03 貸付50,000GOLD 当面の生活費として
夏の盛り。
グレイムの街でも蝉の声がけたたましく響き渡り、逃げ場のない熱気が街全体を包み込んでいた。
路地裏に佇む『どんぐり金庫』。
そのドアが開き、外の暴力的なまでの暑さを避けるようにして、一人の来客があった。
年の頃は十代後半といったところの青年だ。どこか不安げに周囲を伺いながら店に入ってきた彼は、「こんにちは」と声を漏らし、カウンターに座るアルテの姿を見つけると、はっと息を呑んだ。
涼やかな薄手のドレスを纏ったアルテの姿に、思わず目を奪われたのだろう。その驚きを隠せない顔立ちからは、飾らない朴訥さが滲み出ていた。
「いらっしゃいませ」
アルテはいつも通り、事務的な、それでいて柔らかな声で応対した。だが、青年の身なりを一瞥して、わずかに眉を動かす。
この店に来るからには冒険者なのだろうが、彼は武装はおろか、旅の装束ですらない。ただの平服なのだ。
アルテの視線を察したのか、青年は居心地が悪そうに肩をすぼめ、たどたどしく説明を始めた。
「俺、ニルスと言います。村から出てきて、さっきギルドで登録を済ませてきたばかりで……。その、受付で職業を聞かれたんですけど、俺、今までずっと畑仕事しかしたことがなくて。そう言ったら、職業欄に『無職』って書かれて登録されちゃったんです」
ニルスは困り果てたように、手垢のついたギルドカードを差し出した。
「それで、所持金も一万ゴールドしかないって正直に言ったら、『どんぐり金庫』に行けって。そこで金を借りて、ついでにこれからの職業の相談にも乗ってもらえ……と言われて、ここに来ました」
(……なるほどね)
アルテは内心で小さく息をついた。
通常、夢を抱いて街へやってくる若者は、あらかじめ目指すべき職業を定め、相応の訓練を積んでいるものだ。戦士志望なら道場に通い、神官志望なら神殿で奉仕に励む。
だが一方で、生きるための手段として、消去法で冒険者になる若者も少なくない。彼らは特筆すべき特技を持たず、最初はスキルの不要な雑用クエストをこなす。いわば体の良い肉体労働者だ。その中から自力で才能を開花させる者も稀にいるが、多くはFランクのまま、安月給の労働に従事し続けて一生を終える。
目の前のニルスも、おそらくはその一人なのだろう。
しかし――と、アルテは思う。
(ギルドの対応、いくらなんでも丸投げすぎではないか?)
忙しいのは理解しているが、一万ゴールドしか持たない「無職」の素人を、そのまま金貸しに放り出すのはあまりにおざなりだ。今度グレインの顔を見たら、ひとこと文句を言ってやらなければならない。
そんなことを思いながら、アルテはニルスに椅子を勧めた。
促されるままに、ちんまりと椅子に座るニルス。その姿は、まるで嵐の夜に軒下へ逃げ込んできた小動物のようにも見える。
アルテはいつも通り、融資規約の説明資料を手渡し、淡々と説明を始めた。
「返済は分割。遅延した場合は別途、延滞金が発生します。」
その説明を聞くニルスの横顔は、真剣そのものだった。
遊び半分で剣を握る若者とは違う。生きる糧を得るために必死なのが、その強張った肩からひしひしと伝わってくる。
ひととおり、説明し終える。
最後に付け加えた重要事項――「融資金額、およびその用途は、こちらで決定します」という、大体の冒険者が難色を示す縛りについても、彼は特に異論を挟むことなく承諾した。
(根が素直なのだろう)
アルテは、このまま彼を「無職の何でも屋」として放り出すのは、いささか忍びない気がした。
ふと、一つの考えが浮かぶ。
アルテは考えをまとめながら切り出した。
「では、当面の生活費として五万ゴールドを融資します。安い宿であれば一泊一千ゴールドくらいで泊めてもらえるから、それでしばらくは凌げるでしょう。」
「はい。ありがとうございます!」
ニルスは深々と頭を下げた。一万ゴールドしかなかった身にとって、五万ゴールドは大金なのだろう。
「あと、肝心の職業だけれども。ニルス、あなた、弓矢は使える?」
「いいえ。触ったこともありません。」
「そう。まあいいわ。」
「明日の朝五時に、ここへ来て。当面、生き抜くための『術』を教えてあげる。」
「あ、朝の五時……。はい! 必ず来ます。ありがとうございます、アルテさん!」
ニルスは希望を見出したような顔をして、何度も頭を下げながら店を去って行った。
◇
アルテの朝は早い。
四時に起き、身支度を整え、五時には森へ向かう。
狩人の子として過ごした幼少期からの習慣であり、冒険者としてレンジャーを生業にしていた頃も、それは変わらず続いた。
今でも毎朝森に潜り、鍛錬も兼ねて獲物を追っている。子供の頃と違うのは、獲物が鹿や兎から、大猪や三つ目狼、アイアンベアになったことくらいだ。
森は生命の宝庫だ。
狩りを学べば、誰の手を借りずとも生きる術を得ることができる。
(そうね。ニルスには狩りを教えてやりましょう)
