37_息
翌日の午後。
研究室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
アルベルトは今日も調査から外れている。
そのため、今日も研究室にいるのはセレナとレオンだけだった。
昼を過ぎた頃、待っていた商会からの返答が届いた。
セレナは封を切り、中に入っていた書面へ目を通していく。最初はいつも通り読んでいたが、途中で僅かに眉を寄せた。
「……本人が直接訪れたわけではないのですね」
向かいに座っていたレオンが顔を上げる。
「使者?」
「ええ。アルの名義で使者が訪れ、取引をしています」
問題は、その先だった。
単にアルベルトの名を騙っただけなら、商会側の確認をすり抜けられるとは考えにくい。王族名義の取引である以上、通常より慎重に本人確認が行われている。
そして今回も、その手続きは踏まれていた。
使者はアルベルトの名を口にしただけではなく、王宮から発行された証明まで提示していたという。
「偽物かな」
「その可能性はありますわ。ただ、商会側は本物だと判断しています」
「じゃあ、本物を持ち出した可能性もある」
「ええ。まずは王宮側の記録を確認する必要がありますわね」
セレナは返答の書面を机へ置き、別の資料を引き寄せた。
証明がいつ発行されたのか。
誰が管理していたのか。
持ち出すことのできる立場にいた者は誰なのか。
一つ分かるたびに、調べることがまた増える。
それでも、昨日までとは違った。
少なくとも、誰かがただアルベルトの名前を書いただけではない。
もう一段深いところまで、誰かの手が入っている。
セレナはもう一度、購入記録へ目を落とした。
購入者の欄には、見慣れた名前がある。
アルベルト・エルグラン。
もちろん、アルベルトではない。
本人が買っていないと言った。
だから、セレナは信じている。
そこに迷いはなかった。
ただ、王宮から発行された証明という言葉だけが妙に引っかかった。
王宮の内部へ出入りできる人間。
証明を手に入れられる人間。
そして何より、アルベルト本人なら、そもそもそんなものを盗んだり偽造したりする必要すらない。
自分の名義なのだから、正規の手続きを踏んで購入できる。
そこまで考えたところで、セレナの指が止まった。
違う。
アルではない。
分かっている。
これは調査なのだ。
誰かがどうやってアルベルトの名前を使ったのかを調べるためには、本人ならできたことと、他人には難しかったことを分けて考えなければならない。
可能性を確認しているだけで、疑っているわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、セレナは王宮側の資料へ手を伸ばした。
けれど、指先が紙に触れたところで。
ふと、考えてしまった。
――アルが嘘をついていたら。
自分の中に浮かんだその言葉に、セレナ自身が驚いた。
そんなことは思っていない。
アルベルトは買っていない。
信じている。
それでも調査をするなら、本人が関与している可能性も、自分に嘘をついている可能性も、最初から除外するわけにはいかない。
理屈では分かっている。
なのに胸の奥に生まれた小さな違和感は消えず、むしろ意識した途端、ずっと遠くにあった記憶を引き寄せた。
一度目の人生。
リリアが毒を飲んだ。
そして、その疑いを向けられたのはセレナだった。
違うと言った。
自分ではないと、何度も否定した。
けれど、アルベルトは信じなかった。
リリアが嘘をつくはずがない。
証拠がある。
理由がある。
だから、もしかしたらセレナが。
あのときのアルベルトも、最初は今の自分と同じように考えたのだろうか。
可能性を確認しているだけ。
まだ疑っているわけではない。
そうやって一つずつ考えていった先で、いつの間にか自分を信じなくなったのだろうか。
「……違う」
小さく声が漏れた。
レオンが顔を上げる。
「セレナ嬢?」
けれど、セレナにはほとんど聞こえていなかった。
数日前、アルベルトに聞かれた。
――僕が買ったとは、思わないの?
