10_毒
「レオン様!」
床へ崩れた身体に、セレナは駆け寄った。
けれど、それより早くアルベルトが膝をつく。
「レオン。聞こえる?」
肩を支え、顔を覗き込む。
返事はない。
先ほどまで笑っていた顔から、血の気が引いていた。
「医師を呼んで」
アルベルトの声が広間に響いた。
「今すぐ。扉も閉めて。誰も外へ出さないで」
ざわめきが広がる。
「殿下、しかし――」
「給仕も全員ここに残して。厨房にも人を。残っている料理と酒には触れさせないで」
迷いのない声だった。
床に砕けた杯へ視線を落とす。
「それも片づけないで」
そこでセレナも杯を見る。
「……毒?」
「まだ分からない」
アルベルトは決めつけなかった。
「セレナ。レオンが何を口にしたか覚えてる?」
「今の杯を……その前は、わたくしたちと同じものをいくつか」
「分かった」
アルベルトが近くにいた給仕を見る。
「この杯を渡したのは?」
「わ、私です」
「中身は?」
「白葡萄酒でございます」
「同じ瓶から注いだものは?」
「ほかのお客様にも……」
給仕の顔が青ざめる。
「その瓶を探して。誰が飲んだかも確認して」
「はい!」
人が走る。
セレナはアルベルトを見た。
誰も犯人だとは言わない。
給仕を捕らえろとも言わない。
残せ。
調べろ。
確かめろ。
必要なことを一つずつ口にしていく。
六月二十一日。
一度目の人生では。
『わたくしではありません』
何度そう言っても、アルベルトには届かなかった。
けれど今。
目の前でレオンが倒れても、アルベルトは誰かの罪を決めつけようとはしなかった。
「……レオン様?」
セレナはレオンへ視線を戻した。
頬に触れる。
冷たい。
そう思った直後。
「っ……」
レオンの身体が震えた。
「レオン様?」
眉間に深い皺が寄る。
呼吸が乱れていく。
セレナの手の下で、肌が急速に熱を持ち始めた。
「アル」
アルベルトも額に触れる。
「熱い」
先ほどまで冷たかったはずなのに。
額だけではない。
首筋まで熱を帯びていく。
「こんなに急に……」
そのとき、広間の扉が開いた。
「医師です!」
ようやく来た。
◇
レオンは王宮の客室へ運ばれた。
それから、どれほど時間が経ったのか分からない。
セレナは廊下の長椅子に座っていた。
扉の向こうでは、医師たちが処置を続けている。
アルベルトはまだ戻ってこない。
夜会の出席者。
給仕。
厨房。
酒。
確認しなければならないものが多いのだろう。
セレナは自分の手を見る。
ほんの少し前まで。
この手を取って、レオンと踊っていた。
黒い手袋。
腰に添えられた手。
あれから、まだそれほど時間は経っていない。
なのに。
扉一枚向こうで、レオンが生きるか死ぬかも分からない。
膝の上で手を握った。
「セレナ」
顔を上げる。
アルベルトが廊下の向こうから歩いてきた。
「アル」
立ち上がる。
「どうでした?」
「今のところ、ほかに倒れた人はいない」
アルベルトはセレナの前まで来た。
「白葡萄酒も見つかった。同じ瓶から飲んだ人にも異常は出てない」
「では……」
「瓶じゃない」
レオンが手にした、あの一杯だけ。
「杯ですの?」
「その可能性が高いと思う」
「給仕の方は?」
「話を聞いてる。でも、あの人が入れたとは限らない」
アルベルトの声は静かだった。
「杯に触れた人を調べる」
「……ええ」
アルベルトが手を差し出す。
セレナはその手を取った。
そこで気づいた。
「アル?」
「何?」
「手が冷たいですわ」
アルベルトは自分たちの重なった手を見る。
「ああ」
まるで、今初めて気づいたような顔をした。
「僕も怖かったみたい」
セレナはアルベルトの手を両手で包んだ。
事件が起きてから。
アルベルトは一度も迷わなかった。
誰かに指示を出し。
証拠を残し。
一人ずつ話を聞いて。
ずっと冷静に見えた。
けれど。
怖くなかったわけではない。
「アルが倒れたのかと思うくらい冷たいですわ」
「それは困るな」
アルベルトが少し笑った。
包んだ手に、ゆっくり力が戻ってくる。
「……あったかい」
「わたくしが普通なんです」
「もう少し、このままでいていい?」
「ええ」
セレナは手を離さなかった。
やがて。
閉ざされていた扉が開いた。
二人とも顔を上げる。
◇
「レオン様は?」
セレナが尋ねる。
「ひとまず、命に別状はありません」
息が抜けた。
「……よかった」
隣でアルベルトも大きく息を吐いた。
けれど。
医師の表情は晴れない。
「ただ、熱が下がりません」
「熱?」
「ええ。解熱の処置もしておりますが、ほとんど効いていないのです」
「原因は?」
アルベルトが尋ねる。
医師は首を振った。
「まだ分かりません」
「毒ではないんですの?」
「その可能性は高いでしょう。ただ、私の知る毒とは症状が合いません」
セレナとアルベルトは顔を見合わせた。
「まだ意識は?」
「戻っておりません。今夜は熱がどう動くか、注意して見る必要があります」
セレナは閉じた扉を見る。
「……そばにいても?」
「ええ。構いません」
セレナは頷いた。
◇
部屋へ入る。
寝台にレオンがいた。
黒い上着は脱がされ、額には濡れた布が置かれている。
いつもなら、聞いてもいないことまで話す男が。
今は目を閉じたまま、何も言わない。
「……レオン」
返事はない。
侍女が新しい布を水に浸す。
セレナは手を伸ばした。
「わたくしが」
布を受け取る。
額に置かれたものを取り、新しいものへ替えた。
指先が黒い髪に触れる。
熱い。
驚くほどの熱だった。
「いつもは、聞いてもいないことまでお話しになるのに」
返事はない。
「こういうときだけ静かなんですのね」
何を言っているのだろう。
自分でもそう思う。
それでも何か話していないと、この静けさが怖かった。
「セレナ」
振り返る。
アルベルトが立っていた。
「僕、戻らないと」
「まだ調べることが?」
「うん。杯に触れた人を確認したい」
「そうですか」
セレナは寝台を見る。
「わたくしは、もう少しこちらにいますわ」
一瞬。
アルベルトの視線がレオンへ向いた。
すぐにセレナへ戻る。
「うん。分かった」
「何か分かりましたら、教えてくださいませ」
「もちろん」
アルベルトは扉へ向かった。
けれど、途中で足を止める。
戻ってくる。
「アル?」
セレナの前に立つと、何も言わず手を取った。
指が絡む。
ぎゅっと。
一度だけ強く握られた。
セレナも握り返す。
アルベルトの手は、先ほどより温かくなっていた。
「行ってくる」
「ええ。いってらっしゃい」
指がほどける。
扉が閉まった。
セレナはしばらく、自分の手を見ていた。
そこにはまだ、アルベルトに握られた感覚が残っている。
やがて新しい布を取り、水を絞った。
レオンの額へ乗せる。
熱い。
先ほど触れたアルベルトの手とは、まるで違う。
一人は事件を追っている。
一人は熱に浮かされて眠っている。
セレナは、その寝台のそばに椅子を寄せた。
六月二十一日。
一度目の人生では。
この日の夜を、セレナは知らない。
その日のうちに、自分の人生が終わったから。
けれど今は。
六月二十一日の夜。
セレナは生きている。
アルベルトの手の感触を指に残したまま。
レオンのそばで。
次の朝を待っていた。




