サードマン
白く染まった大きな手が凍てついた鉄の網棚を掴むと茶トラ猫はビクッと小さな身体を震わせた。
「着いたぁ」
ナツは、大きな身体を網棚の上に乗せるとぷはあっと大きく息を吐いて天井を見上げる。
凍てついた鉄の網棚にぶら下がってた気泡の混じった無数の氷柱が観客席からの揺れに小さく震えながら薄く差し込む陽光に屈折して淡い虹を生み出している。
物悲しくも美しい氷獄の世界。
そんなものを作り出せてしまう自分。
世界が恐れるのも無理はない。
ナツは、被虐的に口元を歪めながらも今はそんなこと考えてる場合ではないと目的の対象物を見る。
遠くから見ると氷の腕に抱かれているように見えたが実際にはカマクラのように膨れ上がった氷の塊の穴の中に身を潜めているだけだった。
猫は凍らない。
それは直に触れるだけでなく氷結病患者が生み出した氷でも同じこと。
つまりこの子が凍てつく世界に恐怖で萎縮するのではなく、飛び出してしまっていたら一瞬で全てが終わってしまっていたということ。
この状況が奇跡だということ。
奇跡を無駄にすることは出来ないと言うこと。
ナツは、慎重に、そして身体に残った全ての力を奮い起こしてあらゆる場面に対応できるよう神経を尖らせた。
「迎えにきたぞ」
ナツは、口元を綻ばせて右手を伸ばす。
茶トラの子猫は、ビクッと身体を膨らませる。
「一緒に帰ろう」
ナツの指が茶トラに触れようとする。
痛みが走る。
白く、鋭い牙がナツの指先に深く食い込み、赤い血が茶色い毛を伝って氷の上に落ちる。
茶トラ猫は、ナツの指を食いちぎらんばかりに噛み締め、茶色い毛を逆立て、刀のように縦に伸びた瞳孔でナツを睨みつける。
ナツは、指先に激しい痛みを感じながらも表情を変えず、口元に笑みを浮かべる。
「俺が……怖いか?」
ナツは、優しく、切なげに茶トラ猫に話しかける。
茶トラ猫は、興奮と恐怖に目を激らせ、ナツの指を噛んだまま唸り声を上げる。
「俺が……人間が怖いか?」
茶トラ猫が譲渡会に拾われるまでどんな道筋を歩んできたのかは分からない。
止む終えぬ事情だったのか?
単純に捨てられたのか?
野良として生まれて酷い目にあわされたのか?
それは譲渡会にいる猫達では珍しいことではない。
カフェ"Ca-Syuu"にいるスタッフ達だってそう。
物言えぬ彼らは常に人に運命を左右される。
だから、唸る。
だから、噛み付く。
だから……恐れる。
そんな彼らの気持ちを人は理解出来ない。
理解出来ないけど……。
「俺も人が怖い」
ナツは、ギュッと血色の瞳を萎める。
茶トラ猫の牙から血が滴り落ちる。
「人間って酷い生き物だよな」
太ってるだけで差別される。
頭が悪いだけで差別される。
運動出来ないだけで差別される。
ハゲてるだけで差別される。
揚げ足を取ってバカにする。
言い訳をして人のせいにする。
自分のために他人を傷つける。
病気になっただけでゴミのように切り捨てられる。
「俺も人間なんて嫌いだよ。大嫌いだ」
茶トラ猫は、興奮に縦目を燃やし、ナツの指に深く深く牙を突き立てる。
「でもな……」
ナツの左手が茶トラ猫に伸びる。
茶トラ猫の目と身体がビクッと震える。
「そんな人間にも……優しい人はいるんだよ」
ナツの左手が茶トラ猫の小さな頭を優しく撫でる。
茶トラ猫の目が震え、瞳孔が丸くなる。
「その人達はな。こんな俺を受け入れてくれたんだ。どんなに素っ気ない態度を取っても離れないんだ。一緒にいようとしてくれるんだ。俺を……好きでいてくれるんだ」
自分のせいで一生の傷を負ったのに心からの愛情を注いでくれる姉。
うざいくらい絡んできて、うざいくらい熱くて、うざいくらい好いてくれる親友。
そして誰よりも弱く着飾っていたのに、今は誰よりも強く自分を曝け出し、偽ることのない想いを自分にぶつけてくれる愛おしい少女。
「きっとお前にもいる。お前のことを大切にしてくれる人が、たくさんの愛情を注いでくれる人が。だからさ……」
ナツは、優しく微笑む。
「一緒に帰ろう」
ナツの声に茶トラ猫の三角の耳が揺れる。
縦目が丸くなる。
毛が静まる。
牙がゆっくりとナツの指から離れる。
ニァァッ。
茶トラ猫は、氷の穴の中からゆっくりと出てくると切なく、甘えるように鳴いて自分が傷つけたナツの指を優しく舐める。
ナツは、キュッと血色の瞳を細めて茶トラ猫の撫でる。
「帰ろう」
ニャァァッ。
茶トラ猫は、嬉しそうに鳴いた。
ナツも嬉しくなって口元を綻ばせた。
さて、どう帰ろうか?
