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元悪役令嬢ですが、夫が二人になりました。どちらも私に執着しています  作者: すなな


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07_甘い誘惑

アルベルトが王妃への報告に向かってから、研究室は妙に静かになった。

さっきまで三人で囲んでいた机に、セレナとレオンだけが残っている。


紙をめくる音がする。

ペン先が走る。

窓の外では、夕暮れの風に木々が揺れていた。


何も変わっていない。

机の位置も。

椅子の間隔も。

部屋の広さも。

ただ一人、アルベルトがいなくなっただけだった。

それなのに。

セレナは先ほどから、どうにも落ち着かなかった。


二人しかいない。

そう意識した途端、さっきまで気にも留めなかった物音が妙に近く感じられる。

紙をめくる音も。

小さく息を吐く気配も。

隣にいるレオンの存在まで、必要以上にはっきりと分かる。

静かなだけのはずなのに、どこか気が抜けない。


「これ、もう見た?」


不意に声が近くでして、セレナは顔を上げた。


「……ええ。そちらは確認しましたわ」

「じゃあ、こっちか」


レオンが隣から紙を取る。

黒い手袋をした指が、セレナの手元をかすめた。

触れてはいない。

それなのに、なぜかそこへ目が行った。

セレナはすぐに資料へ視線を戻す。

おかしい。

先ほどまでアルベルトも同じ場所にいた。

レオンとも普通に話していた。

一人減っただけだ。

なのに今は、レオンと二人きりでいることばかり意識してしまう。


「……疲れた?」

「いいえ」

「さっきから静かだから」

「レオン様もでしょう?」

「俺は仕事中はこんなものだよ」

「そうでしたの」


また会話が途切れる。


静かだ。

今度は、その静けさまで気になった。


何か話した方がいいのだろうか。

けれど、わざわざ話題を探すのもおかしい。

そう考えている自分がおかしい気もする。


やがて、レオンが椅子から立ち上がった。

セレナの肩から、知らず入っていた力が少し抜けた。


「終わり」

「もうよろしいんですの?」

「あとは持ち帰って見るよ」


書類を揃えながら、レオンが隣の扉へ目を向けた。


「そういえば、あっちは?」

「温室ですわ」

「温室?」

「お義母様が育てている植物がありますの」

「へえ。見てもいい?」

「ええ」


ちょうどいい。

セレナも立ち上がった。

少し身体を動かしたかった。


隣の扉を開く。

途端に、むっとした空気が頬を包んだ。

ガラス張りの温室には、大小さまざまな植物が並んでいた。

夕暮れの光を受け、濡れた葉が鈍く光っている。

土の匂いが濃い。

湿った空気が、じっとりと肌にまとわりついた。

セレナは植物の間を歩く。

レオンもついてくる。

通路は二人で並ぶには少し狭い。

大きな葉を避けるたび、肩が近づく。


「これも薬になるの?」

「ええ。根を乾燥させて使いますの」

「こっちは?」

「それは毒ですわ」

「怖いなあ」

「食べなければ大丈夫です」

「食べないよ」


笑い声が近い。

セレナは横目でレオンを見た。

黒い髪。

青灰色の瞳。

背が高く、顔立ちも整っている。

よく笑うし、話していて退屈もしない。


――そういえば。

以前、アルベルトが言っていた。


レオンは女癖が悪い、と。


あのときは、単にレオンを嫌っているから悪く言っているのだと思っていた。

けれど。

改めて見ると。

確かにもてそうではある。

女性との付き合いにも慣れていそうだ。

そこまで考えてセレナは足を止めた。


「レオン様に、少し伺いたいことがありますの」

「なに?」

「……夫婦についてですわ」


レオンの足が止まった。

ほんの一瞬。


「俺に?」

「ほかに聞ける方がいませんの」

「……そっか」


なぜか返事が遅かった。


「それで、何?」

「その……」


いざ口にしようとすると、思っていた以上に恥ずかしい。

セレナは近くの葉へ視線を逃がした。


「愛されていないとは思いませんの」

「それはまあ……見てれば分かるよ」

「手もつなぎますし、抱きしめてもくださいます」

「うん」

「キスもしますわ」

「……うん」

「一緒にも眠ります」


返事がなくなった。

セレナは振り返る。


「レオン様?」

「聞いてるよ」


妙に疲れた顔をしている。


「ですが」


セレナは声を落とした。


