07 経費6,000GOLD 交際費
グレイムの街の冬の日は早く、沈みゆく残照を追いかけるようにして長い夜が始まろうとしていた。
ギルドの食堂。活気と熱気に包まれたその一角に、どこか浮いたような空気の一画があった。
アトラスが、いつになく慎重な面持ちで椅子に腰掛けている。使い古された皮鎧は脱ぎ捨て、今夜のこぎれいな格好は、彼の逞しい体躯をより強調していた。その向かいに座るアルテもまた、いつもの事務的な仕事着ではない。
落ち着いた色合いのドレスに身を包んだ彼女は、窓から差し込む街灯の光を反射し、いつになく艶やかな色気を纏っていた。
「先日のニルスの救助、助けてくれて本当にありがとう」
アルテが柔らかな笑みを浮かべ、なみなみと注がれたジョッキを掲げる。
「い、いや。大したことでは、ない」
アトラスはいつにも増して言葉少なげに、自分のジョッキを合わせた。相変わらずの不愛想。だが、その瞳は泳ぎ、無骨な指先がわずかに震えている。彼は明らかに、目の前の女性に気圧されて緊張していた。
「いっぱい奢るとは言ったけど、こんなところで良かったの?」
「ああ、問題ない」
「……」
「……」
「あ、あのだな、アルテ。俺は……」
彼がまさに言葉を紡ごうとした、その時だった。
「いやあ! 本当に、助かりました!」
弾けるような明るい声と共に、隣の席からセシルがひょっこりと顔を出した。
「お二人は、僕たちの命の恩人です!」
ニルスもまた、元気よくジョッキを掲げて身を乗り出す。
「全く役に立てず、済みません……」
その横では、戦士のバルトが片腕を吊った痛々しい姿ながら、空いた方の手で必死にジョッキを持ち上げた。
「……」
この会合のことを聞いた彼らが、食い気味に参加を熱望し、こうして同席しているのだ。
アトラスは、言いかけた言葉を飲み込み、天を仰いだ。
そんな彼の様子に気づいているのかいないのか、アルテは愉快そうに目を細め、若者たちに向けて再びジョッキを高く掲げた。
「いいのよ。みんな、生きて帰ってきただけで十分なんだから」
「ありがとうございます!」
三人の若者の声が重なり、食堂の喧騒に溶けていく。
◇
「バルトは、けがの具合はどう?」
アルテが、包帯の巻かれた腕に視線を向けて尋ねる。
「はい。すぐに処置していただけたので大事には至りませんでした。ただ、完治してクエストに出られるのは春先になりそうです」
バルトは苦笑混じりに答え、少し言いづらそうに視線を泳がせた後、意を決してアルテを見つめた。
「つきましては、アルテさん。当面の生活費と治療費を貸していただけませんでしょうか?」
「構わないわよ」
アルテの即答に、隣の席からセシルが呆れたような声を上げる。
「おいおい。このどさくさに紛れて借金を申し込むとは、ずうずうしい奴だな」
「しかしセシル、バルトが復帰するまで俺たちどうしよう? Fランクのレンジャーと神官の二人だけでクエストをこなすのは、正直厳しいんじゃないか?」
ニルスの真剣な問いに、セシルも困惑の表情を浮かべた。
「ああ……。確かにその通りだ。どうしたものか」
二人が頭を抱えようとした、その時だった。
「よかったら、彼が復帰するまで私たちとご一緒する?」
反対側の隣の席から、ノエルの元気な声が響いた。その横ではルカも静かにうなずいている。たまたま居合わせた彼女たちも、いつの間にかこの賑やかな輪に合流していたのだ。
「いいのかい?」
セシルの目が輝き、ニルスも身を乗り出した。
「ありがたい申し出だ!」
アルテは、そんな若者たちのやり取りを微笑ましく見つめる。
「神官二人に、魔術師とレンジャーか。面白いわね。幾分偏った編成だけれど、相性の良いクエストを選べば、むしろ有利に働きそうだわ」
