凍れっ!
あっ……俺死ぬ。
上下が逆になった世界の中、ナツはぼやけた思考であまりに呑気にそんなことを考えた。
頭が痛い。
後頭部がパリパリと音を立ててる。
髪の毛がぐっしょりと濡れて固まっていく感覚がする。
多分、頭のどこかが割れて血が凍ってるんだろう。
恐らく重傷。
氷結病じゃなかったらとっくに出血多量で死んでる。
でも、それは運が良いことでは決してない。
この病気で運が良かったことなんて一つもない。
身体が動かない。
空気の劈くことが耳の中を響き渡る。
唯一動かせる血色の瞳を上に向けると砕けた氷塊の散らばった水浸しのアスファルト、目の前で滝となって流れ落ちて地面を殴る冷水、そして呆然と空を見上げているたくさんの人達が見える。
そこでようやくナツは自分が地面に向かって落下していると言う事実を理解する。
前後は分からない。
後頭部にいきなりドスンっと痛みと衝撃が走り、視界が真っ暗になった。
そして気付いたら世界が上下になって身体が動かなくなった。
恐らく溶けて氷塊となった氷柱が頭の上に落ちてきたんだ。
茶トラ猫を助けるのに夢中で周りのことなんてまるで見えてなかった。
最後の最後でしくった。
カッコ悪いにも程がある。
まあっいっか。
ナツは、胸中で力なく呟く。
最後の最後で小さな命を救えたんだ。
俺の人生の締めとしては上出来だ。
どうせ生きてたってあるのは暗闇の隅で解けずに残った汚い雪のような人生だけ。
決して日に当たることはない。
逆に日に当たった時点で溶けて消えてしまう。
当たり前の中の人生なんて自分にはないのだ。
それでも……。
学校は楽しかったな。
姉に無理やり行くように言われた学校。
小、中は全く誰にも相手にされず、汚染物のように晒されながらも勉強は楽しかった。
絵を描く楽しみも覚えた。
誰も見てくれなかったけど。
高校は、行くつもりはなかったけど姉の強い勧めと偶々成績が良かったばかりに進学校に入学出来た。
それでも変わらない汚染物扱いだと思ったのに……。
お前凄えなぁ!
輝くような存在がナツを見て笑った。
初めての友達だった。
それでも自分を怖がってどこかに行ってしまうだろうと思ったのにあいつはどこにも行かなかった。
ずっと俺を見てくれた。
気付いてくれた。
初めての友達。
初めての親友。
そんな親友の夢を奪ったのに謝ることすら出来ない。
ごめんな三春……。
血色の瞳から薄い涙が落ちる。
ごめん……本当にごめん。
次に浮かんだのはアキだった。
自分のせいで元気な身体と記憶を失い、それでも自分を愛し、人生の全てをかけて救ってくれた姉。
いつだって見てくれて、いつだって気付いてくれた。
何にも……恩返し出来なかったな。
いや、俺がこのままいなくなるのが恩返しなのかな?
そうすればアキを縛るものはなくなる。
自分の為に生きなくていい。
自分の幸せの為に人生を費やせる。
ありがとう……姉ちゃん……。
幸せに……なってね。
ナツは、目を閉じる。
「……真冬……」
誰よりも可憐で、誰からも好かれ、だけど誰よりも深い傷を負い、泣き続けながらも誰よりも美しく輝く少女。
日に日に強く、明るく、愛らしくなっていく少女にナツはいつも癒され、励まされていた。
もう……自分がいなくても立派に生きていけるはず。
「元気でな……真冬……」
ナツは、真冬の愛らしい笑顔を思い浮かべ、そっと目を閉じる。
せめて最後くらいは一瞬で終わらせてくれ。
そう願いそっと心を閉じる。
「……んっ!」
「……くんっ!」
「……ツ君っ!」
「ナツ君っ!」
心痛な叫びが呆けた頭と閉じた心を呼び覚ます。
血色の瞳が開く。
クリアになった視界の真上に泣き叫ぶ愛しい少女の姿が映る。
「ナツ君ッ!ナツ君ッ!」
真冬は、顔を涙で汚して悲鳴を上げる。
「嫌だ!ナツ君ッ!嫌だっ!嫌だっ!」
真冬は、叫ぶ。必死に叫ぶ。
「私を……私を1人にしないで……ナツ君ッ!」
血色の瞳が震える。
俺は、あいつになんて言った?
