真理の普通の日々
家族だからわかること
「お帰り、お茶はどうだった?」
家に戻るなり、声をかけてきたのは舞香だ。
「あれ、バイトなんじゃ?」
と真理。
カトレア・クラブのオープンクラスを受けた後、バイトにむかったはずの舞香がもう家にいる。
「今日はシフトが短かったのよ」
と舞香が言う。
時計を見ると、もう夕方とは言えない時間だ。
すっかりカフェで長居をしてしまったようだ。
「真由子さんとのおしゃべりは楽しかったの?」
と舞香が有り気に笑った。
「まあ、楽しかったわよ。あの自信満々な人のお相手は疲れたけどね」
と真理。
「だよね」
と舞香も言った。
そのまま真由子の話題となったが、舞香を巻き込んで人の批判は良くない。
「それだけバレエが好きなのよ」
と真理はそう真由子を擁護した。
「で、スタジオ・アーツインのレッスンには行くの?」
と舞香。
カフェでお茶した後の帰り際、真由子がスマホのスケジュールを見せながら、
「じゃ、この日にスタジオ・アーツインのレッスンでどう?るみさんが担当するのはこの週はここしかなくて。私は、他のクラスでもいいけど真理ちゃんはやっぱり不安よね」
と真由子が言った。
スタジオ・アーツインのレッスン、難易度ごとにクラスが分かれてはいるが、なんせ受講者が何ともハイレベル。
いずみ先生の友達だと言う、るみ先生の受け持つクラスを受講するのが無難だ。
いくらエリゼが憑依しているとはいえ、真理の身体では一番基礎のクラスを受けるのが妥当だろう。
「お気遣いありがとう。私はやはり不安なのでるみ先生の基礎クラスだとありがたいです」
と真理が真由子にそう答える。
真由子は、なんだか満足した様子で真理の言葉に頷いていた。
「アーツイン、いずみ先生のお友達が講師をやっている基礎クラスを受けてくるわ」
と真理が舞香に言う。
「そうだね、それがいいと思うよ。あとは周りに驚かないでね。誰もママの事なんか見てないからさ」
と続ける舞香。
プロ級のダンサーばかりが受講するレッスンの中で、真理が卑屈にならないかと舞香は心配しているのだ。
「目の保養にはなりそうよね」
と真理が言った。
かつて、受けたことのある、スタジオ・アーツインのレッスン。
羨望の眼差しを向けられ続けたのを覚えている。
「舞香、明日の予定は?」
と真理。
バレエの話は一旦置いておき、日々の会話に戻る母娘。
真理が舞香の予定を前日に確認しておくのはいつものことだった。
「明日は、学校が6時間目まであるし、その後進路相談があるから少しだけ遅くなるわ」
と舞香。
「進路相談?」
と真理が聞いた。
舞香の通っているのは、大学の付属高校。
そのままストレートに大学まで進学することが出来る。
高校の成績によっては、進学できる学部が限られたり、進学そのものが難しくなる場合があるのだが、舞香の成績ならそんな心配はないようだ。
「そうよ、大学の事。もうすぐ親子面談もあるから、その前準備かな」
と舞香。
舞香はその後自室に戻り、真理は一人リビングにいた。
「ふぅ」
とため息をつく真理。
今日も真理として難なく過ごすことが出来た。
この時間、舞香が部屋に戻れば次に顔をあわせるのは明日の朝だ。
家事や、仕事に関しては潜在的に残っている真理の能力がこなしている。
エリゼの本性が出やすいのは、何といっても会話だ。
特に、一番身近で接している娘の舞香には気を遣う。
エリゼとしては、真理の身体を借りて自分のミッションを成し遂げられればそれでいい。
その間、自分と関わる人たちの事、当たり障りなくいつもの日常が流れていけばそれでいい。
そう考えていた。
真理が台所の片づけを終えて、自分も寝室に戻った。
台所には、舞香が使った食器がそのままシンクに入ったままだった。
その食器を洗い、使ったであろうダイニングテーブルを拭き、そして冷蔵庫の中を確認し明日の弁当のおかずを考えた。
弁当、舞香が学校に持っていく昼食だ。
それを毎日真理が作っている。
エリゼは今の舞香の年齢の時には、既にパレ・ロワイヤルバレエ団の団員として働いていた。
自宅を出て一人暮らしをしながら、家の事はすべて自分でやっていた。
エリゼの国では、舞香の年齢ともなると自分の事は自分でする、それが当たり前だ。
高校を卒業すると、家を出て独り立し親に頼らず生活をする。
舞香はまだ高校生だが、あまりに自分の事を真理に頼り切っている。
あの様子では、卒業してもずっと家に居座るつもりなのだろう。
それは、エリゼにとってある意味の文化の違いだった。
それを受け入れながら、真理として暮らして行く。
なかなか難しいことだ。
「今日は普通だったかな」
自室に戻った舞香がつぶやいた。
この前から感じている真理への違和感。
どうも、真理であって真理ではない、そんな気がしてならないのだ。
「誰かが乗り移っちゃったのかしら」
と舞香。
しかしその確信はない。
しかし舞香の心に真理に対する、疑心暗鬼が生まれていることだけは事実だった。
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