08 聖女の帰還
冬も厳しさを増した、ある朝のこと。
窓の外には積雪が眩しく輝き、雲の切れ間から差し込む日差しが、凍てついた街を穏やかに照らしていた。
『どんぐり金庫』の店内では、アルテとニルスが暖炉の前で熱い茶を啜り、冷え切った体を温めていた。今朝も夜明け前から、アルテはニルスの修行を兼ねて雪深い森へと狩りに出ていたのだ。
「アルテさん、今日は収穫ゼロでしたね……」
ニルスが、湯気の向こうで残念そうに肩を落とす。
「そうね。こう寒いと、獲物も動かないわ。さすがに冬の狩りは厳しいわね」
そんな折、静かな店内に、澄んだ鈴の音のようなドアベルが響いた。
本日、最初のお客だ。
「ごきげんよう」
穏やかで、しかし凛とした声が店内に広がる。
振り向いたニルスが、そのまま石像のように固まった。
入り口に立っていたのは、汚れ一つない純白の法衣に身を包んだ女性だった。
透き通るような白い肌に、陽光を反射して輝く柔らかなブロンドの髪。冬の冷気すら寄り付かないような神々しい美貌は、見る者の魂を浄化するかのようだった。
「め、女神様……?」
ニルスが魂を抜かれたように呟く傍らで、アルテがゆっくりと口角を上げた。
「オルフェ。いつ戻ってきたの?」
「お久しぶりです、アルテ。今朝、街に戻ってきたばかりなのですよ」
オルフェと呼ばれた女性も、慈愛に満ちた微笑みを返す。
「……二年ぶりね」
アルテが懐かしそうに呟く。暖炉の薪が、パチリと爆ぜた。
アルテはすぐに温かい茶を淹れ、彼女を暖炉のそばの一等席へと促した。
「ニルス、彼女はオルフェ。私の元パーティ仲間で、Aランクの神官よ」
「オルフェ、彼は――」
「お、俺! ニルスっていいます! せ、アルテさんにレンジャーの稽古をつけてもらってますっ!」
ニルスは直立不動で、顎をめいっぱい上げて名乗った。顔は林檎のように真っ赤で、完全にのぼせ上がっている。
「あら。可愛らしいお弟子さんね。頑張ってくださいね、ニルス」
オルフェは目を細めて微笑むと、ニルスの手をそっと両手で包み込んだ。
「あひっ……!」
ニルスは裏返った声を上げ、そのまま意識が遠のいたかのように硬直してしまった。
その様子にアルテが深いため息をついていると、オルフェが視線を店内に巡らせた。
「それで、アルテ。商売の方は順調かしら?」
「ええ。ぼちぼちやっているわ。無理のない範囲でね」
「そう、良かったわ。さすがはアルテね」
二人の間に、戦友ならではの穏やかな沈黙が流れる。
「オルフェ。あなたは、元気にしていたの?」
アルテが問いかけると、それまで聖母のような微笑みを浮かべていたオルフェの顔が、ふっと曇った。
「アルテ。……再会したばかりで、こんなことを言うのも心苦しいのだけれど」
一拍の、重い溜め。
「お金、貸してくれないかしら?」
聖女のような佇まいのまま、彼女は真剣な眼差しで、直球の「融資」を願い出た。
◇
アルテは、眉をわずかにピクリと動かした。
「どういうことかしら?」
静かに、けれど逃げ場を許さない響きで問いかける。
その途端、オルフェの水晶のような瞳が、みるみるうちに潤み、大粒の涙を湛えた。
「実は……」
彼女は、消え入りそうな声で語り始めた。
二年前、旅に出てすぐのこと。山林で凶悪な盗賊に襲われたオルフェを、通りがかりの一人の戦士が命懸けで救ってくれた。彼の名はクロード。二人は運命に導かれるように恋に落ち、一生を添い遂げる誓いを交わした。
しかし、非情な運命が二人を襲う。クロードは不治の病に侵されており、余命はあとわずか。オルフェは彼を救うため、世界中を駆け巡り、そしてついに、病を治す薬を見つけ出したのだが――その薬はあまりに高価で、到底手に入れられる額ではなかった。
「クロードを死なせたくないの。だから、アルテのことを思い出して……急いで、この街へ戻ってきたのよ」
静かに語るオルフェの瞳からは、次々に大粒の涙が零れ落ちる。それでも気丈に語り続ける姿に、横で聞いていたニルスも涙腺が決壊した。
「ぐすっ、ぐすぅ……」
ニルスの顔は、もらい泣きですでにぐちょぐちょになっていた。
「アルテ。もう、あなたしか、頼れる人がいないの」
オルフェは、縋るようにアルテの手にそっと自分の手を重ねた。
真剣な表情で話を聞いていたアルテは、やがて「ふぅ」と深い溜息をつくと、重ねられたオルフェの手に、自分の手を静かに乗せ直した。
「オルフェ……」
「うん……」
「その話……」
「うん……」
「全部、嘘でしょ?」
「うへ?」
横でニルスが、変な声を上げた。
オルフェは、潤んだ瞳のまま、じっとアルテを見つめる。
室内には、暖炉が爆ぜる音だけが響く。
「…………」
「…………」
「ばれてた?」
オルフェが、可愛らしくペロッと舌を出した。
「うへっ?」
またしてもニルスが、ひっくり返ったような声を上げた。
「ええ、ばればれよ」
アルテが顔色一つ変えずに答えた。
「どのあたりからかしら?」
オルフェは先ほどまでの悲劇のヒロインの面影を脱ぎ捨て、すでに開き直った表情をしている。
「最初の盗賊に襲われたってところから。オルフェ、あなた、盗賊にやられるような玉じゃないでしょう?」
アルテは冷ややかな視線のまま続けた。
「あなたのそのうさんくささは、本当に変わっていないわね」
「あら、ずいぶんな言われようね」
「で、借金の本当の理由は何なの?」
きりっとアルテが問い詰める。
オルフェは観念したように、どこか遠くを見る目で答えた。
「旅の先々での、飲み代のツケ……」
「飲み代のツケ!」
女神のような神官から出てきた、斜め上を行くそのフレーズに、隣でニルスが絶句した。
「ほら、わたくし、Aランクだし、神官だし。それに、とっても美しいでしょう? 飲み屋の亭主たち、二つ返事でツケにしてくれましたの。で、調子に乗ってたら、方々でのツケの金額が大きくなってしまいまして……」
オルフェは身振り手振りを交え、さらに続ける。
「それで、女房たちに説教された亭主たちがギルドに、なんとかしてくれと。神官様相手に恐れ多くて、直接本人には取り立てなんてできないって泣きついたらしいのね。そしたら、ギルドが、うちの冒険者がご迷惑をおかけし申し訳ありませんって、債権を引き取ったようでして」
「…………」
「で、今朝。そんなことも知らずに馬車でこの街に戻ってきましたら、門の前でギルドの方々が待ち構えてまして。馬車は没収、今日中に借金を耳を揃えて返せと。そんな金は無いって言ったら、『アルテの店で借りてこい、お前たち仲間だろう』って」
一気に喋り倒すオルフェ。先ほどの悲劇の戦士の話のときとは打って変わって、その語り口は生き生きとしていた。
「これが本当の『門前払い』?」
オルフェは、まるで聖句でも唱えるかのような穏やかな笑みをたたえた。
アルテは、深く、深くため息をついた。
「そんなことだろうと思ったわ。……で、借金はいくら?」
オルフェは観念したように静かに答えた。
「……百万ゴールド」
「バカなの!!」
アルテの絶叫が、グレイムの街の爽やかな朝に響き渡った。




