「ネガティブ」思考
「ネガティブ」
と真理に向かって誰かが言った。
ハッとして周囲を見渡したが、声の主は見当たらない。
これは、幸子でも、晴美でもない。
「ネガティブか」
とポツリと漏らす真理。
その言葉は、幸子と晴美に聞こえたようだ。
二人とも不思議そうに真理を見た。
「ネガティブ、かなあ?」
と幸子。
「いつも前向きに見えるけどな」
と晴美。
ふたりにはもちろん聞こえていない「謎の声」
「え、そうかな」
と真理。
そこから、思いがけず「ネガティブ」論争が始まった。
幸子は今までの人生、いつも誰かの言う通り。
子供の頃は親の言われるがまま、結婚してからは亭主関白な夫に高圧的に支配され、それは今でも続いている。
それでも、一念発起してバレエを始めた。
小さな頃、習いたかったクラシック・バレエ。
それを言い出すことも出来ず子供時代は過ぎていた。
職場で知り合い結婚した夫は、良くも悪くも「昭和」の人。
仕事一筋で、幸子と子供たちに何不自由のない生活を送らせた。
しかし、家ではその存在は絶対的だ。
結婚にあたって幸子には今までの仕事を辞めて、家に入り家事育児に専念することを望み、いや望むという名の強要をした。
幸子は専業主婦として家庭を守り、子供を育て、気付けば家には定年を迎えた夫と二人だけになっていた。
子供たちが大きくなってからやっと「パート」として働きに出た幸子。
社会とつながるのは、何年ぶりだろう。
その頃になると、さすがの夫も家に縛り付けておくことも出来なかったのだ。
自分で稼いだ金で、自分のやりたいことをやる。
幸子が初めて自分から抱いた希望だった。
それが、バレエ。
幸子から「バレエを習う」と聞かされた夫は最初、鼻で笑った。
「こんなおばさん、いや婆さんがバレエだなんて」
と。
しかし幸子は全くひるむこともなく、夫を言い含めた
「これからは、私も自分の楽しみのために生きてみたい」
そう言う幸子の目は輝いていた。
そんな揺るぎのない幸子の言葉に、夫はそれ以上何も言わなかった。
ただ一言、
「怪我はするなよ」
とだけポツリとこぼしただけだった。
「この前の発表会も観に来てくれたんだって。私の知らない間に」
と幸子。
どうやら幸子には内緒で舞台を観た後、面会もせずに帰ったようだ。
家に帰ってもそのことには触れなかったかが、家の掃除をしていて発表会のプログラムが夫の書斎に会ったのを幸子がみつけたのだった。
「なんだ、ラブラブなんじゃない。幸子さん以前はネガティブ思考だったかもしれないけど、今はとてつもなく前向きじゃない」
と晴美が言った。
「真理ちゃんだって、なんでネガティブなのよ。いつも充実してます、って顔してるのに」
と晴美が真理に矛先を向けた。
「そうね、私も子供の頃かな。バレエを習っていたことは話したと思うけど、本当に落ちこぼれで。
今でもその頃のマイナス思考から抜け出せないの」
と真理。
「そう言う晴美ちゃんはどうなの?晴美ちゃんも憧れのバレエを始めたんだよね。
バレエで言うなら、今回も私たちよりワンランク上だし、前のときだって選ばれたじゃない」
と幸子が言った。
晴美はこの三人の中では一番背が高く、細身だ。
立っているだけど美しい。
「それはありがたいと思っているんだけど、もっと頑張りたいかな。無謀だと思われるかもしれないけど、いつかはグラン・パ・ド・ドゥを踊ってみたい」
と晴美が言った。
「晴美ちゃんなら出来そうだよ」
と幸子。
手放しで晴美の夢を絶賛している。
「そうね、すごい目標じゃない。がんばって」
と真理。
真理にはそう言うのがやっとだ。
こんなに堂々と自分の夢を語れるなんて。
自分にはできない。
羨ましい。
夢を口に出して言う、それはいつか言霊になるかもしれない。
それなのに、自分には出来ない。
真理の心はまたあの闇が襲っていた。
それと同時に、
「晴美ちゃんじゃだめなの?」
と心で問いかけた。
あの、時々聞こえる声にだ。
何か、目標を持っている誰かを探している。
それは真理にもわかった。
しかもバレエに関することらしい、それもだ。
だったら、はっきりと夢を宣言した晴美は適任ではないのか。
「うーん、彼女ねえ、ちょっと足りないのよね、何というか芯の強さっていうの?
本気度っていうのかな」
とまた声がした。
「選り好み激しいのねえ」
と真理が半ば呆れて声に投げかけた。
「ねえ、どうしたの?ぼーっとして」
といきなり晴美に肩をゆすられる真理。
声の気を取られていて、二人の話を全く聞いていなかった。
カフェのテーブルはいつの間にか注文していた品の皿やカップが下げられていた。
「そろそろ行きましょう」
と幸子。
「そうね、買い物は各自でっことで」
と晴美。
「各自って」
と真理が言うと、
「どうしたの?何も聞いてなかったとか?ポイントカードのある地元のドラッグストアで買った方がお得だね、ってことになったじゃない」
と晴美。
そう言われてぼんやりと耳に入っいた会話を思い出した真理。
荷物を持ち、席を立った時、改めて周囲を見渡して耳を澄ませてみたが、「声」はもうどこからも聞こえることはなかった。




