29_容疑者
それから、数日が過ぎた。
レオンの熱は、まだ完全には下がっていなかった。
朝には平熱近くまで戻っていたかと思えば、夕方になるとまた上がる。そんな波を繰り返していたものの、寝台で過ごす時間は少しずつ減り、三人で資料を調べられる程度には回復していた。
そして、熱を出してからというもの、レオンは随分と甘えるようになった。
『抱きしめていい?』
最初は、そう聞いていた。
セレナも初めのうちは戸惑っていたものの、熱に浮かされて弱っている姿を見てしまえば、強く拒むこともできなかった。
『……少しだけですわよ』
そう答えると、レオンは嬉しそうに笑ってセレナを抱き寄せた。
腕を回されれば、身体は簡単に引き寄せられる。
セレナの頬はいつもレオンの胸元へ収まり、顔を上げてもすぐそこにあるのは喉元で、表情を見るにはさらに視線を上げなければならない。
背中へ回る長い腕に囲われると、自分だけがすっぽりとその内側へ収まってしまう。
初めは、その身長差にも、この近さにも落ち着かなかった。
けれど、何度か繰り返すうちに。
そこが、いつもの場所になっていた。
そして最近では、レオンはもう「抱きしめていい?」とも聞かない。
セレナが部屋を訪れると、当たり前のように腕を伸ばしてくる。
「……またですの?」
「うん」
呆れたように言いながら、セレナは断りもしなかった。
小さく息を吐いて、その腕の中へ収まる。
しばらくそうしていると、レオンの方から離れていく。
それ以上のことをするわけでもない。
だからセレナも、いつからこんな距離が当たり前になったのか、よく分かっていなかった。
ただ、アルベルトがいるときだけは、レオンはそんなことをしなかった。
三人で同じ机を囲んでいるときは、以前と何も変わらない顔で資料を読み、時折軽口を挟む。
以前より、少しだけ距離が近い。
同じ紙を覗き込めば肩が触れる。
資料を渡せば指先が重なる。
けれど、二人きりのときの距離に慣れてしまったセレナにとっては、その程度の接触など気に留めるほどのことではなかった。
アルベルトも、何も言わなかった。
レオンはいつも通りの顔で、次の資料へ手を伸ばした。
窓から差し込む午後の光の中、机の上には夜会の招待客名簿や使用人の配置記録、搬入業者の一覧が所狭しと広げられている。
誰がレオンの近くにいたのか。
いつ酒が運ばれたのか。
誰が席を外し、どの使用人が出入りしたのか。
証言と記録を何度照らし合わせても、毒を入れた人物へ直接繋がるものは見つからなかった。
「夜会の中だけを見ていても、これ以上は難しそうですわね」
セレナが最後の一枚を資料の山へ戻した。
「だね」
レオンも名簿を閉じ、背もたれへ身体を預けた。
少し考えてから、机の端に積まれていた別の資料へ手を伸ばす。
「じゃあ、逆から行こうか」
「逆?」
「毒の方」
レオンは一冊の帳簿を開き、二人から見える位置へ置いた。
「誰が入れたか分からないなら、誰が手に入れられたかを調べる」
アルベルトが頷く。
「入手経路か」
「そう」
毒そのものが何なのかは、まだ分かっていなかった。
ただ、残されていた酒やレオンの血液を調べたことで、使われた可能性のある原料はいくつかまで絞られている。
珍しいものも含まれていたが、どれも手に入れること自体が不可能な品ではない。
ただ、一つ妙なことがあった。
セレナは原料の一覧を眺めていて、一つの名前で指を止めた。
「こちらは、あまり見たことがありませんわね」
レオンが横から資料を覗き込む。
「ああ。それなら帝国では珍しくないよ」
「ヴァルディアでは?」
「うん。薬にも使うから、普通に流通してる」
「エルグランでは、ほとんど扱われておりませんわ」
アルベルトも別の資料を確認した。
「輸入記録はあるけど、量は少ないね」
「でしたら、これなら辿りやすいかもしれませんわね」
セレナはその原料へ印をつけた。
今のところ、分かるのはそれだけだった。
ヴァルディアでは珍しくなく、エルグランでは流通量が少ない。
だからといって、何かを意味するとは限らない。
三人はそのまま、集められた流通記録を調べ始めた。
商会。
研究機関。
薬師。
工房。
過去数か月の購入者。
候補となる原料を扱った記録から、日付と数量、購入者を一つずつ拾っていく。
しばらくの間、部屋には紙をめくる音と、時折ペン先が走る音だけが続いた。
どれくらい経っただろう。
「……あら?」
セレナの手が止まった。
「どうしたの?」
レオンが顔を上げる。
セレナは答えず、手元の購入記録を見つめたまま眉を寄せた。
