15_何も変わってない
レオンは、アルベルトの胸元のブローチを見る。
「怖くないのか」
「何が?」
「もう戻れない」
「うん」
「もし、またセレナがお前を選ばなかったら?」
一瞬。
アルベルトが黙った。
それから笑う。
「今回は、セレナが僕を選んだから」
胸の奥を、細い針で刺されたような気がした。
「僕と結婚したいって、セレナから言ったんだよ」
「……そう」
「僕は何も強制してない。それでも、僕を選んだ」
痛い。
聞きたくない。
けれど、顔には出さなかった。
「今回は、僕を」
また。
レオンはアルベルトを見る。
最初は、ただ自慢したいのだと思った。
自分に勝ったと、わざわざ言いに来たのだと。
けれど。
何度も聞いているうちに、少しずつ違うものが見えてきた。
「……お前さ」
「何?」
「それ、何回言うの?」
アルベルトの笑みが止まる。
「何の話?」
「セレナがお前を選んだって」
「事実だから」
「知ってる」
「……」
「じゃあ、なんで俺に何度も言うの?」
アルベルトは答えなかった。
レオンはその顔を見ながら、これまでのことを思い返す。
あの焼き菓子。
自分とセレナにとって思い出のある店のもの。
セレナに甘えて。
髪を撫でてもらって。
身体を寄せて。
そのたびに、こちらを見ていた。
全部知った上で。
「……ああ」
ようやく分かった。
「何?」
「お前、怖いんだ」
アルベルトの顔が僅かに変わった。
「何が」
「俺が」
「違う」
返事が早い。
レオンは思わず笑った。
「じゃあ、なんでわざわざ勝ったなんて言うの?」
「……」
「本当に勝ったと思ってるなら、俺に言いに来る必要ないだろ」
「別に、確認しに来たわけじゃない」
「そう?」
「そうだよ」
アルベルトの笑みが消えていく。
勝った男が、こんな顔をする。
「セレナに甘えるたび、俺のこと見てたよな」
「見てないよ」
「見てた」
「……」
「俺とセレナのこと、知ってたから?」
「知ってるよ」
「その上で、あれやってたんだ」
「僕たちは夫婦だから。妻に甘えて何が悪いの」
「何も悪くないよ」
レオンは笑った。
「だから不思議なんだよ」
「何が?」
「なんで俺を見る必要があるの?」
アルベルトの唇が閉じた。
「セレナはお前の妻なんだろ?」
「……」
「お前を選んだ」
「……」
「俺じゃなくて」
「……」
レオンは少しだけ首を傾げる。
「それなのに、何がそんなに怖いの?」
「怖くない」
「ふうん」
ふと、さっきの話が頭をよぎった。
一回目。
二回目。
三回目。
自分は二回目だと思っていた。
けれど。
セレナは三回目。
「セレナも、三回目なんだよな」
「そうだよ」
「一回目は覚えてる。でも、二回目だけ覚えてない」
アルベルトの目が僅かに揺れた。
レオンはそれを見逃さなかった。
「理由は、お前にも分からない」
「……分からないよ」
さっきは、思い出さないと言った。
今は、分からないと言う。
「……じゃあ」
自分の声が少し変わった。
「思い出すかもしれないんだ」
アルベルトの表情が消えた。
「思い出さないよ」
即答だった。
「なんで?」
「今まで思い出してない」
「だから?」
「……」
「お前にも分からないんだろ」
アルベルトが黙る。
「二回目の記憶が消えたのか。どこかに残ってるのか。何かきっかけがあれば戻るのか」
返事はない。
胸の奥に、期待が生まれてしまった。
怖いくらいに。
もし本当に残っているなら。
セレナの中に。
自分を愛した記憶が。
自分の妻だった記憶が。
あの時間が。
まだ。
「……思い出したら」
声が漏れた。
アルベルトの顔が強張る。
その顔を見て、今度はレオンが笑った。
「お前も考えたんだ?」
「……」
「セレナが、俺を思い出すかもしれないって」
「思い出さない」
「だから、なんで言い切れるの?」
「……」
「さっき自分で言っただろ。分からないって」
アルベルトの指が強く握られる。
レオンはそれを見ながら言った。
「全部思い出したセレナに、もう一回選んでもらえばいいだろ」
「……」
「できる?」
「僕を選ぶよ」
「そう」
「セレナは僕を愛してる」
「うん」
「僕の妻だ」
「そうだね」
「僕を選んだんだ」
まただ。
レオンはとうとう笑った。
「ほら」
「……何」
「また言ってる」
アルベルトの顔が歪む。
レオンはその顔を見た。
「何も変わってないな、お前」
アルベルトの表情が止まる。
「……何が」
「セレナが欲しい」
「……」
「誰にも渡したくない」
アルベルトの眉が寄る。
「自分だけを見てほしい」
「それは――」
「前と同じだろ」
「違う」
「僕は何も強制してない」
「うん」