と、いっても元の道を辿って帰るしかない。
茶トラ猫は、もう暴れたりもしないだろうから服の中に入れて落ちないように身体に括り付ければいいだろう。それよりも問題はナツの体力だ。腕も足も棒のようで両手は感覚が鈍く、関節が疲れすぎて逆に軽い。筋肉痛がきてないだけまだマシかもしれない。手足を氷で貼り付けるから落ちる心配はないかもしれないがそれでも下まで降りる自信がない。
不安定だがここで休憩して手足がある程度回復するのを待つか?
それこそ救助が来るのを待つか?
「どーすっか?」
ナツが訊ねると茶トラ猫は不思議そうに首を傾げた。
突風が吹く。
ナツは、身体を屈めて茶トラ猫を包み、落ちないように網棚にしがみつく。
助けるのに夢中で落ちる以外の高所にいるリスクを忘れていた。
今ぐらいの突風ならまだいい。
しかし、いつ人を簡単に吹き飛ばすくらいの突風が吹くかなんてなんて分からない。
それに観客席で大規模な避難でも始めているのか頭の上の氷柱も揺れている。
「やっぱり下りるしかないか」
お腹の下で怯えている茶トラ猫に安心できるよう小さく口元を綻ばせながらナツは呟く。
とりあえず手足を氷に貼り付ければ落ちるリスクはない。自分が氷漬けになるリスクはあるが休みながら降りていけば……。
その時だ。
ガシャンッ。
旋毛の前、正面でガラスの塊が砕けるような音が響く。
ナツは、弾けるように顔を上げると茶トラ猫が蹲っていた氷の穴が砕け、巨大な氷塊が散らばっいた。
氷の穴が溶けた?
いや、日の光が当たりにくいこんな場所で氷が簡単に溶けるはずがないし、これは溶けたというよりも砕けたよう。
大きな何かにぶつかって……。
刹那。
ナツの横を大きなにかがヒュンッと通り過ぎた。いや、落ちていった。
そしてはるか下方から聞こえてくる砕ける音。
ナツは、下を見る。
アスファルトに巨大な氷塊が散らばり、下にいる人々が悲鳴をあげている。
真冬と三春も氷の塊を凝視する。
まさか……?
ナツは、上を見上げて、驚愕する。
氷柱に亀裂が走っている。
しかも一つだけじゃない。
全ての氷柱に巨大な亀裂が走り、表面が濡れている。いや……溶けている。
「そんな……なんで……」
氷結病で凍らせた氷はファンタジーにあるようなものじゃない。
それこそ普通の氷と変わらないからいつかは溶ける。
それでもこんなに発達した氷が日の光も当たらない場所で簡単に溶けるわけ……。
そしてナツは気付く。
凍って……ない?
自分は確かに茶トラ猫を守るために身を屈め、落ちないように網棚を掴んでるのにどこも凍ってない。
それどころか水溜まりまで出来て、水滴が雨のようにアスファルトに落ちていく。
まるで……不凍液を浴びたように。
「まさか……」
ナツは、散らばった氷の塊の一つを掴む。
表面が溶けかけた氷。
本来なら不純物のない透明な氷に気泡が浮かび、その気泡の中に茶色の毛が琥珀に固められた蚊のように浮かんでいる。
茶トラ猫の毛。
猫の毛。
不凍。
不凍繊維……。
「不凍液」
辿り着いてしまった答えにナツは背筋を震わせる。
猫は凍らない。
茶トラ猫は、ナツがこの場を凍らせる前からここにいた。
恐らく震え、毛を空中に飛び散らせ、体液だってそこかしこにばら撒いたろう。
そんな状態の場をナツの氷が侵食して茶トラ猫以外の全てを飲み込み、混じり合う。
決して凍ることない猫の新陳代謝を。
その結果、取り込んだ氷は擬似的な不凍液となって……。
突風が吹く。
ナツは、茶トラ猫を守り、網棚にしがみ付く。
網棚の表面張り付いた薄い氷が剥がれて氷の塵となって散っていく。氷柱が激しく揺れてミサイルのように次々と網棚に、地面に降下し、その身を砕き、人々が悲鳴を上げる。
「ナツ君!」
「ナツ!」
真冬と三春の悲鳴の混じった狼狽えた声が飛んでくる。
氷が溶ける。
手が溶けた水に濡れてビチョビチョになる。
茶トラ猫は、何が起きてるか分からずひたすらに鳴き続ける。
こんな状態じゃとても降りることなんて出来ない。
茶トラ猫を助けることは出来ない。
氷柱が次々と落ちていく。
網棚に落ち、地面で砕け、悲鳴を上げる。
網棚が濡れて滑る。
次に突風が吹いたらこんな疲弊した身体で茶トラ猫を守りながら落ちない自信なんてない。
落ちない自信なんて……。
刹那。
ナツの脳裏に一つの考えが浮かぶ。
あまりにも常軌を逸した考えが。
しかし……。
「それしか……ない!