自分は迷わず答えた。
思わない。
アルは買っていないのでしょう。
でしたら、アルではありませんわ。
あのとき、アルベルトは嬉しそうだった。
泣きそうなくらいに。
自分が信じたことを、あんなにも喜んでいた。
昨夜だって、大好きだと言われた。
自分も返した。
大好きだと。
その人を。
今、自分は。
「……っ」
息を吸った。
浅い。
もう一度。
足りない。
胸の奥まで、空気が入ってこない。
「セレナ嬢」
今度はレオンの声が聞こえた。
「……大丈夫、ですわ」
反射的に答えたものの、自分の声がひどく掠れている。
少し休めばいい。
そう思って資料から手を離し、深く息を吸おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
吸えば吸うほど苦しくなる。
焦る。
また吸う。
足りない。
胸が速く上下し、指先が冷たくなっていく。
「セレナ嬢、オレ見て」
レオンの声が近づいた。
いつの間にか向かいの椅子から立ち上がっている。
「大丈夫です。少し、息が……」
最後まで言えなかった。
また吸う。
足りない。
身体だけが、もっと空気を取り込もうとしている。
レオンはセレナの前に膝をついた。
「セレナ嬢」
呼ばれて、何とか顔を上げようとした。
けれど視線が定まらない。
「違うんです……」
「うん」
「アルじゃ……ない、のに……」
「分かってる」
「信じて……」
言葉を続けようとすると、また呼吸が崩れた。
信じている。
本当に。
信じているのに。
ほんの一瞬でも、アルベルトが嘘をついている可能性を考えた。
そのことが怖かった。
一度目のアルベルトと、自分が重なる。
あのとき、自分はただ信じてほしかった。
何度違うと言っても聞いてもらえなかった、その苦しさを知っているはずなのに。
「……ごめ……」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
今のアルベルトに。
一度目の自分に。
それとも、信じているつもりだった自分自身に。
「セレナ嬢」
レオンの声がする。
低く、落ち着いた声だった。
「オレを見て」
今度は何とか顔を上げた。
青灰色の瞳が見える。
その瞬間、レオンの表情が僅かに変わった。
驚いたのでも、戸惑ったのでもない。
知っている。
そう見えた。
「ゆっくり吐いて」
言われた通りにしようとする。
けれど、できない。
苦しいと思うほど息を吸ってしまう。
レオンはしばらくその呼吸を見つめていた。
そして。
ほんの一瞬だけ、遠いものを見るような目をした。
「……ごめん」
何を。
そう思ったとき、唇が塞がれた。
「……!」
驚いて、呼吸が止まった。
何が起きたのか理解するより先に、身体が固まる。
ほんの一瞬だった。
レオンはすぐに離れた。
「そのまま。ゆっくり吐いて」
すぐ近くから声がする。
セレナは呆然としたまま、言われるまま少しずつ息を吐いた。
「そう。もう一回」
レオンは触れなかった。
顔は近いままだったが、ただセレナの呼吸だけを見ている。
「吸おうとしなくていい。先に吐いて」
もう一度。
今度は少し長く吐く。
胸を締めつけていた苦しさが、ほんの少し遠のいた。
けれど、まだ身体は呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。
再び息が速くなりかけた瞬間、セレナは咄嗟に目の前にあるレオンの服を掴んだ。
自分でも、なぜそうしたのか分からない。
レオンの視線が胸元を掴む手へ落ち、それからゆっくりセレナへ戻った。
「……もう一回する?」
こんなときなのに、その意味だけははっきり分かった。
セレナは返事をすることができなかった。
ただ、掴んだ手を離さなかった。
レオンはすぐには動かなかった。
しばらくセレナを見てから、もう一度だけゆっくりと顔を寄せる。
唇が触れた。
二度目は驚かなかった。
呼吸を止めて。
離れて。
ゆっくり吐く。
その繰り返しに意識を向けているうちに、頭の中を埋め尽くしていた記憶が少しずつ遠ざかっていった。
レオンは必要以上に触れなかった。
短く唇を重ねては離れ、セレナが息を吐くのを待つ。
何度かそうしているうちに、指先の震えも弱くなり、胸の苦しさもようやく薄れていった。
セレナは長く息を吐いた。
今度は、苦しくない。
「……もう、大丈夫ですわ」
「うん」
レオンが少しだけ笑った。
