35_ふたりきり
アルベルトが調査から距離を置くことになったため、その日の研究室にいるのはセレナとレオンだけだった。
毒に使われた可能性のある原料。
その購入記録にアルベルトの名前が残されていたことは、まだ一部の者しか知らない。
正式に疑われたわけではない。
それでも、商会から確認が取れるまでは直接調査へ加わらない方がいい。
アルベルト自身も納得していた。
納得は、していた。
今朝、研究室へ向かうセレナを見送る顔が妙に寂しそうだったことには、気づかないふりをしたけれど。
「……こちらも違いますわね」
セレナは帳簿に印をつけ、隣へ避けた。
向かいでは、レオンが別の資料を読んでいる。
アルベルトがいないだけで、研究室はいつもより静かだった。
「レオン様。そちらはいかがです?」
返事がない。
顔を上げると、レオンは頬杖をついたまま目を閉じていた。
「レオン様?」
青灰色の瞳がゆっくり開く。
「……何?」
「お疲れですの?」
「少し」
毒を飲んでから日が経ち、熱はほとんど下がっている。
それでも完全に戻ったとは限らない。
「今日はここまでにいたしましょう」
「まだ昼過ぎだよ」
「先ほど眠っていらしたでしょう」
「寝てない」
「二度お呼びしました」
レオンは少し考えた。
「じゃあ、寝てたかも」
「もう」
セレナは資料を閉じた。
「お部屋へ戻りましょう。まだお熱が上がるかもしれませんし」
「……上がってるかも」
「え?」
すぐに立ち上がり、レオンの額へ手を伸ばす。
触れてみる。
熱くない。
「レオン様」
「何?」
「お熱、ありませんわよ」
「そう?」
そこでようやく、セレナはレオンの口元がわずかに上がっていることに気づいた。
「……嘘ですの?」
「今はないみたいだね」
「レオン様」
低く呼ぶと、レオンが笑う。
セレナは呆れて手を離そうとした。
その前に、手首を掴まれた。
強くはない。
レオンはそのままセレナの手を自分の頬へ移し、掌へ頬を寄せる。
「……もうお熱はないのでしょう?」
「ないね」
「でしたら……」
そこまで言って。
セレナは小さく息を吐いた。
けれど、手は離さなかった。
最近、レオンは随分と甘えるようになった。
高い熱を出していた頃からだ。
最初は手を握ってほしいと言われた。
次は、抱きしめてもいいかと聞かれた。
弱っているのだから仕方がないと思っているうちに、いつの間にか触れられることそのものに慣れてしまった。
以前は、抱き寄せられるたびに体格差を意識した。
広い胸。
長い腕。
囲われると、簡単には離れられないように思えた。
今は。
どこへ頬が収まるのかまで分かる。
そのとき。
廊下から足音が近づいてきた。
レオンだけが扉へ視線を向ける。
磨かれた硝子の向こうを、人影が横切った。
こちらへ向かっている。
けれど。
セレナには知らせなかった。
「レオン様。そろそろ資料の続きを――」
最後まで聞かず、レオンはセレナの腰へ腕を回した。
軽く引く。
「きゃ……」
身体が傾き、セレナは咄嗟にレオンの肩へ手をついた。
座っているレオンへ、覆い被さるような格好になる。
腰には、レオンの腕。
肩から銀色の髪が流れ、二人の間へ落ちた。
セレナは一度だけ、腰に回された腕を見る。
何も言わない。
離れようともしなかった。
そのまま。
レオンの腕の中にいる。
レオンは少しだけ腕の力を強めた。
身体が、さらに近づく。
それでも。
何も言われない。
近くなるほど、セレナの香りが濃くなった。
花の甘さ。
その奥に、ごく微かなラベンダー。
落ち着く。
なのに。
近づけば近づくほど、もっと欲しくなる。
廊下の足音が止まった。
扉がほんの僅かに開く。
隙間から覗いた誰かと、目が合った。
相手の顔が固まる。
レオンはすぐに、自分たちがどう見えているのか理解した。
セレナの腰には、自分の腕。
セレナはレオンの肩へ手を置き、身体を寄せている。
顔も近い。
肩から落ちた銀色の髪が、二人の口元を半分隠していた。
この角度なら。
口づけているように見えてもおかしくない。
本来ならすぐに離すべきだった。
セレナはアルベルトの妻で。
自分はヴァルディアの皇太子だ。
噂一つでも、二人だけの問題では済まない。
それでも。
腕を解かなかった。
セレナが何も言わず。
自分の腕の中にいる。
それを手放すのが惜しかった。
やがて、扉が音もなく閉じた。
セレナは気づいていない。
少しして身体を起こしかける。
レオンが腕を緩める。
けれど、完全には離さなかった。
セレナも何も言わなかった。
レオンはそのまま、セレナの肩へ額を預ける。
甘い香りがする。
落ち着く。
もっと近くにいたくなる。
廊下を遠ざかっていく足音を聞きながら。
レオンはもう少しだけ。
セレナを抱いていた。
その日の夕方。
王宮の中で、小さな噂が流れ始めた。
レオン・ヴァルディアとセレナ・エルグランが。
研究室で。
口づけをしていたらしい、と。




