52_いつものように
昼過ぎ。
セレナとレオンは、調査に使っている書斎の奥にある小さな休憩室にいた。
午前中は、アルベルトも一緒だった。
エルグランにいた間は今回の件に関わる王族である以上、建前上アルベルト自身が国内の調査へ直接加わるわけにはいかなかった。
けれど、ここはヴァルディアだ。
ヴァルディア皇帝の許可も出ている。
制約もなくなり、今日は久しぶりに三人で同じ机を囲んだ。
昼前にはひと区切りつき、アルベルトは別の用事へ向かっている。
セレナとレオンも残っていた確認を終えたのだから、もう戻ってもよかった。
それでもセレナはまだ休憩室にいた。
長椅子の端で、手すりに背を預けたレオンの前に座っている。
レオンは後ろからセレナの腰を抱き、その肩越しに銀髪を弄んでいた。
「やはり、三人の方が早いですわね」
さっきから、ずっとこの話だった。
「そうだね」
「今日の帳簿も、アルが気づかなければ、もう少し時間がかかっていたと思いますの」
「うん」
「わたくしは流通の順番ばかり見ていましたけれど、アルは先に制度の方を確認したでしょう?」
「見てたね」
「同じものを見ていても、目をつけるところが違いますのね」
声が弾んでいる。
アルベルトがまた一緒に調査できるようになったことが、よほど嬉しいらしい。
「エルグランのことなら、やはりアルの方が詳しいですし。今日も、わたくしが忘れていた運用をすぐに思い出してくださって」
「へえ」
「レオン様も、あれは助かったと思いませんでした?」
「思ったよ」
「でしょう?」
セレナが嬉しそうに笑う。
レオンは銀髪を一房、指へ巻きつけた。
解いて。
また巻く。
三人で調べること自体に不満はない。
アルベルトは使える。
自分やセレナとは違うところを見るし、判断も早い。
調査だけを考えるなら、二人より三人の方が効率がいい。
ただ、一つだけ困る。
アルベルトがいると、セレナに触れられない。
二人で調べていた頃なら、腰へ手を回すことも、髪へ触れることもできた。
休憩になれば膝を借りたし、顔を寄せれば口づけることだってある。
けれど、夫が目の前にいるのに同じことをするほど、レオンも無遠慮ではない。
だから今日は朝から、ほとんど触れていなかった。
ようやく二人になって、こうして腕の中へ戻ってきたと思えば。
「二人で調べていたときより、見落としも減りそうですわね」
「うん」
「やはり視点は多い方がいいのでしょうね」
「そうだね」
「レオン様と二人でも随分進みましたけれど、三人ですと、また違いますわ」
「……うん」
悪気がないことくらい分かっている。
セレナはただ、嬉しかったことを嬉しいまま話しているだけだ。
それでも、自分の腕の中で二人より三人の方がいいと聞かされ続けるのは、あまり楽しくなかった。
「今日もアルがあの数字を見て、前の記録と照らし合わせてくださったでしょう? ああいうところは、わたくしではなかなか――」
「うん」
「それで、新しい可能性にもすぐ気づいて。やはりアルは――」
書斎の方で、小さく物音がした。
レオンだけが顔を上げる。
開けたままの扉の向こうに、アルベルトがいた。
何か資料でも取りに戻ってきたのだろう。
こちらを見ている。
目が合った。
アルベルトの足が止まる。
セレナは気づいていない。
後ろから抱かれたまま、まだ楽しそうに夫の話を続けている。
本当なら、ここで腕を解けばよかった。
アルベルトが戻ってきたと教えれば、それで済む。
今までは、そうしてきた。
二人きりのときだけ触れる。
それで十分だと思っていた。
けれど今日は、朝からろくに触れられなかった。
やっと腕の中へ戻ってきたのに、その口から出てくるのは、さっきからずっとアルベルトの名前ばかりだ。
今くらい。
自分の腕の中にいる間くらいは、こちらだけを見ていてほしい。
そんなことを思った自分に、少し驚いた。
まあ、いいか。
「それでアルが――」
レオンはセレナの頬へ手を添えた。
「少し黙って」
「……え?」
自分の方を向かせ、そのまま唇を塞ぐ。
青い瞳が見開かれた。
一度触れて。
離れずに、もう一度。
今度は少し長く重ねる。
腰へ回していた腕で抱き寄せたまま身体をずらすと、セレナの背が長椅子へ沈んだ。
「きゃ……」
レオンもそのまま身体を傾ける。
セレナを下へ寝かせ、自分はその上へ覆いかぶさる。
体重はかけない。
ただ、大きな犬が飼い主へじゃれつくように身体を寄せる。
セレナからは、もう書斎の方が見えなかった。
唇を離す。
「急に何を――」
また小さく音がして、セレナが顔を動かそうとした。
レオンは銀髪を払い、露わになった首筋へ舌先を軽く這わせる。
「もう!」
すぐにセレナの顔がこちらへ戻った。
レオンは笑った。