「その先へ来ませんの」


レオンが止まった。


「……一度も?」

「ええ」


青灰色の瞳が、まじまじとセレナを見る。


「きみ、白いままなの?」

「……その言い方、やめてくださる?」

「ごめん」


謝ったくせに。

レオンの口元が、ほんの少し緩んだ。


「なぜ笑うんですの?」

「笑ってないよ」

「笑っていますわ」

「驚いただけ」


そうは見えない。

むしろ、なぜか少し嬉しそうにさえ見えた。


「わたくしは真剣に悩んでいますのよ」

「うん。ごめん」


今度はレオンも表情を改めた。


「わたくしに魅力がないのでしょうか」

「それはないよ」


即答だった。

セレナは瞬く。


「……どうしてそんなにすぐ分かりますの?」

「分かるよ」

「何が?」

「それは……見れば」

「それでは分かりませんわ」

「分からなくていいよ」


また、はぐらかされた。


「アルが、そういうこと自体を好まない可能性は?」

「ないんじゃない?」

「どうして?」

「……セレナ嬢」

「はい?」

「今日、難しい質問ばっかりするね」


困ったように笑われる。


「本人に聞いても、はぐらかされてしまうんですもの」

「じゃあ」


レオンが少し考えた。


「君から誘ってみれば?」

「わたくしから?」

「うん」


それは考えたことがなかった。

アルベルトが来ないのなら、自分から。


けれど。


「……どうやって?」


レオンが黙った。


「レオン様?」

「それ、俺に聞くんだ」


青灰色の瞳が、じっとこちらを見る。


まただ。

理由もないのに落ち着かない。

温室には昼間の熱が残っている。

湿った空気が首筋にまとわりつく。

暑い。

そのせいだろうか。


「知りたい?」

「ええ」


レオンが笑った。


「じゃあ」


一歩。

こちらへ近づく。


「俺が、教えてあげる」

「……はい?」


もう一歩。

セレナは反射的に下がった。


「レオン様?」


レオンが近づく。

なぜ自分が下がっているのか分からないまま、また一歩。

背中に硬いものが触れた。

温室の壁だった。


「まず」


黒い手袋をした手が伸びる。


とん、と。

セレナの顔の横についた。


見上げて。


息が止まった。

近い。


レオンはセレナよりずっと背が高い。

その身体を屈められると、視界がほとんど塞がれてしまう。


黒い髪。

長い睫毛。

青灰色の瞳。

いつも笑っている唇。


普段なら一度に意識することなどないものが、全部、近すぎるところにある。


どくん。

胸が鳴った。


「見る」


声まで違って聞こえた。


低い。

甘い。


「……何を?」

「相手を」


青灰色の瞳が、まっすぐセレナを捉える。

思わず目を逸らしかけた。


「だめ」


小さく言われる。

セレナの視線が戻った。

すぐに目が合った。


「そう」


どくん。


また鳴る。

たった一言なのに。

褒められたような気がしてしまった。


「どうして目を見るんですの?」

「自分のことしか考えられなくするため」

「そんなことで――」

「じゃあ」


レオンの瞳が細くなる。


「今、誰のこと考えてる?」


答えようとして、できなかった。

目の前にはレオンしかいない。

近すぎて。

ほかのものが、何も目に入らない。


「これは……あなたが近すぎるからですわ」

「それでいいんだよ」

「よくありません」


レオンが笑う。

その笑みさえ、いつもとは違って見えた。


「次」


壁についていた手が離れた。

ほっとしたのも束の間。

黒い手袋をした指先が、今度はセレナの頬へ近づく。


「……何を」


触れない。

頬のすぐそばを、ゆっくりと下りていく。

触れていないのに。

どこへ向かっているのか、目で追ってしまう。


「相手に」


レオンの声が落ちる。


「次にどこへ触れるのか、考えさせる」


黒い指先が。

唇に触れた。


「……っ」


びくり、と身体が震えた。

自分でも驚くほど、はっきりと。


レオンの指が止まった。

目が合う。

レオンの顔から、笑みが消えていた。


「……」


何も言わない。

ただ、セレナを見ている。

その顔を見た方が、まずかった。

先ほどまで余裕たっぷりだった男が、今は少しも笑っていない。


「……今のは」


ようやく声を出す。


「うん」

「驚いただけですわ」

「何も言ってないよ」

「言いたそうな顔をしています!」

「どんな顔?」

