44_日常
朝。
セレナが目を覚ますと、隣にはアルベルトがいた。
腰へ腕を回したまま、こちらを見ている。
「おはようございます」
「おはよう」
アルベルトの指が銀髪を一房取り、ゆっくりと梳いた。
「今日はいつまで?」
「夕刻までの予定ですわ」
「そっか」
「終わりましたら戻ります」
「うん」
朝食を終えると、セレナは研究室へ向かうため部屋を出た。
アルベルトも途中までついてくる。
研究室へ続く廊下の分かれ目で、二人は足を止めた。
今回の件では、アルベルト自身が調べられる側にいる。
王宮内を普通に行き来することはできても、調査に関わる資料を扱う研究室へ入ることはできない。
少し先には、レオンが待っていた。
「おはよう、セレナ嬢」
「おはようございます、レオン様」
「行こうか」
「ええ」
セレナがアルベルトと手を離す。
「またあとで」
「はい」
レオンと並んで歩き出した。
角を曲がり、アルベルトの姿が見えなくなって少ししたところで、レオンの手がセレナの腰へ添えられる。
セレナは何も言わない。
歩調も変わらない。
腰へ触れるくらいなら、もう反応を窺う必要もないらしい。
研究室へ入ると、机の上には何通かの返書が届いていた。
昨日までに各商会へ問い合わせたものだ。
セレナが封を切り、レオンが内容ごとに分けていく。
「こちらは別便だったそうですわ」
「じゃあ昨日の分はこれで合うね」
「ええ。こちらは産地についての返答です」
「西部経由か」
「同じ原料でも、仕入れ先が違いますのね」
「こっちの商会も調べようか」
「お願いいたします」
一つ確認すれば、また別の道が見つかる。
返書と帳簿を照らし合わせながら、流通経路を一つずつ辿っていった。
昼を過ぎた頃。
セレナがペンを置いた。
「少し休みませんこと?」
「賛成」
二人で研究室の端にあるソファへ移る。
セレナは持ってきた一通の返書を開いた。
「休むんじゃないの?」
「読むだけですわ」
「それ、休んでないよ」
「レオン様も似たようなものでしょう」
「俺はちゃんと休むよ」
そう言って、レオンはソファへ身体を横たえた。
そのまま、何も聞かずにセレナの膝へ頭を乗せる。
セレナが返書から顔を上げた。
「……レオン様?」
レオンはそのまま見上げる。
「なに?」
「何をなさっておりますの?」
「休んでる」
セレナはしばらくレオンを見下ろしていた。
少しだけため息をつき、何事もなかったように返書へ視線を戻した。
どうやら、このままでもいいらしい。
レオンは目を閉じる。
思ったより落ち着いた。
布越しに伝わる体温と、近くにある淡い花の香り。
セレナはレオンの頭を膝に乗せたまま、普通に返書を読み続けている。
紙をめくる音がする。
しばらくして。
髪へ指が触れた。
レオンは目を開けなかった。
セレナの指先が黒髪をゆっくり梳いている。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
こちらを撫でようとしているというより、考え事をしながら無意識に手を動かしているようだった。
だから、何も言わない。
言えば気づいて、やめてしまうかもしれない。
レオンはそのまま撫でられていた。
昨日は自分からねだった。
今日は何も頼んでいない。
勝手に膝へ頭を乗せただけだ。
それなのに退けられず。
そのうえ、セレナの手まで自分へ伸びてきた。
その違いが、思っていたより嬉しかった。
もう一度。
指が髪を梳く。
そのまま頭を撫でられる。
何も言わずに、このまま撫でられていたかった。
けれど、もう一度優しく髪を梳かれたところで、それ以上じっとしていることに耐えられなくなった。
レオンは目を開け、身体を起こす。
そのままセレナを抱きしめた。
「レオン様?」
返事をする代わりに、首筋へ顔を埋める。
銀髪の間から覗く肌へ鼻先を寄せ、ゆっくり息を吸った。
「……また匂いを嗅いでおりますの?」
「うん」
「なぜですの?」
「好きだから」
もう一度、深く吸い込む。
セレナの手が、また頭へ乗った。
そのまま黒髪を撫でられる。
レオンは首筋へ頬を寄せたまま、目を細めた。
「……犬みたいですわね」
「犬?」
「こうして匂いを嗅いで、撫でられておりますもの」
セレナの指が、もう一度髪を梳く。
言われてみれば、その通りだった。
そして不思議と、嫌ではない。
むしろ。
「……俺、セレナ嬢の犬になりたい」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
考えていたわけではない。
ただ、セレナにそう言われて。
そのまま撫でられているうちに、思ったことが口から出てしまった。
さすがに言いすぎたかもしれない。
けれど、セレナは少し考えてから言った。
「大きすぎますわ」
レオンは瞬きをする。
