17 用務員のドラゴン退治
マルクはさっそく、放課後の購買部へと足を運んだ。
棚に並ぶのは、彼が渇望していた知識の結晶だ。
『野外生存全書』
『武技の起点』
『大陸地誌録』
『冒険者憲章』
『連携の力学』
等々。
まずは、と手に取ったのは十冊あまり。会計を済ませると、一冊につき二から三千ゴールド程度だった。新米が受けるゴブリン一匹の討伐報酬と、さして変わらぬ額だ。
だが、マルクはその重みに、不気味なほどの戦慄を覚えた。
(グレイムの街なら、これ一冊で十倍……いや、手に入ることすら稀だ。それがここでは、若者が手軽に知識を買える「当たり前の品」として棚に並んでいるというのか)
この紙束に記された一行が、どれだけ多くの若き冒険者の命を救うだろうか。辺境の冒険者たちが、泥を啜り、死の淵を何度も覗き込んでようやく掴む「生き残るための真実」が、ここでは安価な文字として売られている。
「……今夜から、さっそく目を通すことにしよう」
宝物を抱えるような手つきで、マルクは作業員室へと戻っていった。
◇
入学式の熱気が落ち着き、生徒たちが本格的に学園生活を開始し始めたころ。
朝の職員室に、バルトロメウス校長の硬質な声が響き渡った。
「ギルドから緊急のクエスト依頼が来た。近隣の村がドラゴンに襲われた。急を要する。どうしても前衛が足りないとのことだ。……条件は、Aランクの戦士」
その一言で、和やかだった職員室にピリついた緊張が走る。
隅の方で備品の補充をしていたマルクは、手を止めて校長の方を仰ぎ見た。
「カレン。行ってくれるか?」
席で書類に目を通していたカレン教官が、迷うことなく立ち上がった。
「わかりました」
即答。その瞳には、戦士特有の鋭い輝きが宿る。
「本日の貴様の授業は、俺が代行しておこう。……さて、もう一人必要なのだが」
バルトロメウス校長が、ぐるりと職員室を見渡す。
マルクは心中で独り言ちた。
(時に教員もクエストに駆り出されるのか。実戦を重んじるアレクスらしい。しかし、やはりカレン教官はAランクの実力者だったか。……さすがだな。この学校の層は厚い)
他人事のように感心していた、その時だった。
校長の鋭い眼光が、職員室の端でバケツを持っていたマルクに留まった。
「マルク殿、行ってもらえるか?」
一瞬、職員室が凍りついた。
職員たちの視線が一斉に、冴えない作業着姿の男に突き刺さる。
(なぜ、用務員が?)(無茶だ、死なせる気か?)
そんな戸惑いの色が隠しようもなく溢れている。カレンもまた、唖然としてマルクを見つめていた。
指名された本人はといえば、意表を突かれたものの、どこか楽しげに口角を上げた。
久々のクエスト。相手はドラゴン。
体が鈍っていないか確かめるには、ちょうどいい。
「いいでしょう。引き受けます」
マルクはバケツを置き、穏やかな、けれど揺るぎない足取りで一歩前へ出た。
◇
街道を疾走する馬車が一台。車輪が石を跳ねる音が、静かな原野に響き渡る。
荷台には、ギルドから招集された精鋭たちが武装を整え、重苦しい沈黙の中に座していた。魔術師、神官、レンジャー、そして二人の戦士。
ドラゴン討伐という、死の香りが漂う任務に派遣された冒険者たちだ。
魔術師と神官はBランク。レンジャーと、二人の戦士はAランク。
ドラゴンという災厄を相手にするならば、戦力としては及第点といったところだろう。
カレンは、先ほどから向かいに座る「もう一人の戦士」をまじまじと見つめていた。
使い込まれた革鎧を纏い、無造作に置かれた大剣を傍らに置くその男。学校で見かける気のいい用務員の姿はどこにもない。岩のように動じぬその佇まいに、カレンは内心で感心しながら口を開いた。
「用務員さん。……いや、マルク。あなた、戦士だったんだな」
「ああ。わけあって今は用務員をしているが、こっちの方が本業だ」
マルクもまた、カレンの姿を正面から見据える。
教室でチョークを握っていた時とは、完全に別人の顔だ。磨き抜かれた細身の剣を帯び、一瞬の隙も見せないその空気は、まさにAランクの剣士そのものであった。
その時、パーティの要である魔術師の男が、重々しく口を開いた。
「相手のドラゴンは油断ならない。今一度、作戦のおさらいをしておきましょう」