投資家としての視点も含めて感心したようにうなずくアルテの前で、セシルが勢いよく立ち上がった。
「俺はセシルだ。お互い神官同士、よろしく頼む!」
セシルがさっと手を差し出す。ノエルに熱いまなざしを向けている。
ノエルがその握手に答えようと手を出しかけた瞬間――。
横からルカが素早く割り込み、セシルの手をがっしりと握り締めた。
「魔術師のルカだ。よろしく頼む」
セシルは一瞬、虚を突かれた表情をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて握り返した。
「ああ、よろしく」
二人の間に、目に見えない火花が散る。
「……あの。俺のこと、忘れないでくれよな」
バルトが絞り出した情けない声に、テーブルはどっと大きな笑いに包まれた。
そんな賑やかな喧騒を肴に、アルテは満足げにジョッキを傾けた。
「若さっていいわねえ」
若手たちが刺激し合い、切磋琢磨して成長していく様は、彼女にとって最高の見物だった。アルテは悪戯っぽく口角を上げると、ほぼ置物のようになっていたアトラスの方を向いて、ニコリと微笑んだ。
「もし前衛が必要なときは、このアトラスに頼めばいいんじゃないかしら? きっと、力になってくれるわよ」
「本当ですか!」
「アトラスさんが一緒なら、俺たち無敵じゃないですか!」
先日の圧倒的な戦働きを目の当たりにした二人は、興奮を隠せない。
若者たちの熱気に押され、ようやく我に返ったアトラスは、アルテの視線と若者たちの期待にたじろぎながらも、短く答えた。
「あ、ああ。……大丈夫だ」
その返事を聞くやいなや、食堂のテーブルはさらに大きな歓声に包まれた。
左右から飛び交う若者たちの賑やかな笑い声と、ジョッキが触れ合う快い音を聞きながら、アルテはふと、思考の海に身を沈めた。
――私にとって、彼らは一体なんなのかしら。
顧客、という言葉が真っ先に浮かぶが、どうにも座りが悪い。商売相手にしては、彼らの不器用な生き様に深入りしすぎている自覚がある。
かといって仲間、というのもどこか違う気がした。自分はあくまで金を貸し、場所を整える側。実際に剣を振るい、血を流して道を切り拓くのは彼らなのだから。
それなら、可愛い後輩、だろうか。
未熟で、危なっかしくて、けれど放っておけない。彼らの成長に目を細める今の感覚が、一番しっくりくるように思えた。
では――アトラスは?
アルテは目の前に座る男へ、静かに視線を移した。
先日の救助活動、そしてあの猛吹雪の夜の三つ目狼との戦い。そこで見せた彼の実力は、疑いようのないものだった。
技量も知識も、おそらく自分と同等か、あるいはそれ以上。ギルドの規定で現在はFランクに甘んじているが、彼がAランクへ上り詰めるのは時間の問題だろう。
彼に対して抱くのは、若手たちに向ける慈しみとは別の、もっと鋭利で、確かな感覚。
かつてのパーティ仲間と背中を合わせ、死線を越えたときのような――理屈を超えて、魂の背中を預けられる存在。
そんなことを思いながら、アルテは無意識にアトラスをじっと見つめ続けていた。
その視線の熱に、さすがのアトラスも気づいたらしい。彼は不器用に首をかしげ、不思議そうにこちらを見た。
「……?」
問いかけるようなその瞳を見て、アルテは小さく吹き出した。ドレス姿で少しだけ色香を増した彼女が、茶目っ気たっぷりに口角を上げる。
「アトラス。これから少し、あなたのことを頼りにするかもしれないわよ」
不意打ちの言葉に、アトラスは一瞬だけ目を見開いた。
「……ま、任せろ」
先ほどまでの緊張が嘘のように、今日一番はっきりとした、力強い声で答えた。




