第二十話 消えた香織
香織は寝台から起き上がり、上質な麻紙を綴じた冊子に筆を走らせていた。
「食堂の新しいメニューを考えておかなくちゃね」
香織の頭には、おそうざい食堂のことがあった。
おそうざい食堂は国の食事業として官営になるが、鴻樹からはお忍びで食堂の監督をする許可を得ている。
「官営になれば食材もいろんな物が手に入るし、国境の安全も確保できたから交易品もたくさん入ってきているし、貧しい人たちへの炊き出しや今までできなかったことができるようになるわ」
前世の記憶は薄れてきたものの、料理の知識や腕は確かなままだ。
「呉陽国や芭帝国の人たちには前世の料理はウケるみたいだもの。カレーのルーを前世に売っていた物みたいにもっと改良して簡単に作れるようにして大量に炊き出しするとか、今までは伸びるのを気にしてメニューにしなかったうどんやラーメンなんかも提供できるわね。それから……」
そのとき、訪いの音がしたので返事をする。
入ってきた人物を見て、香織は目を瞠った。
「紫珠様……」
「お休み中失礼します、香織様」
丁寧に柔らかな物腰は、初めて会ったときの紫珠を思い出させた。
先日、毒入り杏仁羹事件のときに見た妖艶な姿はどこにもない。
紫珠は恭しく拱手し、にっこり微笑んだ。
「お迎えに上がりました」
「お迎え?」
「はい。香織様は回復してきて少々退屈もされているだろうから、ぜひ婚礼準備を進めたらどうかと《《耀藍様》》が仰いまして」
紫珠の背後には尚儀局の女官と数名の宦官が控えている。
「輿を御用意しました。さ、尚儀局へ参りましょう」
微笑む紫珠を見て、香織は確信する。
—―嘘だ。
これは紫珠が独断で行っていることだろう。
毒入り杏仁羹事件のとき、耀藍は紫珠に『気安く名を呼ぶな』と言った。あのときの紫珠の表情を思い出す。
あれは恋焦がれる顔。愛しい者に拒絶された絶望の顔。
そして今、敢えて「耀藍様」と言った紫珠の、微笑みの向こう側にある黒い靄。
(紫珠さんは耀藍様に想いを寄せていて、だからわたしのことが憎いんだわ)
「さ、香織様」
促す紫珠に、香織は息を呑んだ。
(紫珠様は何か企んでいる。でも……毒入り杏仁羹事件のことをはっきりさせたい)
「わかりました」
(これは罠)
わかって行くのだ。
それなりの覚悟をしなくては。
そっと手足に力を入れてみる。大丈夫。ちゃんと動く。
武器と呼べるような物は、今使っていた筆だけだ。
軸が象牙のような物でできているので何かの役に立つかもしれない。
さりげなく筆を懐に入れて、香織も微笑んだ。
「ありがとうございます」
差し出された紫珠の手に、香織は自分の手をそっと乗せた。
♢
「香織様!!」
玲栞が扉を開けると、そこには数名の女官たちが右往左往していた。
「璃晴! 香織様はどこじゃ!」
玲栞の剣幕にただならぬものを感じたのか、女官たちは一層動揺した様子で「やはり」「毒入り菓子の犯人に攫われたのでは」「どうしましょう」などと囁き合っている。
「落ち着け! 何があったのじゃ」
「玲栞さまぁどうしましょう、香織様が何も仰らずにいなくなっちゃったんです!!」
「なんじゃと?」
「お茶の仕度に手間取ってしまって……戻ってきたら部屋がもぬけの殻だったんですぅ」
璃晴は半泣きだ。他の女官がおそるおそる言った。
「玲栞様、小厨房でお茶の仕度をしていた宮女たちが申しますには、先ほど尚儀局の宮女が使いに現れて、婚礼用に使うお茶の参考にしたいから数種類茶を試飲させてほしいと言ってきたそうなのです。私たちは茶菓子の準備をしていて気付かず……それでお茶の仕度に時間がかかってしまったのです」
「むう、先手を打たれたか……!」
玲栞は歯噛みし、女官たちを振り返る。
「泣くでない! 香織様をお捜しするゆえ手の空いている者はついて参れ!」
「玲栞さまぁ、あたしは手が空いてませんが香織様をお捜ししたいですぅ!」
璃晴が鼻水をすすって泣き顔をしゃんと直した。
「あたし、この前倒れたとき、香織様の茸粥で助かったんです。だから今度はあたしが香織様をお助けしたいんです!」
「私も!」「お願いします!」「御一緒させてください!」
口々に言う女官たちに玲栞は呆気にとられ、そして苦笑する。
「我らが皆で宮を空ければ日常業務が滞るであろう」
「で、ですが」
「だが、佳蓮様不在の今、この紫蓮宮の主は香織様。宮主の危機とあれば話は別じゃ。行くぞ!」
璃晴たち女官は喜び合い手を取った。「はい!」
玲栞と璃晴たちが部屋を出ようとしたとき、慌ただしい足音が近付いてきた。
開け放していた扉から入ってきた人々を見て玲栞は仰天する。
「あなた様は……なぜここに!」




