ママ、バレエ始めるから
バレエをない日常が始まりました。
舞香がバレエを「辞めて」数日が経っていた。
その日も、舞香と母の真理が二人きりで食卓に向かっていた。
「おかわりは?」
「いらない」
「お茶は?」
「いい」
夕食を前にして、そんな乾いた会話がポツリ、ポツリと交わされた。
大澤家の食卓に舞香と母真理以外の姿はない。
大澤家は閑静な住宅街にあるマンションの一室だ。
南向きの広いリビングに、個室が2つ、それに和室。
新築だったこの家に住み始めて10年になる。
真理の夫であり舞香の父、祥太、それに長男の和人との4人家族である大澤家。
祥太はそこそこの企業で技術者として働いている。
今は、海外の研究室に長期出張中だ。
そして長男の和人は舞香より三歳年上。
遠方の大学に進学したため、絶賛独り暮らしの学生生活を満喫中だ。
こちらも、実家に帰省するのは長期休暇の時くらい。
と言うわけで、普段は真理と舞香、二人だけの生活が続いている。
平日は、舞香を学校へ送り出すと、真理は自分も身支度をしてパートへと出かけていた。
週4日、9時から3時まで、近所の小さな会社の事務員だ。
仕事が終わると、
今までは、買い物を済ませて家に帰りそして朝出来なかった家事を済ませるのが真理の日常だった。
夫も長男もいない、娘の舞香はバレエのレッスン、帰宅は遅い。
夕食を一緒にとることも少なかったが、真理は稽古を終えてお腹を空かせて慌ただしく箸を動かす舞香の前に座り、あれこれと話かかけた。
その日の調子、レッスンの事。
これからのこと、もちろんバレエに関すること限定だ。
舞香も嫌がることもなく、いろいろと母に話をした。
ずっと続いていたこんな日々。
これからも、ずっとこのままだと思っていたのに。
舞香がバレエを辞めてから、帰宅する時間がその日により変わった。
放課後、寄り道してくる日もあれば、まっすぐ帰宅する日もある。
真理より早く帰っていることもあった。
「踊らなくなったら途端に太ったなんてことにならないようにね」
と真理がその日の夕食を並べながら言った。
真理はまだ、舞香がバレエを「辞めた」と口に出せずにいた。
「そうだね、辞めたら太っちゃうよく聞くもんね。でもささみはしばらくいいかな」
と舞香。
舞香ははっきりと「辞めた」と言う。
「みゆちゃんの親戚がやってるお好み焼き屋さん、おいしかったよ今度行こうよ」
と舞香が言う。
クラスメイトと一緒に放課後、お好み焼き屋さんで夕食を済ませくる、そう聞かされたのはその日の朝だった。
そのために、少しだけ臨時にお小遣いを渡した真理。
舞香は「ありがとう」と言って小遣いを受け取った。
今まで、学校が帰りに友達と「寄り道」などしたことのない舞香。
高校生ともなれば、そんな付き合いにも金がかかる。
「今度、バイトでもしようと思うんだ。そうしたら返すね」
と舞香は言った。
舞香の通う私立の学校は自由な校風で、届け出さえすれば高校生のアルバイトも許されていた。
それから、舞香は余すところなく高校生活を楽しんでいた。
友達とのお出かけ、時々のアルバイト、それから部活にも入った。
以前から興味のあった、「英語劇部」だ。
夕食時には、その日にあったこと、友達とのたわいないやり取りや、部活の事色々と真理に話す。
母娘二人きりの食卓ではあるが、何処から見ても何の問題もない、仲睦まじい親子の姿がそこにあった。
実際、バレエを辞めてから舞香が母を避けるような事、母真理の舞香に対する態度が変わった、などと言うことはなかった。
舞香は少しだけ母に引け目を感じていたし、真理は舞香に気を使っていた。
それから、数日たっても、1か月が経ち、2か月が経っても、
舞香がバレエを再開したい、と言い出すことはなかった。
真理はやっと舞香が本当にバレエを諦めたのだと、だんだんと自分に言い聞かせていたようだ。
そして、
真理は今までにない、「手持ち無沙汰」を感じていた。
すっかり減った洗濯物。
夜なべ作業の裁縫もない。
バレエのために金を工面する必要もない。
何が何でもお金を稼がなくてはいけない理由がなくなった今、パートにも身が入らなくなっていた。
そのためか、真理は急な体調不良を起こすことが増えていた。
その日も、朝からめまいを感じて仕事を休み家にいた。
寝込む程ではなかったが、リビングのソファに横になっている真理。
普段は見ない、朝の情報番組をぼんやりと見つめていた時だった。
真理のスマホが鳴った。
見ると、舞香のいたバレエ教室の先生からのメールが届いていた。
「舞香ちゃんママ」
と言う題に続いて、
「お元気でしょうか。舞香ちゃんはどうしていますか?」
という諸侯辞令的なあいさつと、
「この度、当あすかバレエスタジオに大人のためのバレエクラスを新設することになりました。
舞香ちゃんママは子供の頃、習っていらしたんですよね、経験者の方が参加してくださると、初心者の方の見本にもなるしとてもありがたいのですが、どうでしょうか、このクラスにいらっしゃいませんか?」
と言う文面が綴られていた。
「大人のクラス」
と真理はつぶやいた。
その頃、大人が習うバレエ、が密かに流行り始めていた。
子供の頃、バレエを習うことの出来なかった大人の女性たちが、大人のためのクラスでバレエを始める。
バレエは小さなころから始めて、地道な稽古の毎日、そんな概念が少しずつ変わっていこうとしていた。
「もう一度、私がバレエを?」
と真理がつぶやいた。
そう、つぶやいただけで胸が高鳴った。
また、バレエを踊りたい、もう一度踊りたい。
そんなきもちがあふれ出す。
その日の夕方、舞香と二人の夕食の席で、真理は堂々と宣言した。
「ママ、バレエ始めることにした」
と。
娘が辞めたなら、母がやります、って思ったようですね。




