03_結婚祝い
六月十五日。
夕刻より少し前、セレナとアルベルトはレオンの滞在する別邸を訪れた。
王都の中心から少し離れた場所にある、小さな屋敷だった。
隣国の皇太子が滞在する場所と聞いていたので、もっと大きなものを想像していたのだが、門をくぐっても人の姿は少ない。
「静かなところですわね」
「そうだね」
隣を歩くアルベルトが答える。
セレナは腕に抱えた箱を持ち直した。
昨日、二人で買いに行った焼き菓子だ。
赤い屋根に木製の看板が下がった、馴染みの菓子店。
蜂蜜や木苺、ナッツを使ったものをいくつか選んできた。
玄関の扉を叩くと、ほどなくして扉が開いた。
「いらっしゃい」
レオンが立っていた。
商会長レオン・ヴァレンとして会ったときより、服装はずっと簡素だった。
「お招きありがとうございます、レオン様」
「来てくれてよかった」
ふわっと柔らかくレオンが微笑む。
「アルベルトも」
「僕はついで?」
「まさか。ちゃんと二人とも招待しただろう?」
「そうだね」
アルベルトが笑う。
セレナはその横顔を見て、そっと彼の袖を引いた。
アルベルトがこちらを見る。
そのまま数秒、目を合わせる。
「……」
アルベルトは何も言わず、セレナの手を取った。
指を絡めて、機嫌よく握る。
セレナは小さく息をついた。
レオンも何も言わず、扉を大きく開けた。
「入って。もうできてるから」
「本当にレオン様がお作りになったんですの?」
「疑ってる?」
「少し」
「ひどいな」
「だって、皇太子殿下がお料理をなさるとは思いませんもの」
案内されたのは、暖炉のある居間だった。
大きな部屋ではない。
窓辺には丸い卓が置かれ、その向こうには小さな庭が見える。
壁際には本棚があり、使い込まれた長椅子もあった。
皇太子が客をもてなすための部屋というより、誰かが日々を暮らすための場所に見える。
「こちらに滞在なさっているんですの?」
「うん。広いところは落ち着かないから」
「意外ですわね」
「そう?」
「もっと豪華なところがお好きなのかと」
「俺、そんなに派手に見える?」
レオンが笑う。
「座ってて。持ってくるから」
促され、セレナは席についた。
アルベルトも当然のように隣へ座る。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
焼いた根菜。
香草を添えた肉料理。
木の実の入ったサラダ。
焼きたてらしいパンからは、まだ温かな香りがしている。
「まあ」
思っていたより本格的だ。
「本当に全部お作りになったんですの?」
「だからそう言っただろ?」
「少し疑っていました」
「まだ疑ってたんだ」
レオンは笑いながら、また奥へ戻っていった。
次に持ってきたのは、深い器だった。
一つをアルベルトの前へ。
もう一つをセレナの前へ置く。
赤褐色の煮込みから、白い湯気が立っていた。
「これは?」
セレナが器を覗き込む。
じゃがいもと人参。
濃い色のソースの中には、粗挽きの牛肉がたっぷり入っている。
「ビーフシチュー。こっちでは挽き肉を使うこともあるんだ」
「珍しいですわね」
「食べてみて」
レオンは最後に自分の分を取りに戻った。
三人分が揃う。
セレナは改めて卓の上を見渡した。
どれもおいしそうだった。
それに。
「……」
苦手なものがない。
セレナは好き嫌いが多い方ではない。
ただ、香りの強すぎる一部の野菜だけは少し苦手だった。
ヴァルディアの料理ではよく使われると聞いていたけれど、今日の料理には見当たらない。
「いただきます」
まずは、目の前のシチューを匙ですくった。
粗く挽かれた肉が、煮込まれた野菜と一緒についてくる。
口に運ぶ。
「……おいしい」
思ったまま声が出た。
肉は噛むとほろほろと崩れ、濃いソースがよく絡んでいる。
味は少し濃い。
けれど、パンと一緒に食べるとちょうどいい。
「好き?」
「ええ、とても」
「よかった」
レオンが笑った。
「アルも食べてみてくださいな」
「もう食べてるよ」
「どう?」
「おいしい」
「でしょう?」
なぜかセレナが得意になる。
レオンが吹き出した。
「セレナ嬢が作ったみたいになってるけど」
「わたくしの好みに合ったのですから、仕方ありません」
「じゃあ成功だな」
「何がです?」
「結婚祝い」
そう言って、レオンもシチューを食べ始めた。
◇
食事を終える頃には、すっかり日が傾いていた。
窓から入っていた光も薄くなり、レオンが卓上のランプに火を入れる。
「そうでした」
セレナは思い出して、玄関の方を見る。
「焼き菓子も持ってきたんですの」
「食べる?」
「せっかくですもの。少しだけ」
「じゃあ、俺も出そうかな」
「レオン様も?」
レオンが立ち上がり、部屋の隅に置かれていた包みを持ってきた。
それを見た瞬間、セレナは瞬いた。
見覚えのある印が入っている。
「……あら」
「どうした?」
「それ、どちらで?」
「今日、王都に着いてから買った」
レオンが卓へ置く。
セレナは自分たちが持ってきた箱と見比べた。
同じ印。
「同じ店ですわ」
「え?」
レオンも二つの包みを見る。
「本当だ」
「偶然ですね」
「偶然だね」
レオンが笑った。
「何を買った?」
「蜂蜜と木苺、それからナッツを少し」
「俺も似たようなもの」
二つの箱を開く。
よく似た焼き菓子が卓の上に並んだ。
「これでは手土産になりませんわね」
「いいよ。いっぱい食べられる」
「そんなに食べられません」
「アルベルトもいるし」
レオンがそちらを見る。
「食べるだろ?」
「うん」
アルベルトが蜂蜜の焼き菓子を一つ取った。
「アル、蜂蜜のものばかり取っていますけれど」
「好きだから」
「そうでした?」
「好きだよ」
そう言って、アルベルトは菓子を口に入れる。
口元に、小さな欠片が残った。
セレナは気づいて、手を伸ばした。
指先で取ってやる。
アルベルトが目を細めた。
セレナはそのまま自分の皿へ視線を戻し、木苺の焼き菓子を一つ取った。
「やっぱり、ここの木苺はおいしいですわ」
「好きなんだ?」
レオンが聞く。
「ええ。昔からよく買っています」
「へえ」
「アルと何度も来ているんです」
「そうなんだ」
レオンは焼き菓子を一つ取った。
蜂蜜だった。
セレナは木苺の菓子を口に運ぶ。
甘酸っぱい味が広がる。
食事のあとだというのに、やはりこれは別だった。
「そういえば」
昨日、店で聞いた話を思い出した。
「昨日、あの店で少し気になる話を聞きましたわ」
「なに?」
レオンが尋ねる。
「小麦が値上がりしているそうです」
レオンの手が止まった。
ほんの少しだけ。




