氷壁(2)
時は数分遡る。
真冬と別れ横ヨコスタジアムの広場にナツが現れると所々から小さな悲鳴が上がる。
「氷結病患者!?」
「なんでここに氷結病患者が!?」
「ダメ!そっちいっちゃダメ!」
「おいっふざけんなよ。警察はどうしたんだ!?危険な奴がいるのに取り締まらないのかよ!」
次々と上がる非難と差別の声。
しかし、当のナツはそんな声など耳に届いていないかのように猫を捜索する。
姉を氷漬けにし、氷結病患者となってからこの程度の非難には常に晒されてきた。
当時は傷ついた。
両親に捨てられた時、感情こそ表に出さず子どもとは思えない冷静さで受け入れたけど、心の内では我が身を呪い、涙し、この世界から消えたいと妄想の中で何度も自分を殺した。
しかし、記憶を取り戻した姉がナツを迎えにきた。ナツにもう一度一緒に暮らそう、家族に戻ろうと言ってくれた。
多分その時からだろう。
周りからの非難も差別も気にならなくなったのは。
氷結病である自分を受け入れることが出来たのは。
どんなに酷い言葉を投げかけられても、人格を否定されても、冤罪に苛まれてもナツの心は平静を保てた。
姉がいてくれる。
姉が分かってくれる。
姉が愛してくれる。
それだけで十分だった。
ただ、姉が自分のせいで謂れのない非難や罵倒を受けることだけは耐えられなかったので姉弟であることは隠し続けた。
あっさりと破られたけど。
でも、真冬だけはダメだった。
真冬に見続けると約束した。
気付くと約束した。
その辺りからナツもまた彼女に対して特別な意識を持つようになってしまった。
彼女が隣にいることが嬉しい。
彼女が彼女としての笑みを浮かべることが尊い。
彼女が柔らかな眼差しで「ナツ君」と呼んでくれるだけで胸がキュッと締め付けられる。
ああっ俺は彼女を特別視している。
愛おしいと思ってしまっている。
そして彼女からもまた自分を愛しく感じる気持ちが伝わってくる。
それを理解した瞬間、再び自分が氷結病であることが嫌になった。憎らしく思った。こんな自分が彼女の側にいてはいけないと思った。
でも、彼女からは離れられない。
見ると約束したから。
気付くと約束したから。
だから、せめて彼女の気持ちが元に戻るよう態とらしく声をかけ続けた。
それが傷ついていた彼女の傷を更に抉ることになると分かっていても。
それが彼女を幸せになる1番の方法だと思っていたから。
しかし……。
大好きだから一緒にいたい。それでいいのさ。
加藤木は、ナツにそう言った。
小難しい理由なんていらない。
貧乏だろうが、何かしらの障害を持ってようが関係ない。
相手に愛され、自分も愛すること。
それが1番幸せなのだと。
そんなの……綺麗事だ。
俺が……あいつを幸せに出来るわけがない。
横ヨコスタジアムから歓声が上がる。
「おいっ四季折高校の3番がホームラン打ったってよ」
ナツは、足を止めて歓喜の声が聞こえた方を見る。
「マジかよ!逆転!?」
「ああっ逆転だよ!このまま何も起きなければ優勝だ」
大騒ぎする人々。
ナツは、胸の奥が沸き立つのを感じる。
「やったな。サードマン」
やはり三春は凄い。
春の日差しのような優しくも逞しい強さで人々を惹きつけ、夢の扉に開けていく。
本当に……本当にカッコいい。
三春なら……きっと真冬を幸せに出来る。
それが正しい筋なのだ。
ナツは、羨望の目で歓声上がる横ヨコスタジアムを見上げた。そして自分には自分の出来ることをしようと再び猫の捜索を始めようとした。
その時だ。
悲鳴が上がる。
それも1つや2つじゃない。
誰がが悲鳴を上げるとまだ誰かが悲鳴を上げ、それが連鎖的に響いていく。
そして一斉に空を見上げる。
いや、空じゃない。
彼らが見上げているのは横ヨコスタジアムの観客席を乗せたすり鉢状の壁だ。
ナツは、再び横ヨコスタジアムを、彼らと同じ方向に視線を伸ばして……血色の瞳を瞠る。
