36_大好き
研究室から戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
セレナが部屋の扉を開けると、ソファに座っていたアルベルトがすぐに顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
今日は朝から、レオンと二人で調査をしていた。
アルベルトの名前が毒の原料の購入記録に残されていた以上、本人がこれまで通り調査に加わるわけにはいかない。正式に嫌疑をかけられたわけではないけれど、商会側から確認が取れるまでは仕方のないことだった。
それでも、いつも三人で囲んでいた机にアルベルトがいないだけで、随分と違って感じられた。
「何か分かった?」
「いいえ。商会からの返事もまだですわ」
「そっか」
アルベルトはそれ以上、調査について聞かなかった。
セレナは持っていた資料を机へ置き、そのままソファへ向かう。隣へ腰を下ろすと、待っていたようにアルベルトが肩へ頭を預けてきた。
「……アル」
「ん」
「重いですわ」
「退いた方がいい?」
「そこまでは言っておりません」
「じゃあ、このまま」
淡い金色の髪が頬に触れる。
柔らかなバニラと白檀の香りが心地よかった。
「今日は何をなさっていたんですの?」
「仕事」
「きちんと?」
「ひどいな」
肩へ頬を寄せたまま、アルベルトが笑った。
「ちゃんとやったよ。でも、つまらなかった」
「お仕事とはそういうものでしょう」
「セレナがいなかったから」
「いつも一緒にお仕事をしているわけではありませんわ」
「今日は一緒にいたかったの」
少し拗ねたような声だった。
今朝もそうだった。
研究室へ向かうセレナを見送りながら、行かないでとも、レオンと二人になるのが嫌だとも言わなかった。
ただ、妙に寂しそうな顔をしていた。
「……寂しかったんですの?」
「うん」
あっさり認める。
「だから、撫でて」
アルベルトが顔を上げた。
「だめ?」
少し眉を下げて、緑色の瞳で見つめてくる。
この顔をすれば自分が弱いことを、きっと知っている。
「いいですわよ」
「うん」
ゆっくり撫でると、アルベルトは満足そうに目を細めた。
こうして髪を撫でるのも、もう何年続けているのだろう。
幼い頃から、寂しいときも、何かを我慢したときも、アルベルトはよくセレナに頭を差し出した。
十九歳になった今も、それはあまり変わっていない。
「セレナ」
「はい」
「大好きだよ」
撫でていた手が一瞬止まる。
「今日、まだ言ってなかったから」
「毎日言う必要がありますの?」
「僕が言いたいの」
そう言って、アルベルトはセレナの腰へ腕を回し、肩へ顔を埋めた。
「大好き」
「ありがとうございます」
「セレナは?」
「何がです?」
「僕のこと」
分かっているくせに聞いている。
セレナは少し迷ってから、髪を撫でる手を動かした。
「好きですわよ」
それだけで、肩へ寄せられていた頬が少し緩んだのが分かった。
「……嬉しい」
小さな声だった。
今日は随分と甘える。
けれど、セレナはそれ以上何も言わなかった。
自分の名前が毒の購入記録から見つかり、調査から外れた。
気にするなと言われて、本当に何も感じずにいられるはずがない。
しばらく撫でられるままになっていたアルベルトが、ふと思い出したように身体を起こした。
「セレナ」
アルベルトは自分の襟元を少しずらした。
「消えちゃった」
視線を向けて、何のことか分かった。
以前、セレナが噛んだ場所。
あの夜につけた歯形は、もう綺麗に消えている。
「治ったのですから、当然でしょう?」
「好きだったのに」
「歯形が?」
「セレナがつけてくれたのが」
アルベルトは何も残っていない肌を指先でなぞった。
「見ると安心したんだ。セレナがつけてくれたんだなって」
そんなもので安心する感覚は、セレナにはよく分からない。
けれど、アルベルトにとっては大切だったらしい。
そして、ちらりとこちらを見る。
嫌な予感がした。
「また噛んで」
「嫌ですわ」
「だめなの?」
少し首を傾ける。
眉を下げて、じっとこちらを見てくる。
あざとい。
「そんな顔をなさっても駄目です」
「……そっか」
思ったより、あっさり引き下がった。
襟元を戻すと、またセレナの肩へ頭を預ける。少し残念そうではあるけれど、それ以上は求めてこなかった。
昔のアルベルトなら、欲しいものを諦めることなどできなかった。
今は、欲しいと言って。
断られれば、やめられる。
当たり前のことなのかもしれない。
けれどセレナには、その当たり前が嬉しかった。
「アル」
「何?」
「こちらを向いてくださいな」
アルベルトが顔を上げる。
セレナはその頬へ手を添えた。
「大好きですわよ」
緑色の瞳が、少しだけ見開かれた。
「……うん」
自分からはあれほど簡単に言うくせに、返されると照れるらしい。
その顔を見ていると、なんとなく笑ってしまう。
アルベルトも少し笑った。
近い距離で目が合う。
どちらからともなく顔が近づいたけれど、唇が触れる直前、アルベルトが止まった。
「……してもいい?」
改めて聞かれると、妙に恥ずかしい。
「……聞かないでくださいませ」
「それ、どっち?」
「分かりませんの?」
アルベルトはしばらくセレナの顔を見ていた。
やがて、ほんの少し笑う。
「分かった」
ゆっくりと唇が重なった。
短く、柔らかい口づけ。
離れても、二人の距離はほとんど変わらない。
近くからアルベルトがこちらを見ている。
今度は何も聞かなかった。
もう一度、唇が重なる。
先ほどより少しだけ長く。
触れて、離れて。
近いところで目が合って。
また触れる。
それを繰り返すうちに、最初にあった恥ずかしさも少しずつ薄れていった。
アルベルトの手が、セレナの背中へ回る。
強く引き寄せるのではなく、確かめるような触れ方だった。
セレナもその胸元へ手を置き、少しだけ身体を預ける。
すると、背中へ回った腕がゆっくり深くなった。
唇が離れる。
額が触れそうな距離で、アルベルトがセレナを見た。
「……セレナ」
「はい?」
少し迷ってから、アルベルトが言った。
「今日、寝てもいい?」
胸が大きく鳴った。
言葉の意味は分かる。
ただ同じ寝台で眠るだけではないことも。
「……今さら聞きますの?」
「聞くよ」
アルベルトは真面目な顔をしていた。
「痛かったら言って」
「前も、それほどではありませんでしたわ」
「でも、少しは痛かったでしょう?」
「……少しは」
「じゃあ、ちゃんと言って」
アルベルトの指が、銀色の髪をそっと耳へかける。
「嫌なのも、痛いのも。我慢しないで」
あまりに真剣に言うから、緊張していたはずなのに少しだけ可笑しくなった。
「分かりましたわ」
「うん」
「でも」
「何?」
「そんなに心配なさらなくても大丈夫です」
セレナはアルベルトの頬へ触れた。
「アルですもの」
その一言で、アルベルトの表情がゆっくりと柔らかくなった。
「……うん」
今度は、どちらからだったのか分からなかった。
また唇が重なる。
さっきと同じ、柔らかな口づけ。
セレナは目を閉じた。
アルベルトが好きだ。
六歳の頃から一緒にいて。
自分を見て笑うこの人が好きで。
今こうして、自分に触れる前に立ち止まってくれることが嬉しい。
だから。
何も迷うことはなかった。
その夜、二人はもう一度。
ゆっくりと互いの身体を重ねた。




