第4話 初めての地上、初めての宿、そして異世界の夜は心臓に悪すぎる
階段を上りきった瞬間、俺は思わず立ち止まった。
「……すごい」
視界が開ける。
そこには巨大な石造りの都市が広がっていた。
空は夕焼けに染まり、茜色の光が塔の壁や城壁に反射している。道は石畳で、行き交う人々の服装はまるでファンタジーそのものだった。鎧を着た冒険者。ローブの魔術師。荷車を引く商人。露店から漂う肉の焼ける匂い。鐘の音。人の声。
異世界だ。
ここは本当に異世界なんだ。
「驚くのも無理はないわね。グランフォルトは初めて?」
エルフィーが少しだけ得意げに言う。
「まあ、うん……初めて」
「でしょうね」
完全に観光客みたいな反応をしてしまった。
でも仕方ないだろ。昨日まで制服で登校してた高校生が、いきなりこんな世界に放り込まれたんだから。
セラが俺の隣で微笑む。
「迷宮都市グランフォルトです。王国でも有数の大都市なんですよ」
「迷宮都市……」
「この街は、巨大迷宮の主要入口のひとつの上に建てられているんです。だから冒険者も、商人も、聖職者も、みんな集まってきます」
なるほど。ダンジョンの町ってことか。
テンプレっぽいのに、実際に見ると圧倒される。
門の近くを歩いていると、何人かの冒険者がこちらをちらちら見た。たぶん俺の制服のせいだ。明らかに浮いている。
「やっぱりその格好、かなり目立つわね……」
エルフィーも気づいたらしい。
「そんなに変か?」
「変というか、どこの民族衣装よって感じ」
「民族衣装……」
ブレザーが。
「今日はもう遅いし、先に宿を取るわ。ギルドは明日」
「いいの?」
「だから、放っておくと面倒なのよ」
エルフィーはそう言いながら、少しだけ歩く速度を落としてくれた。俺が周囲を見るのに気を取られて、遅れそうになっていたからだ。
その小さな気遣いが、妙に胸に残る。
案内された宿は、石と木でできた三階建ての建物だった。看板には剣と杯の絵が描かれている。
「《銀杯の止まり木》、ここなら安全よ」
中に入ると、暖炉の匂いと料理の匂いが混ざった空気が迎えてくれた。木のテーブル、賑やかな冒険者たち、忙しそうに動く給仕。まさに異世界の宿屋だ。
「部屋は二つ。女性二人と、彼で一部屋ずつ」
エルフィーが受付の女将にそう告げる。
当然の判断だ。なのに、なぜか少しだけ残念に思った自分がいる。何を考えてるんだ俺は。
女将は俺を見て首を傾げた。
「珍しい格好の坊やだね」
「旅の途中で事情があって」
エルフィーがさらりと答える。こういう時、強い。
「ふぅん。まあ詮索はしないよ。飯は食うかい?」
その言葉に、俺の腹が派手に鳴った。
最悪だ。
セラが「わっ」と小さく笑い、エルフィーが咳払いをした。
「……食べるわ」
通されたテーブルに並んだのは、分厚い肉のソテー、黒いパン、豆の煮込み、野菜のスープだった。
ナイフとフォークを手に取る。
一口、食べる。
「うまい」
思わず言っていた。
肉はちょっと硬いけど、香辛料が効いている。スープは塩気が強いけど温かくて、生き返るみたいだった。黒パンも見た目より食べやすい。
「そんなに?」
セラが微笑む。
「めちゃくちゃうまい」
「ふふ。よかったです」
エルフィーは上品に肉を切りながら、ちらっと俺を見た。
「そんなに飢えてたの?」
「……まあ、色々あって」
学校の昼休みを思い出す。
購買でパンを買いに行ったら、後ろから取り上げられて投げられたこと。机に座っていたら、わざとぶつかられて牛乳をこぼされたこと。食欲がなくて、そのまま何も食べなかった日もある。
喉の奥が少しだけ詰まった。
「ユウトさん?」
「いや、大丈夫」
そう言ってスープを飲む。
あったかい。