「セレナが嫌がることだってしてない」
「そうだね」
アルベルトが言葉に詰まる。
「だったら――」
「でも、お前は怖いんだろ」
「……何が」
「また欲しくなりすぎたら、止まれなくなるかもしれない」
「違う」
「またセレナを傷つけるかもしれない」
「やめて」
低い声だった。
そこで、ようやく確信した。
アルベルトが怖がっているのは、レオンだけではない。
自分自身もだ。
変わったはずの自分を、まだ完全には信じていない。
「だから」
レオンはゆっくり言った。
「セレナを抱けないんだろ」
アルベルトの顔から、血の気が引いた。
「……なんで」
声が掠れる。
「なんで、それを知ってるの」
「セレナから聞いた」
アルベルトの指が震えた。
「……何を話した」
レオンは答えない。
代わりに少しだけ笑った。
「教えてあげようか」
「……何を」
「セレナのこと」
アルベルトの顔から表情が消える。
「どこに触れられるのが好きか」
「レオン」
「どう触れたら、どんな反応するか」
「黙れ」
「お前が怖がってできないなら」
「黙れ」
「俺が教えてあげようか?」
「黙れ!」
レオンは口を閉じた。
その顔を見ながら、ゆっくりと黒い手袋をした手を持ち上げる。
人差し指を、自分の唇へ当てた。
さっきのセレナを思い出す。
それだけで、自然と目が細くなった。
「……でも」
「……何」
「敏感なのは」
わずかに笑う。
「変わってないみたいだよ」
アルベルトが動かなくなった。
「……どういう意味?」
「そのままだけど」
「何をした」
レオンは答えない。
「レオン」
「教えない」
「何をした」
何も言わず、唇に触れていた指をゆっくり離した。
アルベルトの顔が歪む。
「そんな顔しなくても」
レオンは言った。
「今回は、お前の勝ちなんだろ?」
「……黙れ」
「セレナはお前の妻で」
「うるさい」
「お前を選んだ」
「うるさい!」
レオンの笑みが消えた。
「じゃあ、何がそんなに怖い?」
「……」
「俺が触れたこと?」
アルベルトは答えない。
「それとも」
少しだけ間を置く。
「セレナが、嫌がらなかったこと?」
アルベルトの呼吸が止まった。
レオンも、それ以上は言わなかった。
静かな部屋に、荒い呼吸だけが残る。
しばらく二人とも黙っていた。
それでも、胸の奥に溜まったものは消えてくれない。
「お前の知らないセレナを、俺は知ってる」
アルベルトの眉が寄る。
「朝、どんな顔で起きるかも。機嫌が悪いときの癖も俺の名前を呼ぶ声も」
アルベルトが苦しそうな顔をするほど、もっと言ってやりたくなった。
こいつが知らないセレナを。
自分だけが知っているセレナを。
「子どもができたって分かったとき、泣いて喜んだ顔も」
アルベルトが黙った。
効いた。
そう思った。
だから、笑ってやればよかった。
さっきまでみたいに。
それなのに、できなかった。
思い出したのは、あの日のセレナだった。
何度もお腹に手を当てて、泣いているのに笑っていた。
自分も嬉しかった。
三人になるのだと思った。
これから先も、ずっと。
「……生まれなかったよ」
アルベルトが僅かに眉を寄せる。
「え?」
「その子」
喉が痛んだ。
熱のせいではなかった。
「生まれる前に、セレナが死んだから」
アルベルトの表情が止まる。
「……何?」
「馬車で移動してる途中、野盗に襲われた」
口にすると、あの日のことが嫌でも蘇った。
「俺が着いたときには、もう遅かった」
アルベルトは何も言わない。
さっきまで。
どちらがセレナに愛されていたか。
どちらがセレナを知っているか。
どちらが選ばれたか。
そんなことで互いを傷つけていたのに。
もう、どうでもよくなった。
長い沈黙のあと、アルベルトが口を開く。
「……セレナが」
声が少し掠れていた。
「二回目も、死んだの?」
「ああ」
アルベルトが俯く。
しばらく何も言わなかった。
「……どうして?」
「だから、野盗に――」
「違う」
遮られた。
アルベルトが顔を上げる。
さっきまでとは、目が違った。
「どうして、二回とも死んでるの?」
レオンは黙った。
「一回目は、僕が処刑させた」
声が低くなる。
「でも、あれは冤罪だった」
「……」
「セレナは何もしてなかったのに、罪を着せられた」
アルベルトの眉が寄る。
「二回目は、野盗?」
「そう聞いてる」
「誰か捕まった?」
「いや」
「本当に?」
「……何が言いたい」
アルベルトはすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりとこちらを見る。
「二回目も」
一拍。
「誰かに殺されたんじゃないの?」
レオンの笑みが消えた。




