真理の中のエリゼ
いよいよ真理として始動するエリゼ
合同発表会の翌日は月曜日。
新しい一週間、いつもの日常が始まる。
その朝、舞香はアラームで目を覚まして、自室から居間へとむかった。
家の中がしんとしている。
人の気配がない。
母がまだ起きていないのだ。
「さすがにお疲れね」
と舞香がつぶやいた。
昨日は朝から会場入りし、発表会の続いて打ち上げ、家に帰り着いたのはかなり遅い時間だった。
「でも、ママは」
と舞香。
今までの母は、どんなに忙しくても疲れていても、舞香と兄、そして父、家族の事をおざなりにすることなど決してなかった。
朝は誰よりも早く起きて朝食の準備をして、夜は、まあ、最近は舞香の方が夜更かしだが、
遅くまで色々と家事をこなしている。
そんな真理だから、自分の用事で疲れた日の翌朝に、寝坊をするだなんて考えられない。
舞香に昨夜の違和感がよみがえった。
「あら、おはよう。遅くなってごめんね」
とそこに真理の声がした。
姿形はどう見ても、母、真理だ。
声も普段の母の声だ。
舞香はしばらく真理を眺めたが、おかしな点はどこにもないようだ。
「さあ、朝ごはんの支度、急ぐわね」
真理はそう言うと、台所へと向かい、舞香のための朝食の準備をした。
トーストに、ゆで卵、それにフルーツ。
いつもの朝食だ。
「ママ、今日は?」
と舞香が真理に聞くと、
「仕事よ、今週も始まっちゃったわ」
とさらりと言う真理。
やはりいつも通りだ。
昨日の違和感、あれは気のせいだったのだろう。
ほどなく、舞香は登校のため家を出た。
放課後はバイトだ。
それを伝えると、母は、分かったわ、とそれだけ言って、
「行ってらっしゃい」
と舞香を玄関先で見送った。
「この人には、すこし、いやいやだいぶ後ろ向きなところがあるから、まずはそこね」
と真理の姿をしたエリゼが言う。
舞香を送り出し、一人になった家の中で。
「それにしても、朝からトーストって、クロワッサンの方がずーっと美味しいでしょう」
と独り言を言うエリゼ。
その日の予定は既にエリゼの脳裏にインプットされている。
今日はこれから仕事だ。
その前に、洗濯と掃除、家の事をする。
これもごく自然にこなした。
「なんで、朝のストレッチをしないんだろう」
とエリゼ。
真理としてごく自然に振る舞えるように、その日常生活は既に心に刻まれているエリゼ。
しかし、バレエを踊る人でありながら、そのための体のメンテナンスがほとんど日常にはない。
それが不思議でたまらないエリゼだった。
勤務先に着くと、すでにフロアには大西大河の姿があった。
周囲にはまだ人影は少ない。
大河は真理の席まで出向き、
「真理さん、昨日はお疲れ様でした。素晴らしかったですよ、僕もまた踊りたくなっちゃったな」
と声をかけた。
「素晴らしい、の?」
とエリゼ。
あの「パキータ」と似て非なるもの、あれが素晴らしいとは。
お世辞にもほどがある。
「この人は、ダンサー向きね」
大河の立ち姿を見たエリゼはそう思った。
バレエ向きの骨格と、ダンサーらしいオーラをこの大河から感じることができたのだ。
「じゃあ、踊ろうよ、大河君も」
と真理。
しかしその時、数人の社員たちがフロアに入って来た。
大河はすっと真理の側を離れて行った。
それでも、大河から、社内ツールのチャットが真理の元に送信された。
ーそうなんですよ、バレエ再開しようかと思ってるんです。
昨日の真理さんたちを見て、なんだか背中を押してもらった気分ですー
ーそんな、私たちなんて。でも大河君ならすぐに主役なんか踊れそうー
ーいやいや、あくまでも趣味ですから舞台に出ることは考えませんよー
ーで、何処で習うの?ー
ー康太さん主催の教室に、オープンクラスがあるのでそこに行こうかとー
ー真理さんは外部のオープンクラスなんかには行かないんですか?-
ーもういずみ先生のお稽古だけでやっとだもの、そんな余裕はないかなー
ーじゃあ、いつか一緒に受けましょうよ。このあたりだとスタジオ・アーツインが有名ですね、
ぜひそこにでもー
スタジオ・アーツイン、
バレエ専門のダンス練習スタジオだ。
幾つものオープンクラスがあり、現役のプロダンサーや海外留学生が帰国のして時にレッスンを受ける、
レベルの高い事で有名なスタジオだ。
オープンクラス、曜日を決めて月謝を払い通う「教室」とは異なり、その都度チケットを買って受けられるバレエのレッスンだ。
誰でも受講可能だが、スタジオ・アーツインはレベルが高く、「初級者」と言うクラスでさえ、
周囲はまるでプロ級のバレリーナ、よほどの自信がない限り安易に参加したりは出来ないのだ。
そして、そのアーツイン、かなり昔からあるバレエスタジオだ。
その歴史はかれこれ半世紀になる。
エリゼもかつてパレ・ロワイヤルバレエ学校の生徒として来日した時、
このアーツインを訪れた。
スタジオから、ぜひここでレッスンを、と招かれたのだ。
一般の受講生と一緒に稽古をした。
レベルの高い周囲の受講生でさえ、視線が自分に釘付けになっているのがわかった。
羨望の眼差しが向けられていた。
自分は、世界で最エリート、バレエ学校の生徒なのだから。
その後、大河と真理のチャットはしばし、スタジオ・アーツインの事で盛り上がった。
参加するクラスを間違えて、バーレッスンから途方に暮れたことがあると言う大河。
「そうよね、センターなんてなんであんなアンシェヌマン、って思うわよね。
それも裏からとか」
と真理の中のエリゼが思わず熱く語ってしまった。
ー真理さん、本当に詳しいですよね。これはますます一緒にレッスン受けたくなってきたー
と大河。
「そうね、機会があればぜひ」
と真理が返信をした。
それは、真理ではなくエリゼの気持ちだった。
あくまでも、バレエ仲間としてだが、エリゼはこの大河に興味を持ち始めていた。
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