魔術師が語り始めたのは、ドラゴン戦において最も勝率が高く、かつ被害を最小限に抑えるための戦術。それは、幾多の犠牲の上に磨き上げられ、王都のギルドが導き出した「解」であった。
マルク以外のメンバーは、当然のようにその手順を共有している。
(……驚いたな。ここまで徹底されているのか)
マルクは、説明を聞きながら内心で舌を巻いた。
辺境であれば、ドラゴンの機嫌や地形、その場の勢いで決まるような生死の分かれ目が、ここでは完璧なマニュアルとして体系化されている。
先人たちが血を流して得た教訓が、共通の「知恵」として今の若者に受け継がれている。その事実こそが、マルクには何よりも眩しく、そして頼もしく感じられたのである。
◇
村に着くと、いくつもの家々から黒煙が上がっていた。逃げ惑う村人たちが行き交い、けが人の手当てや必死の消火活動に当たっている。その悲痛な光景の上空で、煤けた空を高く旋回するのは、漆黒の鱗を持つ巨大なドラゴンだ。一度目の襲撃を終え、今は悠然と獲物の様子を眺めている。
「一休み、といったところか。……行くぞ」
馬車を飛び降りた急ごしらえのパーティは、村の外に広がる開けた平地へと陣を敷く。ここでの戦闘なら、これ以上の村への被害は抑えられるはずだ。
マルクは無言で、あらかじめ定められた陣形に身を置く。前衛にマルクとカレン。後衛にレンジャーと魔術師、そしてその中央に神官が立つ。
陣形が整った瞬間、魔術師の杖先から火球魔法が放たれた。火球は唸りを上げて飛び、ドラゴンの巨大な翼の横をかすめる。
上空の主は、地上で身構える矮小な冒険者たちの姿を見つけた。
刹那、真っ黒な巨体が空を切り裂き、こちらへ向かって急降下してくる。
敵、あるいは格好の餌と認識したのだろう。
(おもしろい人間どもだ。少し相手をしてやろう)
その冷酷な黄金の瞳がそう言っているようだった。
地響きを立てて降り立ったドラゴンの姿は、至近で見ると想像以上に巨大だった。
マルクは全身の筋肉が鋼のように緊張するのを感じる。だが同時に、腹の底からじわじわと体が火照り始めていた。
(──いつだったか。こんな風に、アルテたちとドラゴンに対峙したことがあったな)
場違いな感慨が脳裏をかすめたが、次の瞬間には意識を「今」へと塗り潰す。
ドラゴンが咆哮した。大気を震わせるその叫びが、決戦の合図となった。
神官が祈りを捧げ、背後を保護する強固な防御結界を展開する。
それと同時に、マルクとカレンは打ち合わせた通り、弾かれたように突撃を開始した。
ドラゴンは太い腕を振り、鞭のような尾を叩きつけ、しつこい虫を潰すように襲いかかる。だが二人の戦士は、その一撃一撃を紙一重でかわしては間合いを詰め、鋭い一閃を繰り出した。
鉄より硬い皮膚に阻まれ、致命傷には至らない。しかし、カレンが攻撃を受け止めれば、その隙を突いてマルクが打ち込み、マルクが注意を引けばカレンが斬りかかる。
入れ代わり立ち代わり、執拗に傷を刻んでくる人間に、ドラゴンは次第に苛立ちを募らせていく。なぎ払われた巨木や岩が容赦なく飛んでくるが、後方で祈り続ける神官の結界がそれらを完璧に弾き返した。
その盾の裏側で、魔術師は朗々と詠唱を続け、レンジャーに幾重もの付与を重ねていく。
《攻撃力向上》、《集中力向上》、《幸運の祈り》──。
地上での乱戦を嫌ったかのように、ドラゴンは一煽りで砂塵を巻き上げ、雲を突く高さまで一気に高度を上げた。
業を煮やした怪物は、一気に炎を吐き出し、地上のすべてを焼き尽くすつもりだ。
ドラゴンが大きく顎を割り、その喉の奥が燃え盛るマグマのように真っ赤に染まった。
その刹那。
「いまだ。打てッ!」
魔術師の鋭い号令とともに、戦士二人が左右へ飛びのく。
直後、レンジャーはすでに、弦がちぎれんばかりに弓を絞り切っていた。
この、一瞬の隙を待っていたのだ。
指先が放たれる。
あらゆる強化を付与された銀の矢は、吸い込まれるように、ドラゴンの燃え盛る口腔めがけて一直線に飛んだ。
──ズバッ!
鈍い衝撃音とともに、矢はドラゴンの急所に深々と突き刺さった。
あふれ出そうとしていた炎が喉の内で爆ぜ、ドラゴンの巨体はバランスを崩して地面へと墜落した。
土煙が舞い上がる。
しばらくして砂塵が収まったとき、そこにはピクリとも動かなくなったドラゴンの死骸と、息を切らしながらも全員が無傷で立ち尽くす冒険者たちの姿があった。