「そこ?」
「レオン様ほど大きな犬ですと、お世話が大変そうですもの」
「世話してくれるんだ」
「食事もたくさん必要でしょうし」
「そこまで考える?」
「寝る場所にも困りますわね」
真面目に考えているセレナを見て、レオンは思わず笑った。
困ったな、と思う。
拒まれるかもしれないと一瞬焦ったのに、セレナが気にしたのは犬になることではなく、その大きさだった。
再会したときには、諦めるしかないと思っていた。
セレナはもう別の男の妻で、自分が入り込む余地などないはずだった。
それなのに、思っていたよりずっと早くここまで近づいてしまった。
腰を抱いても、身体を寄せても、口づけても、少しずつならセレナは受け入れる。
昨日まで少し特別だった距離が、今日はもう何でもないものになっている。
次はどこまで近づけるのか。
いつ、それも当たり前になるのか。
少しずつ境界が動いていくのが、レオンには楽しかった。
けれど、同時にひどくもどかしい。
本当はもっと近くへ行きたい。
けれど急げば、セレナはきちんと止める。
近づき方を間違えて、今あるものまで失うのは嫌だった。
今日許されているものが、明日も同じとは限らない。
一つ増えるたびに嬉しくなるのに、その分だけ失うのが怖くなる。
セレナとの境界を探っているつもりだったのに、近づくほど離れられなくなっているのは、自分の方だった。
セレナの手が、また頭を撫でる。
レオンは銀髪へ頬を擦り寄せた。
「すっかり犬ですわね」
「撫でてくれるならいいよ」
「気に入ってしまったんですの?」
「うん」
顔を上げると、すぐ近くに青い瞳があった。
レオンはそのまま口づける。
一度触れて離れ、もう一度、今度は少し長く唇を重ねた。
それでもまだ離れがたくて、レオンはそのままセレナの首筋へ顔を寄せる。
軽く口づけたあと、ほんの少しだけ舌先を這わせた。
セレナの身体が一瞬だけ揺れる。
「もう」
咎めるような言葉とは裏腹に、声は軽かった。
この前のように、低い声で名前を呼ばれることもない。
レオンは顔を上げて笑う。
「犬だからね」
「困った方ですわね」
少し眉を寄せてはいるものの、セレナは離れようとはしなかった。
レオンはもう一度、セレナの肩へ額を預けた。そのまましばらく抱いているうちに、ずっと頭の片隅へ追いやっていたことが、不意に浮かんだ。
そろそろ、帰らなければならない。
熱はもうない。
身体の怠さも、とっくに消えている。
最初は体調が戻らないことを理由にしていた。
そのあとは、調査への協力。
ヴァレン商会を通した確認。
ヴァルディア側の記録が必要だから。
理由をつけながら、少しずつ滞在を延ばしてきた。
どれも完全な嘘ではない。
けれど。
これ以上は、さすがに無理だった。
ヴァルディアから届く書簡にも、帰国の日程を尋ねるものが増えている。
皇太子がいつまでも他国にいるわけにはいかない。
分かっている。
帰らなければならない。
せっかく。
ここまで近づけたのに。
レオンはセレナを抱いている腕へ、僅かに力を入れた。
「レオン様?」
すぐに呼ばれて、緩める。
「ごめん」
「どうかなさいました?」
「なんでもないよ」
セレナは少し不思議そうにこちらを見る。
けれど、それ以上は聞かなかった。
代わりに、また髪へ手を伸ばす。
ゆっくり撫でられる。
帰りたくないな。
その言葉が、驚くほど自然に浮かんだ。
「セレナ嬢」
「はい」
「もう少し、このままでいていい?」
「休憩が終わるまでですわよ」
「うん」
レオンはまた首筋へ顔を埋めた。
花の香りを吸い込む。
今はまだ。
ここにいられる。
◇
夕刻。
最後の資料を閉じた。
「今日はこのくらいにいたしましょうか」
「そうだね」
二人で研究室を出る。
途中で、レオンはセレナから少し距離を取った。
廊下の先にはアルベルトがいた。
「セレナ」
「アル」
セレナがそちらへ向かう。
アルベルトはすぐに手を取った。
「遅かった」
「予定通りですわ」
「分かってる」
レオンは少し後ろから二人を見る。
さっきまで、自分の髪を撫でていた手。
その手が今は、アルベルトの手の中にある。
「レオン様も、お疲れさまでした」
セレナが振り返る。
「うん。セレナ嬢も」
「また明日」
「……うん。また明日」
明日。
いつまで、そう言えるのだろう。
◇
夜。
セレナはアルベルトと同じ寝台に入った。
灯りを消すと、すぐに腕が伸びてきて、当然のように抱き寄せられる。
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
セレナはその腕の中へ身体を預け、目を閉じた。
朝はアルベルトに送り出され、昼はレオンと調査をして、夜になればまたアルベルトの隣へ戻る。
そんな一日が、いつの間にか少しも不思議ではなくなり始めていた。