本来なら、そこで終わるはずだった。
呼吸は戻った。
もうレオンが近くにいる必要も、唇を重ねる理由もない。
彼もそう思ったのだろう。
ゆっくり身体を離そうとした。
けれど。
セレナの手は、まだレオンの服を掴んでいた。
「……セレナ嬢?」
呼ばれて、初めて気づいた。
離さなければ。
そう思った。
なのに、顔を上げた途端、指が動かなくなった。
青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
黒い髪。
近づいたことで強くなった、ジュニパーとベルガモットの香り。その奥に、乾いた木の香りが残っている。
先ほどまで何度も触れた唇も、まだ手を伸ばせば届くところにあった。
もう必要ない。
分かっている。
呼吸は戻っているのだから。
ここで離れて、助けてもらったことに礼を言えばいい。
それなのに、セレナはレオンの服から手を離せなかった。
むしろ無意識に、指先へ僅かに力を込めていた。
それに気づいたレオンの目が変わった。
「……セレナ嬢」
低い声で名前を呼ばれ、胸が大きく鳴る。
今度は、息苦しさのせいではなかった。
「もう大丈夫なんだよね?」
確認するように聞かれた。
セレナは小さく頷く。
「……ええ」
レオンの視線が、まだ自分の服を掴んでいるセレナの手へ落ちる。
「じゃあ、離した方がいいよ」
「……どうしてですの?」
聞いたあとで、自分でも驚いた。
どうして、そんなことを尋ねたのだろう。
レオンもすぐには答えなかった。
いつもの笑みは消えている。
「もう、理由がなくなるから」
「理由?」
「君に触れる理由」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
ここで手を離せばいい。
さっきまでとは違う。
もう助けてもらう必要はない。
それなのに身体は動かなかった。
レオンの手がゆっくり上がる。
けれど、すぐには触れず、セレナの頬の近くで止まった。
「嫌なら言って」
セレナは何も言わなかった。
そのまま、レオンを見る。
頬のすぐそばにある手も。
近すぎる顔も。
嫌ではなかった。
だから。
逃げなかった。
レオンの指が、ゆっくり頬へ触れた。
さっきまでとは違う。
これは、助けるためではない。
セレナにも、それだけは分かった。
親指が頬を撫で、レオンの顔が少しずつ近づいてくる。
唇が触れそうなところで、一度止まった。
それでも。
セレナは離れなかった。
だから今度は、呼吸を止めるためではなく。
ただ触れたいから。
唇が重なった。
先ほどまでとは、まるで違う口づけだった。
最初は静かだった。
互いに確かめるように触れて、それから少しずつ距離がなくなっていく。
レオンが離れかけたとき。
セレナの指が、服を強く掴んだ。
レオンが止まる。
一瞬だけ目が合った。
次にどちらが近づいたのかは、分からなかった。
もう一度、唇が重なる。
今度は先ほどより長い。
レオンの手が頬から髪へ入り、もう片方の腕が腰へ回った。
引き寄せられた身体が胸元へ触れ、近くなった香りが一気に濃くなる。
先ほどまで息ができなくて苦しかったはずなのに。
今は。
離れる方が苦しい。
触れたところから熱が広がり、唇が離れれば無意識に顔を上げて追ってしまう。
自分が何をしているのか気づいたのは。
もう一度、レオンと唇が重なってからだった。
その瞬間。
昨夜のアルベルトの顔が浮かんだ。
大好きだと言って。
自分の返事を待って。
触れるたびに、嫌ではないか確かめていた人。
身体が固まった。
レオンはすぐに気づいた。
腰へ回っていた腕から力が抜け、髪に触れていた手も離れる。
追わない。
引き留めない。
セレナが身体を引けば、その分だけきちんと距離を空けた。
「……ごめんなさい」
ようやく出た声は掠れていた。
レオンはしばらく何も言わなかった。
責めるでもなく。
何でもなかったように笑うでもなく。
ただ静かに、セレナの前にいる。
「うん」
返ってきたのは、それだけだった。
セレナは自分の唇へ触れた。
呼吸はもう、すっかり戻っている。
胸の苦しさもない。
それなのに。
さっきまでとはまったく違う理由で、胸の奥がひどく痛んだ。
アルベルトが好きなのに。
昨夜だって、あんなに幸せだったのに。
それでも自分は。
レオンが離れようとしたとき。
追った。
自分から。
欲しがった。
その事実だけが。
どうしても消えてくれなかった。




