1話(4)
海面が大きく膨れ上がる。表面が弾けると、ずぶ濡れになった巨大な獣が現れた。ドルクに一撃で海に沈められた獅子型魔獣の姿だった。忌々しそうに喉を鳴らしながら砂浜へと上がる。
獣の横には半裸の男が立っていた。浅黒い筋肉質の上半身は何も纏っておらず、下は膝下まである遊泳用パンツを履いていた。
さながら波乗りのような風貌の男は海から上がってきた魔獣の背中に飛び乗る。魔獣が首を振り回し、たてがみを濡らす海水をを払う。飛沫が飛び散り背中に乗っている男にも降り注ぐ。男は両手を広げて飛沫の雨を受ける。
「んハァッ!」
側頭部に剃りこみが入った髪を掻き上げ、男は白い歯を見せて笑った。
「海臭ぇ田舎臭ぇ面倒臭ぇ。こんな辺鄙なところまで来させられるたぁ、逆に笑えてくるぜ」
笑えると言った直後、男は真顔となり魔獣を見下ろす。
「今度はしっかりやれよおい。次しくじったらマジで沈めるからな」
砂浜を進みながら、魔獣が返事代わりに鼻を鳴らす。波乗り男の恫喝に凶暴な魔獣が萎縮しているように見えた。
「ほんとにいる!」
「上に人が」
「まさか奴は」
村のほうからぞろぞろとやって来た老若男女の一団が獣と男を見て口々に騒ぎ立てる。アーチたちである。魔獣の上にふんぞり返る男が、一団の中にいるドルクを見てにやりと笑った。
「獲物のほうからお出ましか。手間が省けて助かるぜ」
「貴様が魔族の手先か」
ドルクが前に出る。
「てめぇが元英雄か。有難く思えよ、このヴァンテラ様が老いぼれの処分をしに来てやったぜ」
「生憎、その老いぼれにも最後のひと仕事が残っていてな」
「遠慮はいらねぇ。大人しく休んでろよ──棺桶の中でな!」
ヴァンテラと名乗った男は手に持っていた横笛を構えた。右の手の甲にひし形の魔石が埋め込まれていて、血液のように赤黒いそれが怪しい光を放つ。
笛が奏でられると甲高い不快な音色が響き渡る。魔獣が腹の底に響くほどの遠吠えを上げて突進を仕掛けてきた。
速い。最初の襲撃のときを明らかに凌駕する速度で、魔獣が急激に距離を詰めてくる。
だが英雄は微塵も動じていない。
「ヴァーエイルよ、再び私と共に──」
右手に聖剣を、左手に核の魔石を掲げる。鍔の窪みに魔石を嵌め込もうとすると──
バチイッ! と魔力の抵抗が発生し両者の接近を拒否した。
「何っ!?」
弾かれた剣と魔石がドルクの手から砂浜に落ちる。
眼前に魔獣が目前に迫っていた。
「もらったぁッ!」
鋭利な爪が振り下ろされる。ドルクは横に飛び退き紙一重で回避する。しかしわずかに爪が肩を掠め、肩口から鮮血が噴出した。
「ぐっ!」
傷口を押さえ片膝を付くドルク。
「ドルク! 何が起きた!」
「ヴァーエイルが拒絶した……? 今の私では相応しくないというのかっ……」
剣が答えることはない。元所有者の問いかけに対し冷徹な沈黙を貫いていた。
「ドルク逃げて!」
パラァが飛翔し魔獣の上の男に突っ込んでいく。顔の前で飛び回り攪乱する。
ヴァンテラが舌打ちをし腕を振り回す。
「鬱陶しいんだよ!」
振り回した腕がパラァに命中。呆気なく吹き飛ばされた。
「きゃあっ!」
アーチは自分のいるほうに飛んできたパラァをキャッチする。手の中でパラァが「うぅ……」と小さく呻いた。
小さい。手のひらの中に納まるフェアリーの少女はあまりに小さく、軽かった。人間がその気になったらどうとでもできてしまいそうなのは想像に難くない。
か弱く脆い命。それを簡単に傷付けるなんて──。
