16 用務員の初仕事
九月。強い日差しがようやく和らぎ始めたものの、まだ肌に熱がまとわりつくような暑さの中、アレクス勇技総合大学校は入学式の日を迎えた。
校内の喧騒は、早朝から始まっていた。
「用務員さーん。こっちに椅子持ってきてくれるー?」
「用務員さーん、こっちもおねがーい! 」
教官たちの指示や、準備に追われる上級生たちの声が飛び交う中、マルクは朝から入学式の設営に東奔西走していた。
「はい、はーい。今行きますよ」
マルクは気前よく返事をし、首にかけたタオルで汗を拭いながら、てきぱきと立ち働く。
支給されたばかりの少し煤けた作業着姿。用務員姿がやけに板についていた。
開式の鐘が鳴る直前、ようやく全ての設営が完了した。
なんとか時間に間に合い、マルクは壇上の裏側に滑り込む。幕の隙間から会場の様子を伺いながら、彼はようやく一休みとばかりに、隅に置かれた木箱に腰を下ろした。
入学式の開始時間になり、大講堂に集まったのは、希望に胸を膨らませた初々しい生徒たちだ。
マルクが周囲を見渡す限り、そのほとんどが十五歳前後。若さゆえの昂揚感に包まれている。
式の開始を告げる鐘の音が重厚に響き渡った。
司会者の進行に従い、校長による式辞が始まる。
「――第十代校長、バルトロメウス・フォン・アレクスより式辞を述べます」
堅苦しい紹介を受け、バルトロメウス校長はゆっくりと壇上の中心に立った。
静まり返った講堂に、彼の低く重みのある声が響く。
「……俺がまだ、駆け出しの冒険者だった頃の話だ」
予想に反した語り口に、新入生たちの間に困惑が走る。
校長は表情を変えず、淡々と続けた。
「少し経験を積み、自分の腕に自信がついてきた頃のことだ。俺たちのパーティは、たった一度のクエストで壊滅した」
会場がざわめいた。入学式にしては、あまりに物騒で不吉な話だ。
「慢心があったのだ。自分には才能があると勘違いし、日々の地味な鍛錬をサボりがちになっていた。そんなある日、俺たちは『三つ目狼』の群れを討伐するクエストを受けた」
「森で奴らに遭遇し、最初は順調に捌いていった。だが、奴らはいつもと違った。いつもならとっくに尻尾を巻いて逃げ出すはずが、その日に限って、執拗に俺たちに付きまとったのだ。想定より数も多かった。今思えば冬が近く、奴らも後がなかったのかもしれない」
生徒たちは、いつの間にか私語を止め、固唾を飲んで老騎士の言葉に聞き入っていた。
「やがて、俺たちのスタミナが切れた。足がもつれ、剣が上がらなくなる。……動けなくなるんだ。その時、俺は生まれて初めて、底知れない恐怖を感じた」
「全員、バラバラになってその場を逃げた。俺も必死だった。仲間のことを構う余裕など、カケラもなかった」
「俺は全身に傷を負いながらも、奇跡的に逃げ切ることができた。……だが、仲間たちは、誰一人として戻らなかった」
会場は、冷水を浴びせられたように静まり返った。
「いいか、諸君。冒険者にとって『体力』とは、己の命を守るための最低限にして、最後の砦だ」
「この学校では毎朝、基礎トレーニングを課す。戦士はひたすらに剣を振れ。レンジャーは弓を射ろ。魔術師や神官も、ただひたすらに走れ」
「死にたくなければ、決してサボらないことだ。……以上」
それだけ言い残すと、バルトロメウス校長は背を向けて壇上を去った。
拍手は、起きなかった。
新入生たちは皆、ぞっとした顔で無人になった壇上を見つめていた。これから始まる華やかな学園生活を夢見ていた彼らにとって、それはあまりに重い現実の宣告だった。
しかし、マルクだけは一人、深く感銘を受けていた。
(……まさに、その通りだ)
敵の面前でスタミナが切れた時の、あの絶望感。それは、死線を越えた者でなければ決して理解できない真実だ。
それを、これ以上ないほど真に迫る経験談として説き、ともすれば手を抜きがちになる単調な日々の鍛錬へ、強烈な動機づけとする。
(早々に、勉強になった。やはりあの校長、只者ではないな)
◇
新入生三百二十名は、それぞれ八つのクラスに分けられた。
