでしょう?
あの、今度わたしも参加させてもらえないだろうか?」
と広瀬が言った。
真理は、ただのおじさんである広瀬の姿をまじまじと見つめ、返事をすることも出来ずにいた。
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