「知りません!」


レオンの口元に、ゆっくり笑みが戻った。

指はもう離れている。

それなのに。

唇だけが、まだ熱い。

手袋越しにほんの一瞬触れただけなのに。


レオンの視線が落ちる。

セレナの唇へ。


それだけで。

先ほど触れられた場所が、また熱を持ったような気がした。


「そういう顔。……アルベルトに見せたら?」


レオンが身を屈めた。

言葉が消えた。

今度はレオンの唇が近かった。


「……」


あと少し。

ほんの少し顔を動かせば、触れてしまう。


セレナは息を止めた。

温室の湿った空気が、二人の間に籠もっている。


額に汗が滲む。

頬も。

耳も。

首筋も。


全部が熱い。

レオンの吐息まで感じられそうだった。


「ここまで来たら」


囁く。


「何もしない」

「……何も?」

「うん」


レオンは本当に止まった。

近いまま。

触れないまま。


「どうして……」

「相手に考えさせるんだよ」

「何をですの?」


青灰色の瞳が、一瞬だけ下がる。

唇へ。

また戻る。


「このあと、何されるんだろうって」


胸が跳ねた。

声が、ひどく甘い。


「考え始めたら」


さらに少しだけ顔が近づく。

触れない。


「もう、こっちしか見られない」


その通りだった。

レオンしか見えない。

見てはいけないと思うのに、目を逸らせない。

近い唇が気になる。

先ほど指先で触れられた自分の唇まで、意識してしまう。


レオンが、また少し近づく。

あと少し。

そこで止まった。


「……?」


なぜ。

止まったのだろう。


そう思ってしまった。

次の瞬間。


セレナは気づいた。

自分の顎が、ほんのわずかに上がっている。


まるで。

自分から、その距離を縮めようとしたように。


「――っ」


慌てて顎を引いた。

レオンの目が細くなる。


「今」

「何もしていませんわ」

「まだ何も言ってないよ」

「……」

「セレナ嬢」


名前を呼ばれる。


「もう一回やってみて」

「何をですの」

「今の」

「知りません」


レオンが笑った。

ほんの少し。


「惜しかったな」

「何がですの!」


声が上ずった。

レオンは答えない。

代わりに、もう一度顔を近づける。

セレナは今度こそ逃げようとした。

そのはずだった。


「セレナ」

「――」


身体が止まる。

初めてだった。

嬢のつかない、自分の名前。

それだけで。

胸の奥を直接撫でられたような気がした。


「こっち見て」


見ている。

もう、とっくに。

それなのに。

名前を呼ばれた途端、目を逸らすことさえできなくなった。

青灰色の瞳が近づく。

セレナの指が、ぎゅっとドレスを掴んだ。

逃げなければ。

相手はレオンだ。

夫ではない。

分かっている。

なのに。

レオンがゆっくり顔を傾ける。

セレナは逃げなかった。

逃げられなかったのではない。


一瞬だけ。

逃げなかった。


唇が近づく。

あと少し。

瞼が落ちそうになる。

その瞬間。


――何をしているの。


我に返った。

アルベルトではない。

夫ではない男に唇を触れられて。

見つめられて。

名前を呼ばれて。

口づけされるかもしれないと思って。

自分は今。

逃げるどころか。

待っていた。


「……っ!」


セレナは身体を横へ滑らせた。

レオンの腕の下を抜ける。


「セレナ嬢?」

「もう結構ですわ!」


自分でも驚くほど声が上ずった。


「まだ途中だけど」

「十分です!」


早足で出口へ向かう。

胸がうるさい。

歩くたびに鼓動が響く。


「セレナ嬢」


振り返らない。


「待って」


待てるわけがない。

嫌だったからではない。

怖かったからでもない。

その逆だった。

だから困るのだ。

扉へ手をかける。


「もう二度と、レオン様にはこういう相談をいたしません」

「それがいいと思う」


即答された。

セレナは思わず振り返った。

扉を開ける。

外の空気が一気に流れ込んできた。

涼しい。


それなのに。


頬の熱も。

唇に残った感覚も。

胸の鼓動も。

少しも消えてくれなかった。

セレナは足を速めた。

アルベルトに会いたい。

今すぐ。

そう思った。


なのに。


頭に浮かんだのは。

青灰色の瞳と。

唇に触れた、黒い指先だった。




挿絵(By みてみん)

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