アーチの胸の奥から沸々と何かが沸き上がってきた。
「この子は頼んだ」
アーチはロウルにパラァを預ける。
「アーチまさか」
「そのまさかだよっ!」
言うやいなや駆け出していた。
今日はこんなことやってばっかだな、とアーチは心の中で自嘲した。
「なんだぁテメェ!」
ヴァンテラが突っ込んでくる女を見て、すぐに手負いの標的に目を戻す。どちらを優先して対応するべきか判断しかねていた。
その一瞬の迷いが隙となった。アーチは走ったまま剣と魔石を拾い上げ、魔獣の背後に逃げていく。
「こっちだ筋肉野郎!」
「なんだとぉ?」
安い挑発に乗り魔獣ごと振り返る筋肉男。これでドルクがすぐに襲われることはない。
「無茶だ!」
デフトンの叫びは波音に流されていく。
アーチの目には覚悟が宿っていた。
一か八かだ。
「聖剣だがなんだか知らないけど、こんなときに選り好みすんな! 大人しく──力を貸せええええええっ!」
アーチは剣に叩きつけるような勢いで魔石を振り下ろした。鍔の窪みに翡翠色の玉石がぴったりと嵌め込まれ、魔石と聖剣が一体となった。
この瞬間、〈聖剣ヴァーエイル〉が幾星霜の時を経て復活を遂げた。
「おもしれぇ。死に損ないのジジィを相手にするより楽しめそうだぜ!」
ヴァンテラが笛を吹き魔獣がアーチ目掛けて猛進してくる。
アーチは聖剣を構え、
「……で、これどうやって使うの?」
「おらぁっ!」
爪の攻撃を回避すると、アーチは砂浜を逃げ回った。
「ちょっと待ってちょっと待って! どうすりゃいいのこれ!」
「逃げんじゃねぇコラ!」
勢いで剣を拾ったものの、性能や能力を一切把握していないのなら聖剣とて無用の長物だ。
「〈符律句〉だ! アーチ! 〈符律句〉の印を魔石に刻むのだ!」
「〈符律句〉を?」
デフトンから説明された途端、アーチの中ですべてが繋がった。
幼い頃から稽古と称して毎日のように繰り返し書かされてきた〈符律句〉。忘れたくても忘れられないくらい体に染みついた動き。ひとつひとつの〈符律句〉が表す意味までも記憶している。
そして聖剣。かつて世界を救った英雄の愛器として使われていた最強の武器。魔石。マジェット。魔法。〈符律句〉を刻む。これらの関係が示すことは。
──そうか、そういうことだったんだ。
アーチは走りながら、剣を握る右手の親指を翡翠色の魔石に添える。
「〈符律句〉第一番、起動の相!」
添えた親指をまっすぐ左にスライドさせ横一文字を描く。すると魔石に輝きが灯った。
「〈符律句〉第二番、鋭利の相!」
右から左へ。さっきとは逆方向の一文字を描くと、剣の刀身に光が駆け抜ける。砂浜を踏みしめて後方へ反転。迫り来る敵を眼前に捉えながら、さらに左、上、と魔石に刻む。
「〈符律句〉第三番、疾風の相!」
剣を振り下ろすと、強烈な衝撃波が放たれた。間近で直撃した魔獣をヴァンテラもろとも吹き飛ばした。
「どわぁっ!?」
「わっ!?」
──と同時にアーチ自身も反動で飛ばされた。ぺっぺっと砂を吐きながら立ち上がる。
あれほど巨大な魔獣が吹き飛び砂浜に転がっていた。
アーチは自分が握るヴァーエイルを驚きの顔で見つめる。
「これが聖剣の……〈符律句〉の力……」
これこそが〈符律句〉の真の役目。〈符律句〉とは、聖剣の魔法を発動させるためのものだったのだ。
「早く起きやがれ。さっさとあの女を始末すんだよ!」
ヴァンテラが横たわる巨体を蹴けり、笛を奏でる。不快な音色が響くと魔獣が起き上がり突進を仕掛けてきた。
