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どんぐり金庫の貸付帳 ――元Aランク冒険者の若き女店主は、今日も、駆け出し冒険者たちに金を貸す。――  作者: しばたろう


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06 貸付70,000G0LD 防寒具と魔法薬

 冬の寒さが牙を剥き始めた、ある日の夕暮れ。


 『どんぐり金庫』の店内では、今や常連と化しているアトラスがカウンターに腰を下ろしていた。今回達成したクエストのあらましを淡々と説明する彼と、それを聞きながら帳簿をつけるアルテ。そんな穏やかな時間を切り裂くように、入り口のドアが弱々しく、重く開いた。


「いらっしゃいませ」


 アルテは視線を向け、そのまま固まった。

 冷え切った外気と共に、一人の若者が雪崩れ込むように倒れてきたのだ。泥で茶色く汚れてはいるが、それは紛れもなく法衣だった。

 アトラスが素早く駆け寄り、若者の体を抱き起こす。泥の隙間から見えたその青白い顔に、アルテは息を呑んだ。


――セシル。


 ニルスが何度か店に連れてきた、彼のパーティの神官だ。アルテの胸の奥で、嫌な予感がざわめき立つ。セシルは焦点の定まらない瞳でアルテを見上げ、喉を震わせた。


「ア、アルテさん……金を、貸してください。ニルスを……助けなきゃ!」


 アトラスが彼を椅子に座らせる間、アルテはコップに水を汲み、セシルに手渡した。彼はそれを一気に煽り、激しい喘ぎを漏らしながら語り始めた。


「スノーベアの討伐に失敗しました……。ニルスは、俺たちを逃がすために囮になって……そのままはぐれたんです。バルトは怪我をして、今ギルドで治療を受けています」


 バルトは彼らのパーティの戦士だ。

 セシルだけが幸い無傷というわけだ。


 アルテは、指先から血の気が引いていくのを感じた。

 先日、ニルスが話していた。「今度のクエストはスノーベア討伐なんだ」と。アイアンベアほどの凶暴さはなくても、経験の浅いFランクの彼らには荷が重かったのだろう。


「ギルドに、特急で救助依頼を出したいんです。でも、手持ちが足りなくて……」


 セシルが息巻くが、アルテは冷徹に状況を逆算した。

 救助には探索と戦闘、その両方の高度なスキルが必要だ。そんな熟練の冒険者が、日が暮れかけたこの時間、都合よくギルドに溜まっているはずがない。手続きを待っていれば、ニルスは夜の冷気に飲み込まれる。


(それなら、道は一つしかないわ)


「私が行こう」


 アルテの静かな宣言に、セシルが地獄で仏を見たような顔をして顔を上げた。

「本当ですか……! ありがとうございます!」


 アルテは即座に頭の中で最善の計画を組み立て、指示を飛ばす。

「セシル。お金を貸すわ。これで、防寒具と魔法薬ポーションを揃えなさい。三〇分後に東門で出発よ」


「わ、わかりました!」

 金貨の袋を受け取ったセシルが、ふらりと立ち上がる。その細い肩を、アトラスの大きな手が支えた。


「俺も行こう」


 意外な申し出に、アルテは目を丸くした。「いいの? 」

「報酬はそんなに出せないよ?」


「今度、いっぱい奢ってくれ。それでいい」

 アトラスは短く、けれど揺るぎない口調で応えた。



 アトラスがセシルを連れて店を飛び出していくと、アルテは素早く店の鍵を閉め、カウンターの奥へと走った。

 可憐な受付嬢のドレスを脱ぎ捨て、革と鉄で補強されたレンジャーの旅装に身を包む。


 ニルスには、森で生きるすべを、教えてきた。

 あの子なら、冬の森を耐え抜くことが、きっと、できる。

 

 アルテは自分に言い聞かせるように呟くと、月が昇り始めた冬の夜へと、鋭い瞳で踏み出した。

 


 森の中はしんと静まり返り、自分たちの踏みしめる雪の音だけが、夜の静寂に響いていた。


 弓に矢をつがえ、鋭い眼光で闇を射抜くアルテを先頭に、しんがりをアトラスが固める。恐怖に震えるセシルを前後から守る形で、彼らは迷いなく森の深淵へと進んでいた。


 幸い、空は晴れ渡り、高く掲げられた月が地面の白い雪を青白く照らしていた。雪明かりのおかげで、視界はそれほど悪くない。

「ニルスはついているわ。……もし吹雪だったら、今ごろ絶望を数えることになっていたでしょうね」

 アルテは呟くが、その声に楽観の色はない。夜の森は猛獣たちの独壇場だ。いつどこから、飢えた牙が飛び出してくるかわからない。


 セシルの案内で、スノーベアと遭遇した地点にたどり着く。

 そこは森が少し開けた場所だった。荒らされた雪原と、へし折られた枝。幸い、主であるスノーベアの気配は、すでにそこにはなかった。


 そこから、アルテはレンジャーとしての本領を露わにする。

 雪上にわずかに残された足跡、不自然な草木の荒れ具合、風が運ぶ微かな匂い。そして、長年の経験がもたらす「レンジャーの勘」。彼女は這うようにして地面に視線を凝らし、暗闇に紛れかけたニルスの痕跡を拾い上げていく。


 アトラスは、月光を弾く白銀の剣を構え、彫像のような不動の構えであたりを警戒していた。

 時刻はすでに深夜。凍てつく空気が肌を刺す。

(ニルスが私の教えを一つでも守っているなら、無闇に動かず、熱を逃がさない場所を探しているはず……)

