「エリゼ」を知る者
大河に何が?
「エリゼ・リデル」
とつぶやく小西大河、しかしその眼はどこかうつろで焦点が定まらない。
「お、来たな」
と大河を見つけた康太が声をかける。
「どうした、ぼけっとして」
と言いながら。
「え、そうですか?」
と大河。
もう目つきはいつもの大河だ。
「トロワの配役のこと、舞香にバレたぞ」
と康太は気まずそうだ。
「そ、そうなんですか?」
と思わず康太に詰め寄るように言う大河。
「舞香とすれ違ったんだろ?どんな様子だった?」
とそっと大河から離れた康太が聞いた。
スタジオに通じる細い廊下、今しがた出て行った舞香と入って来た大河。
すれ違わずには歩けない。
「すれ違った、かなあ?」
と大河が首をかしげる。
あの時。
独り言をつぶやきながら、足早に廊下を歩いていた舞香。
「エリゼ」
そう声を出してつぶやいたのを聞いたはずの大河。
しかし、そのあたりの意識が曖昧だ。
そう言えば、エリゼ、なんだっけ、確かに誰かのフルネームを口にしていた舞香。
その名、しっかり聞いたはずなのに思い出せない。
まるで深い霧でもかかっていたかのようだ。
「それで、もう決定なんですか?」
と大河。
もやもやとした感覚を振り払うかのように言う。
パドトロワの配役だ。
大河も真由子に代わったのが腑に落ちない。
舞香が抜擢されたことは、誰もが認める。
技術的にも、ビジュアル的にも適役だ。
そのペアとなるもう一人の女性ダンサー。
母の真理でいいではないか。
確かに、真理ではあらゆる面で役不足だ。技術的にも見た目のアレ的にも。
それでも、あくまでも発表会での披露だ。
プロの舞台ではない。
演じる側が「大きな挑戦」をしてもかまわない。
むしろ賛辞に値する。
その賛辞を贈られる者、が真理ではなく真由子になるということだ。
真理とは同僚でもあり、バレエ談義の相手。
まあ、主に話し相手になっていたのはエリゼなのだが。
いずみ先生の大人のクラスの生徒の中でも別格の存在だ。
真理と踊れるなら、それは光栄にすら思う。
すっかり考え込んでいる大河。
真理のバレエに対する想いを知っているからだ。
「真理さんは本当に一途というか一生懸命で健気なんですよ」
と大河。
「だから、バレエでいい思い出を残してほしんです」
と続ける。
真理のバレエに対する複雑な想い、子供の頃の事を聞いたことがある。
切ない思い出だ。
そんなことをすべて払拭できる素晴らしい経験になると思ったのに。
「だよなあ、でも主催は俺たちじゃないから」
と康太が頷きながら言った。
「僕は、本音としては舞香ちゃんと真理さんとで踊りたいです。
これは正直な気持ち。でも」
と大河。
舞香ともう一人の女性ダンサーと大河で踊るパドトロワ。
大河はゲストダンサーとしての出演だ。
プロでもない大河としては、決して立場は強くない。
主宰者から言われたら、受け入れるしかない。
「もちろん、誰が配役されても僕は全力を尽くすだけですけどね」
と大河が言う。
この姿勢だけは康太に見せておかないと、そう思ったのだ。
「まあ、近いうちにいずみちゃんの本音を探ってみるよ」
と康太。
まだ配役は正式にいずみ先生の生徒たちに伝えられていない。
その前に一度話を、そう考える康太だった。
「で、今日呼び出したのは何なんですか?」
と大河が言う。
今日は、残業ということで稽古を休んだ。
しかし、トロワの配役の件が気がかりで踊る気分になれなかったのだ。
「大役が控えてるんだから休んでる場合じゃないだろ。これから、補習するぞ」
と康太。
その眼は完全に講師の眼差しだ。
「まあ、気持ち的には複雑だけど、しっかりと踊れないとだよね」
と大河も頷いた。
「おまえには、俺の代役も頼みたいんだ」
と康太。
あすかバレエスタジオの発表会のメインとなる「白鳥の湖」
康太先生は、「王子」として出演する。
主役であるオデット姫には、あすか先生のバレエクラスで一番の生徒が務める予定だ。
舞香と共に稽古をしてきたかつての仲間だ。
康太先生とその生徒は別枠での稽古となるが、何かと多忙な康太先生。
稽古に参加できない時もある、そういう際の代役として大河が指名されたのだ。
「それに、次のうちの勉強会、お前と舞香で白鳥のグランはどうだ?」
と康太が言った。
康太先生の主催するバレエ教室では発表会とは別に「勉強会」を開催している。
幕物はなく小品ばかりを生徒たちが踊る。
会場も発表会と違って小さな舞台だ。
それでも生徒たちの希望を聞き入れて演目を決める「勉強会」
任意参加ではあるが、毎回生徒のほとんどが参加している。
「グランか」
そう言いながら、康太に言われた補習を受けるために準備をする大河。
「エリゼと踊れるんじゃないの?」
とまた声がした。
康太の眼は先ほどと同様にうつろになっている。
「僕の夢、叶えてくれるじゃないの?ねえ、叶えてくれるんだよね」
と大河がか細く呟いている。
「おい、大河準備できたか?」
と康太が更衣室の大河に声をかけた。
その横顔、大河は全くの無表情だ。
具合でも悪いのかと、慌てて駆け寄る康太。
その時、更衣室の壁にかかっていた鏡が眼に入った。
そこには、あきらかに大河ではない「誰か」が映っていた。
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