見ててやるって言った。
気付いてやるって言った。
お前は、星上真冬で良いと言った。
それは誰の役目だ?
三春?
姉ちゃん?
同級生?
スタッフ?
違う!違う!!違う!!!
それは……。
「俺の役目だ!」
感情が場発する。
弾けるように右腕が動き、滝のように流れ落ちる冷水に突っ込む。
茶トラ猫の毛と体液の混じり不凍液と化した冷水はナツの右手を飲み込んでも凍らない。
「……れ」
ナツは、空気と速度と重力の網に逆らい身体を捻りもう左腕も突っ込む。
痛い。
手が千切れる。
グチャグチャの挽肉になりそうだ。
それでもナツは、両手を引かない。
冷水の滝の中で拳を握りしめ、叫ぶ。
「凍れ……!」
それは生涯で決して願うことのないはずの叫び。
「凍れえええええっ!」
ナツは、叫ぶ。
必死に。
心から。
ひたすらに願う。
ひたすらに祈る。
凍れ……と。
ピシッ。
ピシシシシシッ。
固く握られた両の拳を中心に白い筋が視神経のように伸び、広がっていく。
滝の表面に薄い氷が走り、ナツの両腕を覆う。
速度が落ちる。
除雪機のように氷を削り、血と氷粒を飛ばしながら落下する。
地面が迫る。
氷解がアスファルトに落ちて砕け散る。
真冬の、三春の、人々の焦燥と不安に駆られた顔が飛び込む。
そして……。
鼻の先がアスファルトに触れそうになる。
血と氷粒の飛沫が止まる。
宙吊りの姿勢となったナツの身体が本を開くようにパタっと地面に落ちる。
アスファルトの固い感触が背中を打つ。
溶けて濡れた鉄の網棚と差し込む陽光が血色の瞳に飛び込む。
ナツは、凍てつき、削られた滝から両手を持ち上げる。
血と氷粒に塗れ、しかし5本の指と痛みを持った自分の両手を見る。
「生きてる……」
ナツは、きゅっと痛みの走る両手を握る。
「生き……てる」
もう死んでもいいと思ってたのに……。
ようやく楽になれると思ってたのに……。
生きてることがこんなに嬉しいなんて……。
血色の瞳から涙が落ち、目尻を伝って地面に落ちて凍る。
「ナツ……君」
か細い声が耳に入る。
血色の瞳に不安げに染まった少女の顔が映る。
ナツは、力の入らない唇を動かす。
「ま……ふゆ……」
ナツの口が弱々しく少女の名を呟く。
真冬の目が大きく見開き、不安が歓喜へと変わっていく。
「ナツ君!」
真冬は、ナツに駆け寄る。
「ちょ……まて」
しかし、ナツはそれを制止する。
真冬は、怪訝と不安の混じった顔をする。
ナツは、視線を横ヨコスタジアムに向ける。
「手袋……取ってきて」
そこで真冬は、あっと口を丸くした慌てて横ヨコスタジアムの隅に踏まれ、汚れた手袋を拾ってナツに持ってくる。
「胸に投げて」
真冬は、言われた通りにナツの胸元に手袋を放る。
ナツは、顔を顰め、痛々しく傷ついた両手に手袋を嵌める。
空気が温まる。
冷気が薄くなる。
ナツは、痛む身体をゆっくりと起こす。
真冬は、両手を祈るように組んでナツを見る。
血色の瞳が真冬を映す。
口元が三日月のように釣り上がる。
「真冬……」
今度こそナツは、しっかりと真冬の名を呼ぶ。
真冬は、歓喜の笑みを浮かべてナツに駆け寄り、両手を伸ばしてナツを抱きしめる。
離れろ……とは言わなかった。
ほんの一瞬でもこの温もりを感じたいと願ってしまったから。
白い霜がゆっくりと真冬の服と肌を染めていく。
それでも真冬はにっこりと微笑む。
「お帰りなさい。ナツ君」
「ああっ」
ナツは、血色の瞳を優しく細める。
「ただいま」




