第十六話 薬湯の苦味を忘れるくらい。
鴻樹が出ていってしまうと、沈黙が流れた。
寝台の上で身を起こしているので、耀藍と向かい合ったこの態勢では自分の心臓の音が聞こえてしまうのでは、と香織は心配になる。
そっと耀藍を見ると、視線が合ってしまった。端整な顔が優しく溶けるように和んだ。
「身体は大丈夫か、香織」
「は、はい、大丈夫です! 玲栞様が倒れて急にバタバタしたので疲れたのだと思います」
「玲栞の公主教育も応えていたのだろう。侍女たちから話を聞いたときは肝が冷えたぞ。まったく、オレの大事な婚約者になんてことをしてくれるのだ」
口をとがらせる耀藍はこれまでと変わらない耀藍で、香織はホッとする。
後宮にきてから少しずつ胸の内に凝った緊張が解けていくようだ。
(やっぱり、耀藍様が傍にいてくれると落ち着くしうれしい……)
と思った瞬間、 耀藍がそっと香織の手を取ったので心臓が跳ね上がる。
心のつぶやきを見透かされたようで顔が熱くて慌てて下を向いた。
「やっと会えたのだから、もっとよく見せてくれ」
「あのっ、でもそのたぶん、顔が真っ赤で」
耀藍がくすくすと笑んだ。
「香織の、その心から笑った顔が見たかったのだ。朱に染まっていてもよい。かえって可愛い」
大きな手のひらが香織の頬を包み、そのまま優しく口づけられた。
「すまぬ」
鼻の触れる距離で耀藍がささやく。
「せっかく堂々と一緒にいられるようになったのに、近くて遠い。香織に辛い思いをさせてしまったな」
「そんなことは、ないです」
苦笑をもらした唇がまた軽く触れて離れる。
「香織は正真正銘オレの婚約者なのだ。オレがずっと香織を守る。だからオレの前ではもう我慢はしないでくれ」
額をつけたまま優しく諭され、香織は頷く。ぼやけるほど近くにある青い双眸が優しく煌めいた。
「華老師の家にいるときと同じようにいくとは思っていなかったが、予想以上に後宮は面倒な場所だった。一日も早く、香織を花嫁としてオレの邸に迎えたい」
言い終わらないうちに耀藍の唇が再び重なる。
甘く、優しく愛おしむように何度も重なる口づけに香織は心地よく酔いしれた。
「お、お休み中すみません」
控えめな訪いにも耀藍は動じない。
「耀藍様、あの……どなたかいらっしゃいました」
「ん? ああ、そうだな」
やっと身体を離してくれた耀藍は扉の方へ「入れ」と振り返る。
お盆を捧げて立っていたのは紫蓮宮のお仕着せ姿、見覚えのある侍女だ。
「仔空さん!」
「あの、その、香織様に! 李宰相に仰せつかりまして! お薬湯をっ……」
見ている方が恥ずかしくなるくらい仔空は真っ赤になっている。
きっと、薬湯を持ってきたものの耀藍と香織の様子に声をかける時機を失ったのだろう。
いたたまれず、「ありがとうございます」と言いつつ香織も顔が熱くなるが、耀藍は涼しい顔で「ご苦労。そこの卓子に置いてほしい」などと冷静に言っているから驚く。これも大貴族の鷹揚さだろう。
仔空は言われた通りに薬湯を置くと「失礼しましたーっ」と去っていった。閉じられた扉の向こうから、うらやましいっ蔡術師様にあんなに大事にされる香織様ってすごいっ、ときゃあきゃあ騒ぐ声が聞こえてくる。
「……み、見られていたみたいですね」
「そうだな」
一ミリも顔色を変えない耀藍は「何か問題か?」と香織を覗きこむ。
「いえ、問題ではないです、けど」
「我らは世にも王にも許された婚約者同士なのだ。何も憚ることはない」
そう言いながら、耀藍は香織の髪を愛おしむように撫で、再び身を寄せるから思わず慌てた。
「耀藍様! 鴻樹様がせっかく気遣ってくださった薬湯ですので!」
「む、そうだな。薬湯は飲んだほうがよい」
耀藍は名残惜しそうに立ち上がると薬湯の椀を持ってきてくれた。
薬湯に口を付ける香織に青い瞳を和ませていた耀藍だが、ふと「そういえば」と切り出す。
「鴻樹が、儀式をしてはどうかと言っている」
「儀式?」
「香織が公主であると皆に知らしめる儀式だそうだ。亮賢には既に許可を取っている。香織にも意向を聞いてほしいと言われていたのだが、どうだろう」
「もちろん、鴻樹様が必要と思われるならわたしはそれに従います。ですが、儀式である以上、時間と労力と費用がかかりますよね?」
元が庶民の香織は、どうしてもそういうところが気になってしまう。
「わたしたちの結婚式の準備のために、後宮六局の方々がただでさえ忙しくなっています。その儀式は、今やるべきものなのでしょうか?」
「そこを気にするとは、香織らしいな」
耀藍が笑った。
「案ずるな。むしろ結婚式を円滑に行うための下地だと鴻樹は言っている。今回のことでもわかったと思うが、侍女や女官たちは香織の立場について懐疑的な者が多いのだ」
「確かに……」
あんたなんかが公主なんて認めない、と面と向かって女官たちから言われている。
「香織が正式な王家の血を引く公主なのだと皆が納得すれば、今回のようなことも起こらないし、オレたちが結婚した後も後宮は落ち着くだろう。香織は基本、オレと術師の邸で暮らすが、後宮に来ることも多いだろう。後宮での立場を安定させておいた方がいい」
確かに、耀藍の言う通りだ。
香織には細かいことはまだわからないが、きっとこの先、耀藍と結婚しても後宮には関わっていくことになるだろう。
「わかりました。お願いします」
「うむ。では、鴻樹に伝えにいく。薬湯は飲んだな?」
「はい、ありがとうございます」
薬湯の椀を受け取った耀藍の顔がふわりと一瞬近付いて、羽のように軽く触れる。
「薬湯が苦いな」
「苦いですよね……ってそうじゃなくて! 耀藍様っ、また誰かに見られてしまいますよ!」
「オレは気にせぬ」
耀藍は悪戯っぽい顔で笑う。
「もうっ、耀藍様ったら」
「はは、香織の元気も出たことだし、いいではないか」
睨む香織の頬を軽く撫でて、耀藍は風のように部屋を出て行った。
「もう少し気にしてくれないと! わたしばっかり気にしてるんじゃなんだか……バカみたいっていうか……」
そう言いつつも、薬湯の苦味を忘れるくらい甘かったひとときに、香織の頬はしばらくゆるんでいた。