アルテはそう思いついたのだ。
だからといって、いきなりアイアンベアを狩れと言うつもりはない。兎やリスなどの小動物、あるいは鹿一頭仕留めることができれば、新米の食いぶちとしては十分すぎるほどだ。
翌朝、五時きっかりに『どんぐり金庫』のドアをノックする音が響いた。
ニルスが、一分の遅れもなくやってきたのだ。
(第一関門クリア、ね)
やはり、真面目で素直な青年のようだ。そんな彼の姿勢に、アルテは少しだけ口角を上げた。
アルテは、自身の所蔵する弓の中から、初心者でも引きやすく扱いやすいものを選んでおいた。不安げに立ち尽くすニルスに、その弓を渡しながら自身の考えを伝える。
「今日からしばらく、毎朝ここで修行よ。当面はこれで自分の食いぶちを稼げるようになってもらうわ」
「それは、ありがとうございます! 精一杯頑張ります」
ニルスは、その重みを確認するように弓を握りしめ、アルテの言葉に素直に従った。
二人はそのまま、街の外へと広がる深い森へと向かった。
あたりはまだ濃い藍色に沈んでいるが、東の空は白み始め、もうじき夜明けを告げようとしている。
湿った土の匂いと、目覚め始めた鳥たちの声。
アルテの後ろを必死についてくるニルスの足音を聞きながら、彼女は静かに森へと足を踏み入れた。
◇
とはいえ、最初から満足に弓矢を扱うのは無理がある。
そこでアルテは手始めに、罠の仕掛け方を教えることにした。小枝や蔓を利用した、兎やリスを捕まえるための初歩的な括り罠だ。
ニルスはアルテの手元を食い入るように見つめ、熱心に聞き入っていた。
「こう……ですか?」
教えた通りに何度も試し、失敗してはやり直す。その指先は驚くほど器用に動き、ほどなくして、アルテが合格点を出せるほどの罠を完成させた。
(案外、センスがあるのかもしれないわね)
一通り罠を仕込んだところで、いよいよ弓の練習へと移る。
矢の番え方、弦の引き方、そして狙いの定め方。基本的な動作を一通り教え込む。
「後は、日中ひとりで練習するといいわ。体で覚えるしかないもの」
そう言い残し、アルテは本格的に獲物を探し始めた。
足跡の見分け方や、風上の読み方を説明したのち、実際にニルスを先頭に立たせて探索をさせる。
ぎこちない手つきで弓を構え、一歩一歩慎重に先を行くニルス。その後ろを追いながら、アルテは密かに願う。
(鹿でもいてくれれば、丁度良い練習台になるのだけれど……)
そんなことを考えていると、不意に前方に気配を感じた。
少し離れた草むらの向こう、一頭の鹿が静かに立っている。幸い、まだこちらには気づいていない。
「……やってみなさい」
アルテは声を殺して囁いた。
ニルスは小さく「はい」と答え、震える手で弓を引き、矢を放つ。
だが、放たれた矢は無情にも明後日の方向へと飛んでいった。風を切り、木々に当たって虚しい音を立てる。
異変を察知した鹿は、瞬く間に森の奥へと逃げ去っていった。
「す、すみません! 後を追います!」
ニルスは焦った様子で、鹿が消えた茂みの向こうへと突き進んでいった。
茂みをかき分け、少し開けた場所に出る。
「あの鹿、どこへ行ったんだろう……」
ニルスが当てもなくきょろきょろと辺りを見渡していると、向かいの茂みがガサゴソと大きく揺れた。
(鹿?)
ニルスは期待を込めて弓を構える。
しかし、そこに姿を現したのは――鹿などではなく、荒々しい鼻息を吐く巨大な「大猪」だった。
(……しまった)
アルテは内心で舌打ちする。危険な魔物との遭遇を避けるため、それほど森の深くには入っていないはずだった。よもや、こんな浅瀬にまで大猪が降りてきているとは。
ニルスは、その山のように巨大な猪の姿に目を奪われたまま、石像のように硬直していた。無理もない、ただの農村育ちの若者が目にするには、その威圧感はあまりに強大すぎた。
大猪はニルスを明確な敵、あるいは獲物と定め、地面を猛然と蹴った。一直線の突進。
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げるニルス。だが、恐怖に縛られた体は一歩も動かない。
――刹那。
ニルスのすぐ耳元を、鋭い風の唸りが切り裂いた。
一筋の閃光が彼の横を通り抜け、突進してくる大猪の眉間へ、寸分違わず突き刺さる。
ドォォォンッ!
激しい土煙を上げ、大猪はその巨体を地面に叩きつけられた。ニルスの目と鼻の先で、巨大な肉塊はぴくりとも動かなくなる。
ニルスは震える肩を抱えながら、恐る恐る後ろを振り返った。
そこには、凛とした佇まいで弓を構え直す、アルテの姿があった。
木々の隙間から差し込む朝日が、彼女の輪郭を白く縁取っている。その姿は、絶望の縁にいたニルスの目に、神々しいまでの輝きを纏って映った。
「……すごい」
ニルスはただ、その光景に心を奪われていた。
自分を救ったこの若き店主が、どれほど強大な存在であるのか。その真実を、彼は肌で理解したのだった。