だがアーチはもう恐れることはない。魔石に再び第三の相の〈符律句〉を刻む。
「はぁっ!」
二発目の衝撃波を放つ。
「同じ手は食わねぇ!」
魔獣が横に飛び退き迂回して距離を詰めてくる。アーチがもう一度衝撃波を放とうとすると、魔獣が突如反転し、うしろ脚で砂を蹴り上げた。
「うわっ!」
大量の砂をかけられ目に入ってしまう。視界が遮られ目が開けられないでいると、
「アーチうしろだ!」
ロウルの叫びが聞こえた。言われるままに振り返り辛うじて薄目を開くと、大きく開かれた魔獣の口内が見えた。
背筋に悪寒が走る。身をよじり寸でのところで牙をかわすが、大きな体躯までは避けられず体当たりを食らってしまった。
「くあっ!」
アーチは大きく突き飛ばされ、波打ち際に落下した。横たわる体にさざ波が追い打ちをかけてくる。
波乗り男が下卑た微笑を浮かべた。
「オレのマジェット〈ピールーヒュー〉は魔獣を意のままに操ることができる。ただ突っ込んでくるだけと思うなよ」
「馬鹿な。たしかにそのマジェットには野生の動物を手懐ける力があるが、魔獣を操れるほど強力なものではなかったはず」
負傷に跪くドルクが疑問を投げると、ドルクが得意顔で右手を掲げた。手の甲に埋め込まれている赤黒い魔石がギラリと光る。
「その通りだぜ死に損ない。本来ならガキの玩具程度の能力しかないマジェットでも、魔族の力を借りればこの通り強力な武器になるってわけだ。おもしれぇだろ?」
「愚かな。そんなものに頼れば、身体にどれだけの負担がかかるか……」
「知ったこっちゃねぇ。オレは今この瞬間が楽しけりゃそれでいいのさ……っと、無駄話をしすぎたな」
ドルクとヴァンテラが問答している間もアーチはなかなか起き上がれなかった。突き飛ばされた痛みが予想以上に大きかった。
「くっ……」
剣術を身に付けていようとも、聖剣を握ろうとも、所詮は戦闘経験のない村娘でしかないのだ。痛みへの耐性がなかった。
「もう終わりか? つまらねぇなぁ」
魔獣の大きな影がアーチを覆う。唾液に塗れた牙を剥き出しにし、その凶器を柔肉に突き立てる瞬間を待っていた。
「……終わりだ」
ヴァンテラが笛を奏でると、魔獣が大口を開いて襲い掛かる。
アーチは咄嗟に目を瞑る。しかし予想していた襲撃はやって来なかった。
恐る恐る目を開けるとそこには、
「お父さん!」
デフトンがアーチの前に立っていた。その右腕には魔獣が噛みついていた。牙が深く食い込み、血が止めどなく流れていく。
「アーチ……逃げろっ」
「邪魔だ!」
魔獣が首を振り、デフトンを宙へ放り投げた。受け身を取る余裕もなく砂浜に叩きつけられた。
「ああああああああっ!」
アーチは怒声を上げて跳ね起き、剣を魔獣目掛けて振り下ろした。
しかしヴァンテラは笑う。
「動くな。そのままでいい」
魔獣は動かない。倒すには絶好の機会。そのはずが、切っ先は魔獣を両断する前に鼻の先で止まった。
ヴァンテラが今度は声を上げて笑う。
「やっぱそうか! お前は戦う覚悟はあっても殺す覚悟はねぇんだ。そんな奴がしゃしゃり出てくんじゃねぇ!」
魔獣が動き眼前の聖剣に噛みついた。牙と刀身が擦れ合いギリギリと硬質な音が響く。
ヴァンテラの言う通りだった。痛みに慣れていないのと同様に、たとえ敵の魔獣だとしても殺せる覚悟はなかった。それを見透かされていた。
「どうすれば……」
魔獣が前進しアーチが押される。力比べでは負けるのが目に見えている。戦い慣れていない上に殺すこともできない。このままではやられてしまう──。
