53_信じていた
夜になっても、セレナは何も言わなかった。
夕食の席でも、部屋へ戻ってからも、いつも通りだった。
今日の料理の話をして、明日の予定を確認して、アルベルトが答えれば笑う。
アルベルトも笑った。
昼間のことは聞かなかった。
二人きりになれば、セレナの方から話してくれると思っていた。
けれど、何もなかった。
「アル?」
「なに?」
「先ほどから、少しぼんやりしていますわ」
「そう?」
「ええ。お疲れですの?」
「ちょっとだけ」
「では、今日は早く休みましょう」
「うん」
セレナはいつも通りだった。
それが、怖かった。
信じていた。
誰に何を言われても。
セレナのことだけは。
最後には、きちんと線を引く人だと思っていた。
なのに。
昼間。
書斎へ戻ったとき、セレナはレオンの腕の中にいた。
口づけられて。
長椅子へ沈められて。
そこから先は背もたれに隠れて見えなかった。
けれど、もう一度見えたとき。
セレナは自分から手を伸ばして、レオンの黒髪を撫でていた。
優しく。
あの手が、ずっと頭から離れない。
信じてたのに。
それでも。
まだ、信じたい。
だから、待っていた。
セレナの口から何かを聞けば、きっと違うと思える。
そう思っていたのに。
何も言わない。
まるで、話すことなど何もないみたいに。
寝支度を終えたセレナが、いつものように近づいてきた。
「アル」
「なに?」
頬へ手が触れる。
「本当に大丈夫ですの?」
「うん」
「今日は少し変ですわ」
アルベルトは笑った。
「そんなに?」
「ええ」
「何もないよ」
「本当に?」
「うん」
セレナは納得していないようだった。
それでも、それ以上は聞かなかった。
「セレナ」
「はい」
「キスしていい?」
「もちろんですわ」
セレナの方から唇を重ねてきた。
柔らかい。
温かい。
いつものセレナだった。
なのに。
ここに、レオンも触れた。
嫌だ。
考えたくない。
アルベルトはもう一度口づけた。
もっと触れれば消える気がした。
何も変わっていないと思える気がした。
でも。
頬を撫でてくれる指先に、昼間の手が重なる。
黒髪を撫でていた、あの手。
アルベルトは唇を離した。
「アル?」
「大好きだよ」
それだけは、本当だった。
どれだけ苦しくても。
セレナが好きだった。
「わたくしも大好きですわ」
欲しかった言葉なのに。
何も満たされなかった。
大好き。
だから、何。
君はそう言いながら、あいつを見るじゃないか。
触るじゃないか。
だったら、そんな言葉に何の意味があるの。
言葉なんて信じられない。
「……もう一回言って」
「大好きですわ」
「もう一回」
「アル?」
アルベルトは笑った。
「だめ?」
セレナは少し心配そうにしながらも、頬を撫でてくれる。
「大好きですわ、アル」
まだ僕が一番?
聞きたい。
怖くて聞けない。
一番だと言って。
僕だけだと言って。
でも。
一番なら、なんであいつを見るの。
どうして触るの。
僕が君を好きなの、知ってるよね。
こんなに好きなのに。
ひどいよ。
苦しい。
それでも。
嫌いになれない。
君が誰を見ていても。
誰を好きでも。
僕は君が好きだよ。
だったら。
もう、君の気持ちなんていらない。
僕が君を好きだから。
それでいい。
だから。
僕だけ見て。
あいつを見ないで。
誰にも触れないで。
僕を愛していなくてもいいから。
僕だけを見て。
――違う。
アルベルトは息を止めた。
今。
何を考えた?
君の気持ちなんていらない。
僕だけ見て。
それは。
前と、何が違う?
変わったと思っていたのに。
アルベルトは笑ったまま、指先を強く握った。
怖かった。
それでも、セレナが好きだった。
どうしようもなく。
「アル?」
「なに?」
「また、ぼんやりしていましたわ」
「そう?」
セレナの手が頬へ触れる。
嬉しい。
もっと触れてほしい。
全部ほしい。
その手を取ろうとして。
白い首元が目に入った。
痕を残したい。
レオンが見れば分かるように。
僕が触れたのだと。
僕の妻なのだと。
消えないくらい。
強く。
その瞬間。
君も傷つけばいいのに。
そう思った。
アルベルトの手が止まった。
――今。
何を思った?
大好きなセレナに。
傷つけばいいと。
思った。
急に、自分の手が怖くなった。
「アル?」
もう触れられなかった。
抱きしめたかった。
なのに。
今、腕を回したら。
愛しているから抱くのか。
苦しいから離したくないだけなのか。
分からなかった。
セレナが一歩近づく。
アルベルトは、ほんの少し身体を引いた。
セレナが止まった。
しまった。
アルベルトはすぐに笑う。
「ちょっと、用事を思い出した」
「今からですの?」
「うん」
「明日ではいけませんの?」
「今日のうちに確認した方がいいことなんだ」
嘘だった。
何の用事もない。
ただ、ここにはいられなかった。
セレナの隣で眠れない。
今は、抱きしめることすらできない。
「先に寝てて」
「アル」
「なに?」
「本当に、大丈夫ですの?」
大丈夫じゃないよ。
信じてたのに。
今だって信じたいのに。
苦しい。
ひどいよ。
僕がこんなに好きなのを知ってるのに。
なんであいつを見るの。
なんで触るの。
僕だけじゃ、だめなの。
全部言いたかった。
それでも、アルベルトは笑った。
「大丈夫だよ」
銀髪へ手を伸ばしかける。
途中で止めた。
「おやすみ、セレナ」
「……おやすみなさい、アル」
扉へ向かう。
振り返りたかった。
戻りたかった。
抱きしめたかった。
大好きだと、もう一度言ってほしかった。
言葉なんて信じられないと思ったばかりなのに。
それでも欲しかった。
アルベルトは振り返らず、廊下へ出た。
静かに扉を閉める。
かちり、と音がした。
もう、笑わなくてよかった。
そう思った瞬間。
息ができなくなった。
口元を押さえる。
壁へ手をつく。
駄目だ。
聞こえる。
セレナが来てしまう。
来てほしい。
来ないでほしい。
「……っ」
涙が落ちた。
一度漏れた嗚咽は、もう止められなかった。
信じてたのに。
それでも、まだ信じたい。
大好きなのに。
アルベルトはその場にしゃがみ込み、顔を覆った。
部屋の向こうにはセレナがいる。
たった一枚。
扉を隔てたところに。
それでも。
戻れなかった。