ナツは、奥歯を噛み締めて左手で網棚を握りしめて身を起こし、右手で茶トラ猫を掴み上げる。
ボールのように。
「サードマン!」
ナツは、顔を紅潮させ、喉が千切れんばかりに下方に叫んだ。
「サードマン!」
上方から飛んできた親友の声に三春は目を瞠る。
予想もしない原因不明の緊急事態。
溶け落ちていく氷壁と落ちてくる氷柱に周囲はヒステリーを起こし、真冬は息をするのも忘れてナツを見上げ、三春もパニックになりかけた。
そんな時に飛んできた親友の叫びに三春は平静を取り戻す。
遠くにある親友の姿を、親友が妙なポーズをしていることに気付く。
ナツは、網棚の上で右腕を高くあげている。
それはその場に似つかわしくない勝利のポーズのようであり、何かを投げつけようとしているかのようにも見えた。
そしてその勘は当たっていた。
ナツの右手に茶色の何かが握られている。
ボールでは当然ない。
柔らかく、フワフワした茶色の毛玉のような……。
「猫?」
三春の呟きに反応し、真冬もナツを凝視する。
その手に握られていたのは茶トラの子猫。
それを高く掲げ、三春を三春ではなく"サードマン"と呼ぶ。
それだけでナツが何をしようとしているかを読み取る。
「マジかよ……あいつ」
三春は、固く笑みを引き攣りながらユニフォームのボタンを外す。
「甲子園でもねえぞ……こんな場面!」
ユニフォームを脱ぎ捨て、左手に巻きつける。
「なんか縛るもんあるか?」
三春は、視線も送らず真冬も見る。
ユニフォームを左手に巻き付ける三春を見て、彼が、いや彼らが何をしようとしてるかを悟る。
「そんな……無茶よ三春!」
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろが」
三春は、怒鳴る。
真冬は、ビクッと身体を震わせる。
「現状でこれ以外の打開策はない!それに……」
三春は、引き攣りながらも嬉しそうに笑う。
「あいつが初めて俺を頼ってくれたんだ。これを答えず何がサードマンだ」
三春の目が沸る。
「だからお前も信じろ。俺を……ナツを!」
真冬は、大きな目を震わせ……頷く。
そして長い髪を縛ったシュシュを外し、大きく伸ばしてユニフォームを包んだ三春の腕に嵌め、更にゴムを伸ばしてきつく縛る。
「後で弁償する」
「別にいいよ。だから……」
真冬は、シュシュを巻き付けた三春の手首をギュッと握る。
「ナツ君と猫ちゃんを助けて」
「あったりまえだ!」
三春は、ユニフォームに包まれた左手に握りしめた右手を叩きつける。
グローブように。
三春は、腰を落とし、目をきつく萎めて上方を見上げ、左手を掲げる。
「来いっ!ナツッ!」
三春は、腹の底から叫ぶ。
ナツは、じっと三春を見下ろし、小さく笑う。
「頼むぜ。サードマン」
その瞬間、ナツの手がゆっくりと振り下ろされる。
小さな茶色の……茶トラが宙を舞う。
突風に振り回されながら溶け滝のように降り注ぐ冷水と氷柱と一緒に落ちてくる。
三春は、全神経を集中し、余計なものを全て意識から切り離して茶トラの軌道を読む。
右……真ん中……左……後方……。
どこだ!?
どこに落ちる!?
汗が氷の飛び散ったアスファルトに落ちる。
突風が吹く。
小さな身体が舞い上がり、横ヨコスタジアムから離れる。
後方!
三春は走る。
全力で走って茶トラ猫を追いかける。
あまりにも軽い茶トラ猫は、あまりにも速く風に飛ばされながら落下していく。
間に合わない。
いや、間に合わす!
三春は、アスファルトの上をスライディングする。
顔から突っ込んで頬をぶつけ、薄いアンダーシャツが破け、ユニフォームが音を立てて千切れる。
それでも三春は、地面の上を滑りながら左手を高く掲げる。
茶トラ猫の姿が消える。
ボブンッという感触が腕に伝わる。
ニャァァッ。
左手の上から聞こえる声。
三春は、ゆっくりと腕を下す。
茶トラの子猫のクリっとした目が飛び込んでくる。
茶トラ猫は、小さな口を開けて大きな鳴き声を上げる。
感謝するように。
三春は、にいっと笑って右手を伸ばして親指を立てた。
「三春ぅ!」
真冬が歓喜の声を上げる。
凄いっ!凄いっ!凄いっ!!
本当に、本当に三春は凄い!!!
真冬は、興奮を抑えることが出来なかった。
「やったよ!ナ……」
真冬の心が止まる。
「えっ……?」
ナツの頭の上を氷柱が落ちる。
氷柱は、ガラスのように音を立てて砕け散る。
ナツの身体が大きく揺れる。
濡れた網棚を掴んでいた左手が外れる。
そして……そのまま空中に放り出された。