一度、上から読み直す。
それでも納得できなかったのか、隣に置いていた別の資料を引き寄せ、日付と品目を見比べる。
「見間違いかと思ったのですけれど……」
「何が?」
アルベルトも顔を上げた。
「ここですわ」
セレナが購入者の欄を指した。
レオンも確認しようと椅子を少し寄せる。肩が触れたけれど、セレナは気にも留めなかった。
今では、これくらい。
近いうちにも入らない。
そのまま指先で一行を辿る。
レオンも何事もなかったように、セレナの示した場所へ目を落とした。
向かいに座るアルベルトから見れば、二人で同じ資料を確認しているだけだった。
購入記録には、日付、品目、数量、取引を行った商会。
そして。
購入者。
アルベルトの目が、その名前で止まった。
「……僕?」
レオンが顔を上げる。
「何?」
アルベルトはセレナの前から紙を取り、もう一度その名前を確認した。
そこには確かに記されていた。
アルベルト・エルグラン。
「買ったの?」
「買ってないよ」
返事は即座だった。
覚えがない。
自分の名義で、この原料を購入した記憶など一度もなかった。
レオンも立ち上がり、今度はアルベルトの肩越しから記録を覗き込む。
「いつ?」
「……六月九日ですわ」
セレナの答えに、アルベルトが眉を寄せた。
「九日?」
もう一度、日付を見る。
間違いない。
六月九日。
「夜会より、ずっと前だね」
レオンが呟く。
それどころか。
小麦の件が起きるよりも前だ。
今回の夜会は、小麦の一件が解決したことを祝うために開かれたものだった。
六月九日の時点では、開催されることすら決まっていない。
「取引先は?」
「王都の薬種商ですわ」
レオンの表情から、先ほどまで残っていた軽さが消えた。
「アルベルト本人が買ったわけじゃないなら、名前を使われた可能性が高いね」
「どのような手続きで購入されたのか、確認する必要がありますわね」
「記録自体が書き換えられた可能性もあるよ」
アルベルトが言う。
「あるね」
単なる記入間違い。
名義の悪用。
記録の改竄。
今の段階では、どれも否定できない。
レオンは購入者の欄を見ながら、僅かに目を細めた。
「それか、君の名前なら取引が通りやすいと思っただけか」
「あるいは」
アルベルトが顔を上げた。
その声が、少し低くなる。
「僕の名前を、ここに残したかった」
一瞬、三人の間に沈黙が落ちた。
「まだ、そこまで考えるのは早いですわ」
セレナが静かに言った。
「アルに疑いを向けるためだったのか、単に名前を利用しただけなのか。それすら、まだ分かっておりませんもの」
「うん」
アルベルトも頷いた。
これはまだ、嫌疑ですらない。
自分の名前が使われていた。
今、確実に言えるのはそれだけだ。
それでも。
何もなかったところに、初めて辿ることのできる糸が現れた。
「まずは店だね」
レオンが購入記録を机へ戻した。
「誰が取引したのか。どういう方法でアルベルトの名前が使われたのか。それから、買われた原料が実際にどこへ渡ったのか」
「記録が本物かどうかも確認する必要がありますわね」
「うん」
三人の次の行動は決まった。
それなのに、アルベルトは自分の名前が記された紙から、なかなか目を離すことができなかった。
妙な感じがする。
こんな事件は知らない。
少なくとも、一度目の人生では起きていなかった。
自分が知らなかっただけという可能性もある。
けれど、これほど自分に近いところで起きた事件なら、何かしら記憶に残っていてもおかしくない。
それに。
六月九日。
夜会どころか、小麦の件より前から、自分の名前が使われている。
偶然なのだろうか。
「……レオン」
無意識に名前を呼んだ。
レオンがこちらを見る。
青灰色の瞳と目が合う。
言葉は必要なかった。
その僅かな沈黙だけで、アルベルトには分かった。
レオンも知らない。
レオンが生きた前回の人生にも、こんな事件はなかった。
セレナだけが二人の間に流れたものを理解できず、不思議そうに見比べる。
「どうかなさいました?」
「……いや」
レオンが先に目を逸らした。
「何でもない」
アルベルトも、もう一度購入記録へ視線を落とした。
知っているつもりだった。
一度、生きた時間だから。
何が起きるのか。
何が起きないのか。
少なくとも、大きな出来事くらいは。
けれど。
目の前には、二人とも知らない事件の手がかりがある。
しかも。
自分の名前で。
過去へ戻ったからといって。
同じ人生になるわけじゃない。
そのことを、アルベルトは改めて理解した。