それだけで、妙に泣きそうになった。
食後、部屋へ向かう前に、エルフィーが小袋を机に置いた。
「これ」
「何?」
「迷宮内での簡易報酬。宿代と食事代はこっちで持つけど、何も持ってないのは不安でしょう」
中には銀貨が数枚入っていた。
「いや、でも……」
「貸しよ。出世払いで返しなさい」
かっこよすぎる。
「エルフィー様、やっぱり優しいです」
「優しくない!」
今日それ何回目だ。
そのあと、セラが少しだけ遠慮がちに言った。
「あの、ユウトさん。もしよかったら、お風呂のあとで傷をもう一度見ます。迷宮で受けた傷は、ちゃんと処置した方がいいので」
「え、あ、うん……ありがとう」
お風呂。
異世界にもあるのか。
結果から言うと、あった。
ただし木桶で湯を使う形式で、現代日本の風呂みたいに快適ではない。でも、温かい湯が体を包んだ瞬間、俺は本気で天を仰いだ。
「生き返る……」
制服の汚れをなんとか落とし、部屋に戻る。
その途中、廊下の角でエルフィーと鉢合わせした。
「あ」
「あ……」
向こうも風呂上がりらしく、金髪が少しだけ湿っていた。いつもの鎧じゃなく、薄い部屋着の上にガウンを羽織っている。正直、かなりまずい。視線の置き場に困る。
「な、何見てるのよ」
「見てない」
「見てるじゃない!」
「いやその、エルフィーがいつもと違うっていうか」
「そ、それは部屋着なんだから当たり前でしょう!」
顔が赤い。俺の顔もたぶん赤い。
学校じゃ、女子とこんな距離で話すことなんてほとんどなかった。そもそも話す前に空気が悪くなることの方が多かった。
でも今は。
異世界の宿の廊下で、美少女と風呂上がりに会話してる。
人生、何があるかわからない。
「……明日、ギルドに行くわ」
エルフィーが少し落ち着いた声で言う。
「あなたの事情、全部は話さなくていい。でも、変に目立ちすぎないようにしなさい」
「努力はする」
「努力だけじゃ不安なのよね……」
ため息。
でも、そのあと彼女は小さく付け足した。
「それでも、今日のあなたは……その……ちゃんと役に立ってたわ」
「え?」
「二回は言わない!」
言うだけ言って、足早に去っていく。耳まで赤い。
なんだこれ。
王道すぎる。
部屋に戻ると、しばらくしてからセラがノックしてきた。
「失礼します……傷、見せてもらってもいいですか?」
そうして、俺は椅子に座り、肩口の布を少しだけずらして治療してもらうことになった。
近い。顔が。匂いが。柔らかい声が。
「まだ少しだけ魔力の傷跡が残ってますね……でも、大丈夫です。《ピュア・ヒール》」
淡い白光が肩に広がる。痛みがほどけていく。
「セラって、すごいな」
「そんなことないです。私はまだ見習いですし……エルフィー様の方がずっとすごいですよ」
「でも、助かったよ。さっきも、今も」
そう言うと、セラは一瞬だけ目を見開いて、それからふわっと笑った。
「……そう言ってもらえるの、嬉しいです」
治療が終わり、セラが出ていったあと、俺は部屋の小さな窓を開けた。
夜のグランフォルトが見える。
灯りが点々と街を照らし、遠くで鐘が鳴る。
異世界の夜だ。
静かで、でもどこかざわついている。
俺はポケットから、あの黒い指輪――《帰路の指環(欠片)》を取り出した。
月光にかざす。
鈍い輝き。
帰路。
その言葉だけで、心の奥が刺されるみたいに熱くなる。
「……帰る」
小さく呟く。
この世界で強くなる。
レベルを上げる。金も地位も仲間も手に入れる。迷宮の深層に行く。門の秘密を知る。
そして、帰る。
高杉。
村瀬。
柴山。
お前たちは、もう二度と俺を笑えない。
その時、俺はどんな顔でお前たちを見るんだろう。
許す気なんて、今はまったくなかった。