そのまま頭を抱え込むように腕を回し、耳元へ唇を寄せる。
「俺はセレナ嬢の犬だからね」
「いつから決定したんですの」
「この前から」
「勝手に決めないでくださいませ」
「甘えさせてよ」
囁きながら、耳たぶを軽く噛む。
「……レオン様」
咎めるような声だった。
レオンはすぐに歯を離した。
「嫌?」
「嫌とは言っておりませんけれど」
「じゃあ、いいでしょう?」
「そうやってすぐ都合よく解釈なさるんですから」
呆れたように息をつきながら、セレナが手を伸ばす。
黒髪へ触れ、そのままゆっくり撫でた。
「本当に犬みたいですわね」
「うん」
レオンは上半身を起こしたまま、その手に頭を預けた。
撫でられながら、横目で扉の方を見る。
アルベルトはまだいた。
目が合う。
セレナはまだ、アルベルトがすぐそこにいることにも、レオンがそれを見えないようにしていることにも気づいていない。
レオンは視線を戻した。
目の前には、自分へ手を伸ばしているセレナしかいない。
それでよかった。
身体を沈める。
長椅子の背もたれに遮られ、もうレオンからもアルベルトは見えなくなった。
そのままセレナの首元へ顔を埋める。
頬を擦り寄せると、黒髪を撫でていた手がそのまま頭を梳いた。
レオンは目を閉じた。
見られているかどうかなんて、もうどうでもよくなった。
さっきまで別の男のことばかり話していたセレナが、今は自分の頭を撫でている。
呼べばこちらを見る。
触れれば受け入れる。
それだけで、思っていた以上に満たされた。
「くすぐったいですわ」
首筋へ唇を触れさせる。
「じゃあ、やめる?」
「そこまでは言っておりません」
「じゃあ、もう少し」
「またそれですの?」
セレナが笑う。
レオンも首元へ顔を埋めたまま笑った。
「今日は随分甘えますのね」
「朝から足りなかったから」
「何がですの?」
「セレナ嬢」
即答すると、撫でていた手が一瞬だけ止まった。
「……わたくし?」
「うん」
レオンはそのまま腕を回し直す。
もっと近くへ寄せる。
アルベルトに見られたことより。
そんなことを気にして、この身体を離す方が嫌だった。
「レオン様?」
「もう少し、このままでいて」
セレナは少しだけ黙った。
それから、また黒髪を撫で始める。
「仕方ありませんわね」
「優しいね」
「犬があまりに大きいので、無理に退かすのが大変なだけですわ」
「じゃあ、もっと大人しくする」
「今でも十分重いですわよ」
「体重はかけてないよ」
「そういう問題ではありませんの」
言いながらも、声は笑っている。
レオンはまた頬を擦り寄せた。
少し前までなら。
セレナがアルベルトの話をどれだけしていても、こんなふうには思わなかった。
好きなのだと知っている。
夫なのだから当然だとも思っている。
今だって、それは変わらない。
ただ。
今日は、自分の腕の中にいるセレナを、すぐには返したくなかった。
少しして、レオンは上半身を起こした。
扉の方へ目をやる。
アルベルトの姿は、もうなかった。
レオンはそのまま、もう一度セレナを見る。
銀髪が長椅子の上へ広がっていた。
「もう満足しました?」
「まだ」
「まだですの?」
「うん」
レオンは笑って、また顔を寄せる。
セレナも避けなかった。
唇が触れる。
一度。
離れて。
また重なる。
今度は少し長く。
息をついて、もう一度。
セレナの指がレオンの服を軽く掴む。
ようやく唇を離すと、セレナが小さく息をついた。
「……長いですわ」
「一回は短かったよ」
「何度もなさったでしょう?」
「そうだね」
「でしたら長いです」
レオンが笑う。
セレナも笑った。
顔が近づけば、自然に口づける。
そんな距離が、いつの間にか当たり前になりつつある。
「そろそろ戻らなければなりませんわね」
「もう?」
「随分休みましたもの」
そう言いながらも、セレナはまだ起き上がらない。
レオンも離れなかった。
「もう少し」
「まだ甘えるんですの?」
「犬だから」
「便利ですわね、それ」
「気に入ってる」
セレナが小さく笑って、また黒髪を撫でる。
レオンはその手に頭を預けた。
しばらくして。
今度こそ身体を起こす。
セレナも長椅子から起き上がり、乱れた銀髪を手で整えた。
「もう行きますわ」
「うん」
「レオン様も戻ってくださいませね」
「分かってる」
セレナが休憩室を出ていく。
扉が閉まる。
レオンは一人になっても、しばらくそこを見ていた。
今日だって、いつも通りにするつもりだった。
アルベルトが戻ってきたなら離れる。
それで済むはずだった。
なのに。
見つかった瞬間、離すよりもっと触れたくなった。
少し、やりすぎたかもしれない。
まあ。
いいか。
「……さて」
何事もなかったように、卓上の書類を手に取った。




