聖女様の嘆き(2)
隣が騒がしい。
そう気がついたのは不凍液を混ぜた冷水のシャワーと氷結病患者専用の洗面用具で身体を洗い、部屋着を着込み、COLDとプリントされた手袋を嵌めて洗濯機を回そうとした時だった。
そういえば真冬の奴、今日は洗濯機使わなくて良かったのか?
そんなことを思いながらスイッチをいれようする、と隣の部屋から真冬と誰かが言い合う声が聞こえてきた。
いや、真冬が一方的に責められる声が。
「真冬?」
ナツも人のこと言えないが真冬の元に訪ねてくる人はいない。ネット通販の置き配がある分、ナツの方が騒がしいと言ってもいい。
そんな真冬の部屋に人が!?
ナツの胸に重い予感が去来する。
ナツは、洗濯機の操作をやめて玄関に向かい、ドアノブに手をかける、と。
男の怒鳴り声が響く。
殴りつけるように玄関が閉まる。
そして……真冬の床にしゃがみ込む音と……啜り泣く声が聞こえる。
血色の瞳が震える。
血が逆流し、心臓が激しく打つ。
気がついたら頭よりも先に身体が動いて玄関を殴りつけるように開いて外に飛び出した。
深海の貝のように固く閉じた真冬の部屋の扉。それを嘲笑うように開いたエレベーターのドアから弱々しい灯りが溢れ、濃い影を伸ばす。
「おいっあんた!」
エレベーターに乗り込もうとする影にナツは言葉を殴りつける。
影がドアの前で止まる。
影……男が振り返る。
年は40代半ばか後半と言ったところか?黒い艶のある髪をオールバックで固め、大きな目の下と目尻に薄い皺が走っている。顔つきは端正だが表情が乏しく、のべっと伸びているような印象を与える。身長はナツよりは低いが平均的な男性より高く、仕立ての良いジャケットとスラックスが更に男のスタイルの良さを浮き彫りにする。
しかし、最も印象的なのは男の目と身体の線から醸し出される雰囲気だ。
まるで自分以外の全てを見下すような不遜な態度と蔑むようないやらしい大きな目。
その全ての要素をナツの頭が認識した瞬間、三春の言葉が頭を過ぎる。
お殿様。
そして高圧的な気に遮られながらも重なる彼女の面影……。
「氷結病患者?」
男は、大きな目を萎める。
「ああっそういえばここには氷結病患者が住んでるんだったか。まさか遭遇するとは思わなかったな」
男は、蔑むような呟き、開けっ放しの玄関を見る。
「アレの隣に住んでるのか。騒がしくて出てきたのか?それは申し訳なかったね」
そう言って男は口の端を釣り上げる。
アレ?
ナツは、腹の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
「まあアレの器量では氷結病患者が住むような事故物件でもなければ借りることなど出来んか」
男は、汚物でも見るようなマンションの通路を見回す。
「まったく……恥晒しが」
男は、口の端を歪めて吐き捨てる。
腹の奥が重く熱を持つ。
「あんた……真冬のなんだ?」
ナツが真冬の名前を口にすると男の目尻が小さく震える。
「知ってるのか?アレを?」
「……隣人だからな」
アレと言う言葉に奥歯を噛み締めながらもナツは冷静に言葉を返す。
「たかが隣人を下の名前を呼ぶのか?市井の者どもはよく分からんな」
男は、ふうっと呆れるように首を横に振る。
「私はアレの親だ。生物学上と法律ではな」
「生物学上?法律?」
ナツは、呆然と男の……真冬の父親の言葉を繰り返す。
「まあな。だから何かあれば対処しなければならない」
心底面倒とでもいうように父親はため息を吐くとジャケットの裏ポケットに手を突っ込み、分厚い封筒を取り出すと鯉に餌でもやるようにポンッとナツの足元に放り投げる。
地面にぶつかった衝撃で封筒が破れる。
現れたのはお金だ。
それも一万や二万ではない。
見ただけでも五十万以上ある。
「電子マネーか口座番号でも分かれば振り込んで終わりだったんだがな」
父親は、ふんっと肩を竦める。
「個人情報で教えられないそうだ。生物学上は親だと言うのに……面倒なことだ」
何を言ってるんだ?
こいつは……なんだ?
