38_噂
噂を耳にしたのは、その日の昼を少し過ぎた頃だった。
アルベルトは執務室で書類に目を通していた。
調査から外れている間も、王族としての仕事までなくなるわけではない。
むしろ今は、余計なことを考えずに済むぶん、目の前の仕事に集中している方が楽だった。
少なくとも。
その話を聞くまでは。
「……何?」
報告に来ていた側近が、わずかに言葉を詰まらせた。
「王宮内で、少し妙な噂が出ております」
「僕のこと?」
「殿下のお名前も関係しております」
アルベルトは手元の書類から顔を上げた。
「言って」
側近は一瞬迷ってから、声を落とした。
「レオン殿下とセレナ様が、研究室で口づけをしていた、と」
書類を押さえていたアルベルトの指が止まった。
「……口づけ?」
聞き返した声は、自分でも驚くほど普通だった。
「誰が見たの?」
「文官の一人です。昨日、研究室へ入ろうとした際に、お二人がかなり近い距離にいらしたそうで」
「かなり近い距離?」
「本人は、口づけをしていたように見えた、と」
口づけをしていた。
ではない。
そう見えた。
アルベルトは頭の中で、その違いをもう一度確かめた。
見えただけなら、本当にしていたとは限らない。
二人で同じ資料を覗き込んでいたのかもしれない。
何かの拍子に顔が近づいただけかもしれない。
いくらでも理由は考えられる。
それなのに。
頭の中では勝手に別の光景が浮かびかけた。
レオンがセレナへ顔を寄せる。
セレナは――
そこから先を、アルベルトは考えるのをやめた。
「ほかには?」
「以前、温室でもレオン殿下がセレナ様へかなり近づいていたところを見た者がいるそうです」
アルベルトはわずかに目を伏せた。
温室のことは知らない。
セレナから聞いたこともなかった。
「それらの話が一緒になって、レオン殿下が以前からセレナ様へ懸想していたのではないか、と」
それは知っている。
嫌になるほど。
「それで?」
側近はさらに言いにくそうにした。
「そのことを、殿下が快く思っていなかったのではないかという話になっております」
そこでようやく、アルベルトにも噂の形が見えた。
妻に懸想する男がいる。
その男は以前から妻との距離が近く、ついには口づけをしているところまで目撃された。
夫がそれを快く思うはずがない。
そして、その男が毒を盛られた。
毒の原料の購入記録には、夫の名前がある。
「……よくできてるね」
思わず呟くと、側近が困ったように黙り込んだ。
腹立たしいことに、動機としては筋が通っている。
レオンがセレナを好きなのも。
自分がそれを嫌がっているのも。
近づいてほしくないと思っているのも。
全部、その通りだった。
毒を盛ったことだけが違う。
「この噂については、今は何もしなくていいよ」
「よろしいのですか?」
「否定して回ったところで、余計に広がるでしょう。それより、どこから話が広がったのかだけ確認しておいて」
「承知しました」
側近が頭を下げ、部屋を出ていく。
扉が閉まると、執務室は急に静かになった。
アルベルトは再び書類へ目を落とした。
けれど、先ほどまで読んでいた文字はもうほとんど頭に入ってこなかった。
口づけをしていたように見えた。
温室でも距離が近かった。
どちらも、セレナからは聞いていない。
だからといって、隠しているとは限らない。
セレナにとっては、わざわざ話すほどのことではなかったのかもしれない。
そもそも、噂そのものが事実ではない可能性だってある。
それくらい分かっている。
それでも。
一度浮かんでしまった想像は、簡単には消えてくれなかった。
本当に何もなかったのだろうか。
レオンは、セレナに何をしたのだろう。
そして、セレナはそれを嫌がったのだろうか。
それとも。
そこまで考えたところで、アルベルトは目を閉じた。
聞きたい。
セレナに直接聞けば、きっと答えてくれる。
レオンと何かあったの。
温室では何をしていたの。
口づけをしたという噂は、本当なの。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど噂を聞いただけで、セレナを問い詰めるようなことはしたくなかった。
一度目の人生でも。
目の前には、セレナを疑うだけの理由が並んでいた。
リリアの言葉があった。
証拠もあった。
それらを繋げれば、セレナが犯人なのだと思うこともできた。
そして自分は。
それを信じた。
何もしていないと言うセレナではなく。
自分の目の前に並べられたものを。
今なら分かる。
疑う理由があることと。
その人を信じないことは。
同じではない。
今回だって、そうだった。
毒の原料の購入記録には、アルベルトの名前が残されていた。
それでもセレナは。
買っていないという彼の言葉を、迷わず信じた。
――アルは買っていないのでしょう?
――うん。
――でしたら、アルではありませんわ。
あのとき、どれほど嬉しかったか。
自分の言葉だけで信じてもらえることが、あんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
なら、自分も同じように信じたい。
何も知らないから、信じるのではない。
知らないことがあって。
嫌な想像をしてしまって。
それでも最後には。
セレナの方を選ぶ。
それが今の自分がしたいことだった。
アルベルトは椅子の背へ身体を預け、ゆっくり息を吐いた。
今は聞かない。
少なくとも。
誰かが見たという曖昧な噂だけを理由に、セレナへ答えを求めることはしたくなかった。
もし何かあるのなら。
そのときは、セレナの口から聞きたい。
それまでは。
自分の知らないところで広がった噂よりも。
セレナを信じていたかった。
◇
その日の夕方。
廊下から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
やがて扉が開く。
「ただいま戻りました」
アルベルトは顔を上げた。
そこには。
いつもと同じように見えるセレナがいた。
銀色の髪も。
青色の瞳も。
何も変わらない。
アルベルトは笑った。
「おかえり」
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(おまけ 設定メモ)
病むとどうなる?
【アルベルト】
安定しているとき
→ 欲を出す。
「やだ」「僕も」「だめなの?」と、子どもみたいに素直に言う。
病み始めると
→ 欲を抑える。
嫌われることや間違えることが怖くなって、欲しいほど言えなくなる。
【レオン】
安定しているとき
→ 欲を出さない。
相手の意思を尊重して、自分が欲しくても無理に求めない。
病み始めると
→ 欲を通す。
相手が自分の望む方を選ぶように、少しずつ誘導する。