「思考を止めるな! すべての答えは〈符律句〉の中にある!」
叫んだのはドルクだった。出血により額に脂汗を滲ませた顔で戦いの行く末を注視していた。
「答えは〈符律句〉の中に……」
百と九つに及ぶ〈符律句〉の中に状況を打開する何かがある。幼い頃から書かされ続けていたのだ。すべて頭の中に焼き付いている。あとは選び取るだけ──。
「これなら、もしかしたらっ」
何かを閃いたアーチは疾風の相を発動。衝撃波で魔獣の噛みつきから離れる。すぐさまある〈符律句〉を魔石に刻みながら魔獣へと突っ込んでいく。
「八つ裂きにしてやれ!」
「うおおおおおおっ!」
飛び掛かってくる魔獣。アーチはそいつに向かって剣を振り抜いた。
両者が交差し、幾許かの静寂が流れる。
「──〈符律句〉第二十五番、浄化の相……!」
「グオオオオオオオオッ!」
魔獣が天を仰いで断末魔の雄たけびを上げる。黒い瘴気が吹き上がり、巨躯を包み込む靄となる。瘴気が晴れると、魔獣の姿は消えていた。
いや、正確にはいる。凶暴な獅子型魔獣の代わりにいたのは、明らかに無害な小さい猫だった。
魔獣とはワーフィーポールから発せられる魔力の影響を受けて変質したものである。ヴァーエイルの浄化の相は、その魔力による悪影響を修正したのだ。
魔獣だった猫はみゃあと鳴くと、トコトコと軽やかな足取りでアーチたちの前から去っていった。
「嘘だろ、あんなこともできんのかよ。あいつが厄介な剣って言ってたのはこういうことか……」
魔獣を失い孤立したヴァンテラが舌打ちしながら独りごちる。
アーチは切っ先を向けて告げる。
「お友達の猫ちゃんどっか行っちゃったみたいだけど、まだ続ける?」
しばし睨み合う二人。ヴァンテラが鼻を鳴らして両手を上げた。
「わかったよ。今日のところはオレの負けにしといてやる」
「ダサい言い訳」
「気に入ったぜお前。オレは強い女が大好物なんだ」
「下品なやつ。あんたモテないっしょ」
「試してみるか?」
「黙れ。あんただけは遠慮なく切れそうな気がするよ」
「おー恐ぇ。切られる前に退散するか」
ヴァンテラは笛を奏でた。
「アーチとか言ったな? また会おうぜ」
上空から大きな鳥が飛来する。鳥型魔獣は鉤爪でヴァンテラの肩を掴むと、空高く飛んで去って行った。
アーチは軟派男が飛んで行った方向を向いて口をへの字に曲げた。
「二度と会うか」
「アーチ! よかった、本当に……」
ロウルが駆け寄り心底安心した様子で胸をなでおろした。ロウルの手の中に座っていたパラァも、アーチに心配そうな眼差しを向けていた。
「そうだお父さん! それにドルクさんも。あたしよりも二人のほう……が……」
アーチは急な目眩に襲われる。平衡感覚を失い立っていられない。戦闘によるダメージがあとになって効いてきたのだ。
倒れてる場合じゃないのに。
お父さんたちのほうがもっと重症なのに。
そう思っても身体は言うことを聞いてくれなかった。力が入らず、世界が一回転した。
空が──。
アーチはいつの間にか青い空を見ていた。
「アーチ!」
誰かの声が遠くに聞こえる。
声の主を判断する余力もなかった。
ふっ──と。
視界が暗転し、
アーチは意識を失った。
◆
誰かが泣いている。
大声で泣いている。
甲高くて喧しい、子供のような泣き声だ。
いや──ような、ではない。事実子供が泣いているのだ。
泣いているのはロウルだった。
子供の頃のロウルだ。
子供の頃?