入学式の喧騒が一段落すると、生徒たちは期待と緊張を胸に、割り振られた教室へと向かっていく。
「さて、折角の機会だ。どんな風に教育が始まるのか、見学させてもらうか」
マルクは、生徒たちの波に混じって教室へと向かった。邪魔にならないよう後方の扉付近からそっと中を覗き込む。
そこは、天井が高く、使い込まれた木の机が並ぶ広く趣のある教室だった。
がやがやと騒がしい教室の空気。席を取り合う少年たちの声や、期待に満ちた若い命が放つ特有の熱気を肌で感じながら、マルクは感慨に浸っていた。
(こうして生徒が集う場にいると、子供の頃に教会の寺子屋に通っていたのを思い出すな。)
かつての懐かしい記憶を掘り起こし、目を細めていたその時――。
「はい。みな、静かに」
教室の前方の扉が勢いよく開き、一人の女性が颯爽と入ってきた。
その女性は教壇に立つと、チョークを手に取ってさらさらと自分の名前を書いた。
「三組の担任を受け持つことになった、カレン・エルステッドだ。よろしく」
カレンと名乗ったその女性は、腰に細身の剣を帯びていた。動きやすさを重視した軽装の出立ちからは、手慣れた戦士の雰囲気が漂っている。
驚くべきはその若さだ。おそらく二十歳前後。マルクは「自分より年下ではないか?」と目を丸くした。
カレン教官の瞳に宿る戦士の鋭さを、マルクは敏感に感じ取っていた。この若さで教官の地位にあるということは、単なる実力以上に、この学校の理念を誰よりも深く体現している証なのだろう。大したものだと、マルクは一人で感心しっぱなしだった。
◇
「それでは、明日からのカリキュラムについて説明する」
カレン教官はそう言うと、手際よく黒板にチョークを走らせ始めた。
「説明が終わったら、各自、授業までに購買部で指定の教科書を購入しておくこと。さっきの講堂の隣が食堂と売店になっているから、昼食はそこで取れるぞ」
彼女はまず、この学校の絶対的な理念である「生きて帰る冒険者を育てる」ことの重要性を説いた。その後、一年間の流れを黒板に描き出していく。
「一年は前期と後期に分かれている。前期は『基礎科』と『専門科』の二本立て。基礎科では、冒険者としての“土台”を徹底的に叩き込む。専門科では目指す職業ごとに分かれて、個々の適性を伸ばし、“役割”を磨き上げてもらう」
【前期:基礎科】
* 生存術(野営、食糧確保、応急処置)
* 危険予測(罠の感知、魔物の習性、撤退判断)
* 戦闘基礎(武器の扱い、対人・対魔物防御)
* 世界理解(地理、歴史、各地の伝承)
* ギルド実務(依頼の選び方、報告書の書き方、法知識)
【前期:専門科】
* 戦士科、魔法科、神官科、探索科に分かれ、それぞれの専門技能を習熟させる。
「そして後期は『統合実践科』。ここでは実際にパーティを組み、実地を想定した高度な訓練を行う。卒業後、即戦力として動けるようにするための最終工程だ」
マルクは胸の高鳴りを抑えられなかった。
かつて自分が冒険者になった時は、右も左も分からないまま戦場に放り出され、死に物狂いで経験を積むしかなかった。だが、ここでは「生き残るための知恵」が、これほどまでに体系立てて整理されている。
(想像以上だ。独学では一生かかっても気付けないようなノウハウが、ここには詰まっている……)
グレイムの街に作るべき学校の青写真が、マルクの頭の中で少しずつ、しかし確実に形を成し始めていた。
「――以上だ。これからの諸君の成長に期待している」
一通りの説明を終えると、カレン教官はチョークを置き、凛とした足取りで教壇を降りた。生徒たちの間に緊張の余韻が残るなか、彼女は教室を立ち去ろうとして、ふと足を止める。
その視線の先にいたのは、教室の後方の扉付近で、一人壁に身を預けていた作業着姿の男だった。
「用務員さん。チョークがもう無くなりそうだ。補充をお願いできるか?」
カレンの問いかけに、マルクは気負わない笑みを浮かべ、軽く手を振って応えた。
「はい。わかりました。次の授業までにはやっておきますよ」
「……ああ、よろしく頼む」
カレンは短く頷くと、そのまま廊下へと消えていった。




