08_妻
扉が閉まった。
温室に、一人残された。
レオンはしばらく動かなかった。
さっきまでセレナがいた場所を見る。
壁際には、まだ夕暮れの光が残っている。
黒い手袋をした手を持ち上げた。
指先を見る。
ほんの一瞬。
ここに、セレナの唇が触れた。
『驚いただけですわ』
赤くなって、そう言い張っていた。
思い出すと、少し笑える。
笑えるはずなのに。
「……俺に聞くなよ」
声にすると、思ったより力がなかった。
夫が自分を抱かない。
どうすればいいと思う。
そんなことを相談する相手として、自分ほど向いていない男はいない。
けれど。
セレナは知らない。
だから聞ける。
自分に魅力がないのだろうかと。
アルベルトはそういうことが嫌いなのだろうかと。
あんなに真剣な顔で。
レオンは知っている。
覚えている。
前の人生で。
セレナは、レオンの妻だった。
◇
朝。
腕の中で、セレナが動いた。
「レオン」
「ん……」
「朝ですわ」
「まだ」
起き上がろうとする身体を抱き戻す。
「もう起きます」
「やだ」
「朝食に遅れますわ」
「遅れればいいよ」
「皇太子が言うことではありません」
呆れた声が近い。
銀色の髪が頬にかかって、くすぐったい。
セレナがもう一度起き上がろうとしたので、腕に少し力を入れた。
「重いですわ」
「じゃあ外す?」
返事を待つ。
「どっち?」
「知りません」
笑って、もう一度抱き寄せた。
何でもない朝だった。
何かの記念日でもない。
特別なことなんて、何もなかった。
そんな朝が、何度もあった。
料理を作れば、セレナは嬉しそうに食べた。
仕事ではよく意見がぶつかった。
夜まで喧嘩して。
翌朝になれば、また同じ食卓についた。
木苺と蜂蜜の焼き菓子が好きだった。
だから、この人生で再会した日にも用意した。
セレナが同じものを持って現れたとき。
嬉しかった。
変わっていない。
そう思った。
『偶然ですわね』
セレナは笑った。
偶然ではなかった。
何度も一緒に食べたから。
好きなのを知っていたから。
けれど。
そんなことは言えなかった。
セレナは覚えていない。
だから。
「偶然だね」
と、笑った。
◇
前の人生は終わった。
セレナはいなくなった。
もう二度と会えないと思っていた。
それなのに。
もう一度、セレナを見つけた。
生きていた。
最初は。
それだけでよかった。
本当に。
自分を覚えていなくてもいいと思った。
目の前にいる。
名前を呼べば振り返る。
話しかければ返事をする。
笑う。
怒る。
生きている。
それ以上を望んだら、罰が当たる気さえした。
だから。
今のセレナがアルベルトを愛していることも。
アルベルトの妻になっていることも。
受け入れるつもりだった。
手に入らない。
それでいい。
そう思っていた。
◇
なのに。
セレナは、あまりにも無防備だった。
自分のことを何も覚えていないから。
平気で隣に座る。
頼ってくる。
笑いかける。
昔と同じ声で、名前を呼ぶ。
そのたびに。
レオンだけが思い出す。
ああ。
この顔を知っている。
この声も知っている。
こういうとき、少し眉を下げることも。
考え込むと黙ってしまうことも。
全部。
知っている。
でも。
「覚えてる?」
とは聞けなかった。
覚えていないことくらい、もう分かっていた。
◇
そして今日。
『その先へ来ませんの』
さすがに。
あれはひどい。
『……一度も?』
『ええ』
嬉しい、と思った。
考えるより先に。
そのあとで、自分でも呆れた。
今のセレナは、アルベルトの妻だ。
自分には関係ない。
そう思っているのに。
まだ白い。
その事実が。
どうしようもなく甘かった。
そのうえ。
『……どうやって?』
夫を誘惑する方法まで聞いてくる。
レオンは目を閉じた。
「……俺に聞くなって」
もう一度、呟く。
セレナは何も知らない。
自分が誰にそんなことを聞いているのか。
前の人生で。
毎朝、同じ寝台で目を覚ました男に。
夫を誘惑する方法を聞いている。
本人は真剣だった。
だから余計に困った。
手に入らないと思っている。
手を伸ばしてはいけないとも思っている。
なのに。
向こうから隙を見せてくる。
『知りたい?』
『ええ』
あんなふうに。
まっすぐ見て。
「……ずるいだろ」
少しくらいなら。
そう思った。
困らせて。
顔を赤くさせて。
怒られて。
それで終わるはずだった。
レオンは黒い手袋をした指を見る。
唇に触れた。
セレナの身体が震えた。
名前を呼んだ。
逃げなかった。
そして。
ほんの少し。
セレナの顎が上がった。
自分から。
あの瞬間。
本当に、口づけそうになった。
「……危なかった」
笑おうとした。
少しだけ、うまくいかなかった。
前の人生なら。
口づけるのに理由なんていらなかった。
朝でも。
夜でも。
目が合って。
したくなれば、した。
今は。
ほんの少し近づくことさえ。
してはいけない。
レオンは壁に背を預けた。
同じ人なのに。
もう、自分の妻ではない。
分かっている。
それなのに。
セレナは何も知らずに。
昔と同じ顔で笑う。
昔と同じ声で名前を呼ぶ。
ときどき。
昔と同じくらい近くまで来る。
そして自分だけが。
そのたびに、昔を思い出す。
「俺、結構いい夫だったんだけどな」
返事はない。
前の人生なら。
きっとすぐに返ってきた。
『自分で言うことではありませんわ』
そんな声まで、簡単に思い出せる。
レオンは少し笑った。
幸せだった。
少なくとも、自分は。
セレナもそうだったと。
今でも思っている。
でも。
それを確かめることは、もうできない。
今のセレナに聞いたところで。
知らないのだから。
温室の外は、いつの間にか暗くなり始めていた。
レオンは黒い手袋の指先を見る。
ほんの少し前まで。
そこには確かに、セレナの唇が触れていた。
けれど。
もう、何も残っていなかった。