そうだ、これは子供の頃の記憶だ。
ということは。
アーチもまた子供の姿だった。
幼いアーチは何故か不貞腐れていて、地面を見つめていた。
うつむくアーチの前には女の人がいた。
その人はアーチと瓜二つだった。似ているが現在のアーチよりも大人びている。
女性はアーチの母、アンジェルだった。
アンジェルは眉を吊り上げ、怒り顔で娘を見下ろしていた。
「お母さんがなんで怒ってるかわかる?」
「……ロウルのぬいぐるみを壊したから」
泣きじゃくるロウルはぬいぐるみを抱いていた。けれどぬいぐるみの片手は千切れていて、中から綿がはみ出していた。
壊すつもりはなかった。アーチはロウルの母親が作ったそれが可愛くて、羨ましくて、少しだけ貸して欲しかっただけなのだ。でもロウルが嫌がるからちょっとだけ強引に奪おうとした。そしたら、ぬいぐるみの腕が千切れてしまった。
「そう、人のものを壊すのはいけないこと。それはわかる?」
「うん」
「でもアーチは最初からぬいぐるみをこんな風にしたかったわけじゃないよね」
「うん」
「ロウルくんを悲しませたかった?」
「ううん」
アーチは小さな首をぶんぶんと横に振る。
アンジェルはじゃがんで娘に目線を合わせる。
「そうでしょ? アーチはぬいぐるみを貸して欲しかっただけだもんね。でも自分のことだけを考えてたら、誰かを悲しませることになる。アーチはあたしやお父さんが悲しんでるのを見たら嬉しい?」
「ううん」
「そう、誰かを悲しませるのは、いけないこと。わかる?」
「うん」
「悪いことしちゃったって思う?」
「……うん」
「じゃあ次にすることも、わかるよね?」
母は娘の背中をぽん、と叩いた。アーチはロウルのほうを向き、
「……ごめんなさい」
と小さい声ながらも謝った。
ロウルはひくひくと嗚咽を漏らしながら「うん」と返した。
するとアーチの瞳が潤みだし、ついには目から大量の涙が溢れ出した。
「あらあら今度はあんたが泣くのかい」
アンジェルは頬を流れるアーチの涙を拭ってやりながら優しく微笑む。
「アーチ、あんたは他人の痛みがわかる人間になりな。強くなくていい。偉くなくていい。誰かの涙に寄り添ってあげられる人間になって。そうなってくれたら、お母さん嬉しいな……って、こんなこと言ってもまだわかんないか」
アンジェルは気恥ずかしそうに苦笑して娘の頭を撫でた。
たしかに当時は母の言葉がピンときていなかった。
けれど今ならなんとなくわかる。
他人の痛み。涙。
そんな人間になれているだろうか。
お母さん──
◆
「おかあ……さん……」
「アーチ!」
目を覚ましたアーチの視界にいたのは、母親ではなくデフトンだった。
「あれ、あたし……」
アーチが身を起こすと、白い砂浜の中で父親や幼馴染、老英雄やフェアリーに囲まれていた。ぼんやりしていた頭がしだいに晴れ、自分の状況を思い出してきた。戦いのあと気を失ってしまっていたらしい。どれくらい気絶していたのかはわからないが、日が傾き始めていて、空が赤くなりかけていた。
なんだか夢を見ていた気がするが、もう忘れてしまった。
「アーチ、大丈夫か!?」
いつも厳しい父親にしては珍しく心配そうにアーチの様子を伺っていた。
「うん、大丈夫……ってそっちこそ!」
デフトンの右腕は魔獣に噛みつかれたことで血塗れになっていた。どう見てもアーチより重症だ。
「この程度の傷、昔に比べればなんでもな……くっ」
見栄を張って腕を上げようとするも痛みに顔を歪めるデフトン。
「ったく、子供じゃないんだから強がんないでよ。ちょっと待ってて」