「悪いがそれをアレに渡しておいてくれないか?幾らかくすねても構わん。アレに額は言ってないからな」
そう言って父親は嘲るように笑う。
「金が無くなったら連絡するようにアレに言ってくれ。あっなんなら君が伝言者として間に入って渡してくれてもいい。礼は弾む。電子マネーか振込がいいよな?」
腹が……沸る。
「その代わりアレに伝えてくれないか?星上家の一員であることを忘れるなと。見窄らしい姿を晒して、下民に紛れて無様な姿を見せるなと。自分の立場をわきまえて生きろ……とな」
腹が……沸騰する。
「連絡先はアレにでも聞いてくれ。教えないようなら星上で検索すれば大概、私の会社関係が出る。どこかにかけて代表取締役に繋げと言ってくれ」
「……んだ……」
「君の名は……氷結病患者の名は政府に登録されてるんだったな。痛くない腹を探られるのは面倒だ……そうだな。このマンションの名を伝えてくれればいい。直接繋がるように通達しておく」
「……んた……なんだ」
「それでは頼んだぞ。報酬は期待してくれ。政府からの補助金なんて霞んで……」
「あんたなんなんだ!」
ナツの激昂が通路に響き渡る。
父親の目が大きく見開く。
「あんた……今誰の話しをしてる?」
「誰の?」
父親は、眉を顰める。
「真冬の……自分の娘の話しをしてるんじゃないのか!?」
「そうだ」
父親は、肯定する。
その顔には何の感情も浮かばない。
お殿様と表現されるままの不遜なまま。
「あんた……娘の現状を見てなんとも思わないのか?」
「さっき言わなかったか?見窄らしい真似をするなと伝えてくれ、と。星上の名に……」
「そうじゃない!」
ナツは、声を荒げる。
「娘を見てなんとも思わないのかって聞いてるんだ!」
血色の瞳が煮えたぎる。
父親の身体を焼き尽くすかのように睨みつける。
父親は、血色の瞳を冷めた目で見返し、はあっとため息を吐く。
「思わん訳ないだろう」
父親の言葉に血色の瞳が揺らぐ。
しかし、次に父親の発した言葉にナツの感情は破裂する。
「だから困ってるんだ。生物学上といえ繋がってるから」
父親は、オールバックに揃えた後頭部を掻く。
「捨てるに捨てれん」
それは粗大ゴミを捨てたくても捨てれないと嘆く口調そのものだった。
「…………っ!」
血色の瞳が燃える。
分厚い手袋が千切れんばかりに拳を握りしめる。
ナツは、足を踏み出し、拳を振り上げ……。
「ダメ!」
背中から細い両腕が伸びナツの腹を強く締める。
「ダメ!ナツ君!やめて下さい!」
背中から真冬の必死な声が飛んでくる。
「真冬?」
急速に頭が冷めていく。
ナツは、振り返り背中を見る。
真冬がナツの背中に頬をつけて涙に濡れた目でナツを見上げる。
「ナツ君……お願い……そんなことしちゃダメ……」
「真冬……」
ナツは、じっと真冬を見て……絶句する。
ナツの身体に触れた真冬の頬が、胸が、両腕から白い煙が噴き上げ、霜が走っていく。
今、ナツが着ているのは部屋着。外出用の物よりも不凍性が弱いことを思い出す。
「まず……真冬……」
ナツは、慌てて真冬を引き剥がそうとする。
しかし、真冬は自分の身体が凍っていくのを厭わずナツの身体を強く握り締める。
「帰ってください……お父様」
真冬は、ナツの背中越しに涙に濡れた白く染まっていく顔で父親を見る。
「お願いだから……迷惑なんてかけないから……星上に頼らないから……静かに暮らすから……だからもう関わらないで……帰ってください」
真冬は、必死に懇願する。
半分近く、霜で身体を埋め染めてながら必死に懇願する娘を父親は冷めた目で見る。
「なんだ……そういう関係か」
父親は、盛大にため息を吐く。
「言われなくてもお前と関わる気なんてない。無様な姿を晒してるという話しを聞かなければここに来ることもなかった」
父親は、躊躇いもなく2人に背中を向け、下に降りてしまったエレベーターをもう一度呼ぶ。
「お前の交友関係に口出す気はない。星上の家からの除籍も済んでる。星上の性は貸してるだけと思え」
エレベーターが到着する。
ドアが開き、淡い光が父親を照らす。
「見窄らしい真似だけはするなよ。血だけは変えようがないのだからな」
父親は、エレベーターに乗り込む。
ナツは、父親の背中を睨みつける。
真冬は、凍った腕でナツをギュッと締める。
「じゃあな。なるべく2度と会わないことを願う」
エレベーターが閉まる。
音を立てず静かに降りていく。
ナツは、父親の消えたエレベーターを睨みつける。
背中が重くなる。
ナツは、血色の瞳を見開き背中を見ると真冬が涙を流したまま霜に包まれた彫像と化していた。
「真冬!」
ナツは、絶叫する。
しかし、真冬は何の反応もしない。
ただ涙の粒が通路に1つ、2つと落ちて砕けた。




