ママの目標
子供の頃依以来のバレエのお稽古は?
「痛い」
と真理が顔をしかめた。
「大人のバレエクラス」を受けたその翌日だ。
ベッドから起き上がろうとした真理、足全体と腕が酷く痛む、筋肉痛だ。
足を引きずりながら、台所までとどりつく真理。
既に、食卓にいた舞香がその姿を見て笑う。
「でも、ママ、翌日に筋肉痛だなんてまだマシじゃいない」
と少しだけ皮肉も混じるのだが。
舞香が登校すると、出来る範囲で掃除をしてそれから、洗濯を始めた。
昨日使ったバレエの練習着やタオルを洗濯機へと詰め込んだ。
「もう少し、派手でもよかったかな。買い増ししようかしら。まだ使うしね」
と真理。
昨日のこと、
初めての大人バレエクラスには10数名の「生徒」が集まった。
年齢は色々、真理と同年代らしき女性もいたが、舞香とさほど年が違わないのでは、と思われる若い子も、それに孫の話をしている、年配の人もいた。
そんな「大人の生徒」たち。
真理が知っている顔はなく、安堵半分不安半分だ。
更衣室でレオタードに着替える生徒たち。
使いこまれた感のウエアを着ている若い子や、ここで慌てて商品タグを切っているマダム風の女性もいる。
真理にとっては舞香のお供で通いなれた更衣室。
周囲を見回す余裕はある。
「みんな綺麗」
と真理。
自宅のクローゼットで着てみたときには、なかなか様になっていたと思ったこの姿が、どうにも直視できずにいた。
「じゃあ、みなさん、バーについて」
スタジオに移ると、講師のいずみが明るく声をかけた。
バレエのレッスンではまず最初に、バーにつかまって姿勢や足さばきを整える“基礎練習”が始まる。
まずは身体を作り踊れる身体に仕上げていくのだ。
そのバーレッスン、どのバーに陣取るか。
それが問題だ。
舞香たちのクラスでは、上手い子と呼ばれている生徒が前、真ん中あたりに中堅、後ろの方に上達途上の生徒、といつも並び順が決まっていた。
しかし、今ここにいるのはほぼ皆、シロウトだし初めて顔を合わす者同士。
先頭にはなりたくない、誰もがそんな空気を醸し出す。
「じゃ、のあちゃん、先頭に」
といずみがあの若い子に声をかけた。
ためらうこともなく、のあはバーの先頭に歩き出した。
「それから、舞香ちゃんママはここね」
と真理が真ん中にと指示された。
他の生徒たちも、いずみがテキパキと振り分ける。
そして流れ始める音楽。
この日集まった大人の生徒たちは、ほぼ未経験者ということだったので、
いずみ先生はバレエのポディションをわかりやすく説明しながら、ゆっくりとした動きを中心にレッスンを進める。
バーでの基礎練習が終わると、いよいよバーから離れてスタジオの真ん中で踊るセンターレッスンに入る。
ここでも、立ち位置は重要だ。
生徒たちは四人くらいずつ並ぶよう指示された。
先頭列、中央にはのあがいた。
他の生徒たちはまたもや譲り合ってしまい、なかなか位置が決まらない。
ここでもいずみ先生が素早く声をかけ、皆を並ばせる。
真理はのあの斜め後ろにいた。
前面が鏡張りのスタジオで、すべてを映すセンターレッスン。
自分の姿が嫌でも目に入る。
斜め前ののあはまるで舞香のような長い手足、小さな頭と細い首、見た目にも美しい立ち姿だ。
その後ろで、
「私は何て醜いんだろう」
と自分の姿を見た真理が思う。
鏡に映る己の姿を直視できないのだ。
自分とさほど変わらないと思われる体型の女性もいる。もっとふくよかな人も。
それでも、目をそらしている気配はない。
優美なレオタードに身を包んだ自分自身に見とれている様だ。
「舞香ちゃんママ、床には何も落ちてないわよ。下ばかり向かないの」
といずみ先生に言われて、渋々顔を上げる真理。
周囲から少しだけ笑い声が上がった。
「さあ、5番ポディションから右足を前にタンジュ、手をアンオーに」
といずみ先生。
足をきちんとそろえる五番のポーズから、右足を前にすっと足先まで伸ばし、両腕を頭の上丸い形を作る。
よくあるバレエのポーズの一つだ。
そう言えば、こんなにつま先を伸ばすなんて、何年ぶりだろう。
バレエは普段使わない筋肉ばかりを酷使するのだ。
センターレッスンではジャンプや回転、それからステップを組み合わせて踊る。
真理も、他の生徒たちももう必死だ。
「そんな怖い顔しながら踊らないの」
といずみ先生が指摘するが、動作を覚えるのに夢中でつい表情が固まっている。
そして、音楽に合わせて優雅にお辞儀をするレヴェランスで、今日のレッスンは終わった。
本当に優雅だったか、は置いておいて、皆とても表情が明るい。
「先生、ありがとうございました。とても楽しかったです」
と一番年長らしき生徒が言う。
他の生徒も同様に、達成感を口にしていた。
真理も、同じだった。
舞香のレッスンと比べたら格段に初心者レベルだが、この充実感がなんだろう。
汗びっしょりになったけれど、少しも不快ではない、むしろすがすがしい気持ちでいっぱいだ。
「みなさん、これからも続けてくださいますか?」
といずみ先生が皆に問いかけた。
もちろんその場の全員が頷く。
「このままレッスンを続けていけば、ここあすかバレエスタジオの次の発表会に、大人クラスとして参加できると思いますよ」
といずみ先生。
「発表会ですって」
と声が上がる。
真理の胸も高鳴った。
また、舞台に。
今度は袖から見ていた保護者ではなく出演者だ。
真理の目標が、次の発表会に出る、そう決まった瞬間だった。
★作中に出てきたバレエ教室のレッスン風景について、少しだけ補足です★
大人の初心者クラスでは、だいたい次のような流れでレッスンが進みます。
・まずは、鏡の前でバーという手すりにつかまって行う“バーレッスン”。
足首や膝を曲げ伸ばししたり、足を前や横に伸ばしたりして、姿勢や体の使い方の基礎を練習します。
・そのあとに続くのが“センターレッスン”。
今度はバーから離れて、スタジオの真ん中で、簡単なステップをつなげたり、小さな踊りの形にしていきます。
実際の振り付けに少し近づいた内容で、『踊っている』感覚が一番味わえる時間かもしれません。
レッスンの最後は“レヴェランス”という、お辞儀のステップで締めくくります。
音楽に合わせて優雅にお辞儀をして、先生や一緒にレッスンを受けた仲間に感謝を伝える、小さな儀式のようなものです。
バレエを習ったことのない方にも、少しでもお稽古の雰囲気が伝わっていたらうれしいです。