観客席の外側、白く塗られた網棚のように張られた鉄筋の隙間から小さな影が覗いている。
茶色く、綿毛のような、儚げで小さな声で切なく鳴く影。
それが茶トラの子猫であると気付くのに数瞬も掛からなかった。
「な……っ」
ナツは、息を飲む。
猫は常識に囚われない。
ナツが真冬に吐いた言葉だが幾ら何なんでも常識の外すぎる。
恐らく自分自身でもどうやってそこまで登ったのか覚えていない茶トラ猫は高さと強風、そして頭上から聞こえる雄叫びに震え慄いている。
茶トラの存在に気づいた人々が恐慌に陥りながらも考えつく限りの方法を取る。
スタジアムの係に助けを求める。
警察を呼ぶ。
消防を呼ぶ。
何とか茶トラのところに行く方法はないかと木に登ろうとしたり、意味のない抜け道を推理する。
無駄だ。
集団ヒステリーに陥る中、ナツだけが冷静に状況を見ていた。
茶トラ猫がどうやってあんな途方もない所に登ったのか見当もつかない。とい言うよりそこを考えることに意味はない。
例えルートの謎を解いたとしてもそれは人間如きが進めるものではない。
それは警察が来ようが消防が来ようが同じだ。ハシゴ車なら何とかなるかもしれない。
しかし、それを待ってる余裕はないし、あの怯えようではサイレンの音1つで落下してしまうかもしれない。
結論。助けられない。
奇跡でも起きない限り無理だ。
そして……俺は奇跡を起こすことが出来る。
ナツは、脳裏に浮かんだ自分だけが出来る奇跡にぎゅっと唇を噛み締めながら恐慌する人々の中を通り過ぎ、スタジアムに近づく。
スタジアムを支える大きな柱の前に立つ。
歓声が聞こえる。
四季折高校野球部の勝利を確信する熱い声援が。
三春を祝福する声が。
ナツの脳裏に喜びに輝く親友の表情が浮かぶ。
「わりい……三春」
ナツは、右手で左手の手袋を掴み、脱ぎ捨てる。
「お前の夢……潰す」
もう一つの手袋を外す。
空気が凍る。
灼熱の空気の筋に冷気が流れる。
「後で殺してくれて構わねえから……」
剥き出しの両手が柱に触れる。
「今は……許してくれ」
刹那。
掌を中心に霜がレースのカーテンのように包み込んでいく。
「おいっあれ!?」
異変に気づいた人々が一斉に白く染まっていく柱を、ナツを凝視する。
「氷結病患者!?」
「あんなところで何してんだ!?」
「寒っ!ていうかなにっ!?なんなのあれっ!?」
氷結病患者と目の前に広がるあまりにも現実離れした光景に我を失う人々。
霜は更に広がりながら氷となって柱を、梁を、そしてすり鉢状の網目を観客席を凍て付かせ、氷の城壁へと変貌させていく。
スタジアムから響く歓声が悲鳴に変わる。
ブザーが鳴り響き、試合を中止するアナウンスが流れる。
ナツの脳裏に選手たちが絶望し、涙する姿が浮かぶ。
その中には茫然自失となりながら恨みと怒りのこもった目で氷漬けになったスタジアムを睨む三春の姿があった。
ナツッウ!
三春の怨嗟の声が耳の中に響く。
ナツは、ぐっと奥歯を噛み締め両手を柱から離す。
氷壁となったスタジアム。
氷柱を垂れ下げる網棚上の鉄筋の上で茶トラ猫が氷の錠に身体を包まれ動きを封じられてる姿が見える。
「さてと……」
ナツは、靴を脱ぎ、分厚い靴下を剥がす。
素足に触れた地面が白く凍てつき、広がっていく。
人々は、茶トラのことすら忘れ逃げ惑う。
「いくか」
ナツは、右手を伸ばして岩のような氷を掴む。
白い煙が上がり、氷を育てナツの右手を飲み込もうとする。それよりも早くナツは右腕に力を込めて身体を引き上げ、左手で更に上にある氷を掴み、身体を引き上げ、剥き出しの両足で身体を支える。
白い煙が吹き荒れ、成長する氷がナツの身体に侵食しようする。ナツは、全身の筋力を活用して逆らい、引き剥がしながら上へ上へと登っていく。
茶トラを目指して。
ナツは、一心不乱に氷壁を登っていった。