 アルテの思考は、弟子の行動を正確に逆算していく。静まり返った森を、確信に満ちた足取りで進んでいく。


 そして、アルテは巨大な岩影にたどり着いた。


「ニルス!」

 アルテの鋭い声が夜気を震わせる。


 一拍の静寂の後。


「……ここ、です……っ!」

 雪の底から響くような、掠れた声が返ってきた。


 三人は声のした方へ一斉に駆け出す。

 そこには、大きな岩の影に積もった雪を掘り、自分の体一つを収めるために作られた小さな穴があった。そこからひょっこりと、雪まみれの顔が覗く。


 月明かりに照らされたニルスの顔は、真っ青にぶるぶると震えていた。

「ニルス!」

 セシルが雪洞から彼を引きずり出し、壊れ物を扱うように力一杯抱きしめた。「ごめんよ、ニルス……よかった、本当によかった……!」

 ニルスはセシルの腕に崩れ落ちるように体を預け、「ありがとう……」と小さく呟いた。疲弊しきった顔だったが、その瞳には、夜を越えた者だけが宿す安堵の色が浮かんでいた。


 その後ろで、アルテは小さく、深く、溜め込んでいた息を吐き出した。

(……良かった)

 その呟きは、誰の耳にも届かないほど微かなものだった。


 だが、安心している暇はない。

 三人は手際よくニルスのぐっしょりと濡れた服を脱がせ、乾いた布で全身を拭い、用意してきた防寒具へと着替えさせた。アルテはニルスを膝に抱えるようにして、魔法薬ポーションの瓶をその唇に寄せた。

「よく頑張ったわね。……及第点よ」

 喉を鳴らして薬を飲み下すと、ニルスの頬にわずかに赤みが戻る。


 アトラスがニルスを軽々と背負い上げた。

「急ぐわよ。夜明けまでには、街の門をくぐりましょう」


 アルテは再び弓を手に取り、先頭に立つ。その背中は、先ほどよりも少しだけ軽やかに、月夜の雪原を滑り出していった。

 

◇ 


 それは突然、静寂を切り裂いて襲い掛かってきた。


 まもなく森を抜ける。その安堵が胸をかすめた、まさにその時だった。

 地を這うような唸り声と共に、冷たい殺気が一行を包囲する。闇夜に浮かび上がったのは、不気味に発光する三つの黄色い瞳――三つ目狼の群れだ。


「ひいっ……!」


 セシルが短い悲鳴を上げる。

 アトラスは動じることなく、ゆっくりとニルスを背から下ろし、大木の根元にもたれさせた。

 その前に、ニルスを盾となって守る形でアルテとセシルが立ち塞がる。

 ニルスは震える手で短剣を抜き放ち、必死に腰を落として構えた。


 セシルは恐怖で膝の震えが止まらなかった。だが、ふと隣を見る。

 そこには、静かに、しかし苛烈な気迫を纏って弓を構えるアルテの姿があった。

 自分よりもずっと小さく、華奢な背中。なのに、そこからは絶望を撥ね退けるような力強い意志が溢れている。


(……僕は、何をやっているんだ。自分だけが震えてばかりで……!)


 情けなさが恐怖を上回った瞬間、不思議と震えが収まった。

 セシルは自らの杖を高く掲げ、腹の底から気力を振り絞る。


≪鼓舞の呪文≫


 朗々と響き渡る詠唱が、夜の森に清浄な光をもたらし、仲間たちの身体に活力を注ぎ込む。

 アルテがセシルを振り返り、不敵に「ニッ」と笑った。


 それが、開戦の合図だった。


 三つ目狼が一斉に飛びかかってくる。

 セシルは生きた心地がしないまま、それでも必死に詠唱を続けた。

 ニルスはセシルを守らんと短剣を振り回すが、凍えきった身体は思うように動かず、狼の牙が喉元に迫る。


(だめだ――!)


 一瞬、絶望が脳裏をよぎった。


 ヒュッ――!

 鼓膜を直接突くような、鋭い風切り音。

 次の瞬間、ニルスの眼前で、狼のこめかみに一本の矢が深く深々と突き刺さっていた。狼は断末魔を上げる暇もなく、雪煙を上げて地面にどっと墜落する。


「……アルテさん?」


 ニルスが呆然と呟く間にも、アルテは止まらなかった。

 彼女は、踊るような身のこなしで、襲い来る狼の突進を紙一重でかわしていく。そして、流れるような動作で次々と矢をつがえ、正確無比に獣たちの眉間を射抜いていった。

 

 そして。

「――フンッ!」

 ブオン、と空気を断つ轟音。

 アトラスが軽々と振るった白銀の剣が、まるで紙切れでも裂くかのように、跳躍した狼を真っ二つに両断した。


 間近で繰り広げられる、熟練冒険者の戦働き。

 それは、もはや、圧倒的な暴威の掃討劇であった。


 一刻の後。

 雪原に多くの屍を残し、勝ち目がないと悟った狼たちは、命からがら闇の奥へと退散していった。


 静寂が戻る。

 すぐさま黙々と、そして迅速に帰還の支度を整えるアルテとアトラスの後ろ姿を見て、ニルスとセシルは確信した。

 この夜に見た光景を、自分たちは一生忘れることはないだろうと。


 そして、東の空が白み始めたころ。

 ニルスはついに、生きて街の門をくぐった。

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