20_余韻
机の上には、資料が積み上がっていた。
三人は夜会で起きたことを、初めから洗い直していた。
出席者の名簿。
招待客が会場へ入った時刻。
使用人の配置。
料理や酒が運び込まれた順番。
セレナは資料へ手を伸ばしかけて、向かいに座るレオンを見た。
昨夜ほど顔色は悪くない。
けれど、資料を取ろうと伸ばした手が途中で止まり、何でもないように一度机へ置かれた。
ほんの僅かなことだった。
レオン自身は、何事もなかったような顔をしている。
「レオン様、熱はもう大丈夫ですの?」
「大丈夫」
軽い調子で答えて、レオンは資料の束から一枚抜き取った。
あれほど高い熱だったのだから、もう少し休んでいてほしいところではあるけれど、本人にその気がないことは、朝から積み上げられた資料を見れば分かる。
「無理はなさらないでくださいませね」
「分かってる」
笑って返されると、それ以上は言いづらかった。
セレナはもう一度だけレオンを見てから、資料へ視線を戻した。
レオンが誰と話したのか。
どこを歩いたのか。
何を口にしたのか。
覚えている限りを一つずつ辿り、資料と照らし合わせていく。
「そのあとは?」
アルベルトが尋ねた。
「東側の広間に移った。そこで三人と話してる」
レオンが名簿から名前を拾い上げる。
「この三人」
「何か召し上がりました?」
「酒を一杯。料理は食べてない」
セレナが給仕の記録へ目を落とした。
「そのお酒を運んだのは……こちらの方ですわね」
「でも、そいつだけじゃないよ。同じものを飲んだ人間が他にもいる。そっちは何ともなかった」
「でしたら、運ばれる前に入っていた可能性は低いですわね」
「僕もそう思う」
アルベルトが資料へ目を落とす。
「レオンの杯だけを狙ったなら、手に渡ってからの方が自然だ」
「でも、オレが席を離れた時間はほとんどない」
「そこなのですわね……」
セレナは給仕の記録をもう一度辿った。
「それに、少し妙ですわ」
「何が?」
「レオン様を狙ったのでしたら、もっと確実な機会があったのではありません?」
レオンが僅かに眉を上げる。
「滞在してから今日まで、レオン様は何度も王宮でお食事をされています。お部屋へ運ばれたものもありますし、少人数で召し上がったこともありましたでしょう?」
「あるね」
「それなのに、どうしてわざわざ夜会で?」
アルベルトの手が止まった。
大勢の人間がいる。
誰がどの杯を取るかも、少人数の食事より読みづらい。
確実にレオン一人を殺したいのなら、あまりに不確かな場所だった。
「……確かに」
アルベルトが呟く。
レオンは少し考えてから、椅子の背へ深く身体を預けた。
「そもそも、オレを殺すつもりだったのかも分からないしね」
セレナが顔を上げる。
「レオン様の杯に入っていたのでしょう?」
「結果的にはね」
「別の方が飲む可能性もあった、と?」
「ある」
アルベルトが答えた。
「レオン個人を狙ったのか。それとも、あの夜会で誰かが毒に倒れること自体が目的だったのか。それすらまだ分からない」
誰が、いつ、どこで、何のために。
当日の状況をどれだけ並べても、肝心なところだけが綺麗に抜け落ちていた。
「……駄目ですわね」
セレナが資料を置く。
「もう一度、最初から見直しましょうか」
「これで何回目?」
「分かりません」
「もう犯人の方から名乗り出てくれないかな」
「レオン様」
「冗談だよ」
レオンが笑う。
その声はいつも通りだった。
アルベルトは小さく息を吐きながら、次の資料へ手を伸ばした。
その拍子に襟元がわずかにずれ、首の付け根に赤い痕が覗く。
レオンの視線が止まった。
見えているのはほんの一部だったが、形までは隠しきれていない。
歯形だ。
アルベルト本人は気づいていないらしく、そのまま何事もなかったように資料へ目を落としている。
レオンはアルベルトの襟元を見たあと、セレナへ視線を移した。
何かに納得したように、小さく息を吐く。
「では、こちらの給仕の動きからもう一度――」
セレナは何食わぬ顔で資料をめくっている。
レオンはもう一度アルベルトの襟元へ目をやると、席を立った。
一瞬だけ机へ手をついたが、すぐに離す。
そのまま何でもないようにアルベルトの後ろを通り過ぎ、肩へ触れることもなく、ただ耳元へ顔を寄せた。
「――君が頼んだんだろ、それ」
アルベルトの手が止まった。
低い声は、アルベルトにしか届かない。
緑の瞳がすっと細くなる。
「……なんで分かるの」
アルベルトも声を落とした。
レオンの口元がわずかに上がる。
「分かるよ」
それだけ言って離れようとしたレオンへ、アルベルトはにこりと笑った。
「さすが、ご経験が多い方は違うな」
「お褒めにあずかり光栄だね」
「褒めてないよ」
「でしょうね」
「……お二人とも?」
セレナが顔を上げた。
「何をお話ししているんですの?」
「大したことじゃないよ」
「レオン様、またアルに何か仰ったでしょう」
「どうしてオレだと?」
「アルがそういう顔をするときは、大抵レオン様ですもの」
「よく見てるね」
「長い付き合いですから」
さらりと返して、セレナは帳簿へ戻る。
レオンは笑った。
アルベルトは笑わなかった。
「……何?」
「いや、何も」
またそれだ。
全部分かっているような顔。
気に入らない。
そのとき、レオンの視線がもう一度自分の襟元へ落ちた。
アルベルトは服の上から、そこへ触れる。
昨夜の痕は、まだ残っている。
少し押す。
痛い。
朝、目を覚まして一番に確かめた。
ちゃんと残っていた。
そのあと、隣も見た。
セレナもいた。
自分の隣で眠っていた。
それだけで胸の奥にあったものが、少しだけ静かになった。
向かいでレオンが、呆れたように目を細める。
セレナが資料へ視線を落としている隙に、口だけが動いた。
――変態。
アルベルトは眉ひとつ動かさなかった。
むしろ服の上から、もう一度押した。
少し痛い。
それが嬉しい。
セレナからもらった痛みだから。
レオンの顔が、さらに呆れたものになる。
アルベルトはにこりと笑った。
勝手に言ってればいい。
「アル?」
「なに?」
「聞いていらっしゃいます?」
「聞いてるよ」
何事もなかったように、椅子をセレナの方へ寄せる。
「ここでしょう?」
「ええ。この方です」
セレナが名簿の一人を指した。
すぐそばで銀色の髪が揺れ、ふわりと花の香りがした。
アルベルトは一瞬だけその横顔を見て、ようやく資料へ視線を戻した。
ちゃんと、ここにいる。
それでいい。
今は。