アーチは傍らに落ちていたヴァーエイルを拾い魔石に〈符律句〉を描く。
「第九番、応急の相」
刀身に緑色の光が淡く灯り、デフトンの腕にかざす。名前の通り応急的な治癒しかできないが、傷跡からの出血を治める程度には効果があった。
デフトンの次にドルクの肩にも光を向けた。
手当をしながら、アーチは宙を舞うパラァを見る。
「パラァは大丈夫?」
「平気よ。あれくらいどーってことないわ」
パラァは滞空しながら胸を張った。
「すっかりヴァーエイルを使いこなしているな」
治癒の光を受けながらドルクが言う。
「これってもともとドルクさんが使ってたんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「でも〈符律句〉はお父さんから教えられた……どういうこと?」
アーチが尋ねるとデフトンがやや気まずそうな顔をした。
「〈符律句〉はドルクから伝授された。いつか訪れる魔族復活の時に備え、後世に伝えるために」
「こういうことになるって知ってたの?」
「この世に完璧なものなどない。封印も歴史を重ねていけばいずれ弱まることは想定していた。ここまで早いとは、さすがに想定外だったがな」
「〈符律句〉とヴァーエイルは魔族と立ち向かうための要だ。来るべき日のために継承していく必要があった。子や孫、さらに先の子孫へと。だが……私は子を成すつもりはなかった」
「どうして?」
アーチ問いにドルクは急に口をつぐんでしまった。するとデフトンがどこか遠くを見つめて「構わん」とだけ言った。
ドルクが覚悟を決めた顔で告げる。
「私が生涯愛する女性は──アンジェルただひとりと決めていたのだ」
「あっ」
戦いの中で特別な絆が生まれることは何もおかしなことではない。父と母だって争いのさ中で出会い想いを育んだに違いないのだから。しかし父がそうであったように、ドルクもまた母のことを想っていたのだ。そしてアンジェルが選んだ相手はデフトンだった、ということになる。
想いが必ず相互のものになるとは限らない。かつての英雄たちの複雑な人間模様が垣間見えた。
「三角関係ってやつだ」
ロウルの空気を弁えない発言に、アーチは「バカッ!」と肘で朴念仁の脇腹を突いた。
デフトンが居心地が悪そうに髭を掻きながら話を続ける。
「ともかく、俺が代わりに〈符律句〉を継承していく役目を授かった。お前に〈符律句〉を教えたのは、そういうわけだ」
「でもそれならなんで何も話してくれなかったの? 〈符律句〉だけ教わっても、それが何かわからなかったら意味ないじゃん」
娘のもっともらしい指摘にデフトンは下を向いて苦しそうに告げた。
「……迷って、いたのだろうな。〈符律句〉も剣術も、娘を戦場に送り出すための準備をしていることに気付いてしまったのだ。お前やお前の子や孫はいつか戦いの場に赴く運命にあるのだと説明することが、どうしてもできなかった」
語るデフトンは父親の顔になっていた。これまで過去を語らなかったのも、すべては娘を想うこその沈黙だった。その一方で戦う術を稽古と称して教え込む矛盾。使命と親心の葛藤が長い間デフトンを苛んできたのだ。
しだいに濃くなっていく夕日の黄昏色と相まって、父の顔には深い哀愁が浮かんでいた。
「お父さん……」
「アーチくん、きみの戸惑いもわかる。デフトンの迷いも無理もないことだ。だからこそ私は再び剣を取る決意をしたのだ。しかしヴァーエイルが私を拒絶しきみを選んだ以上、非道なことを言わなければならない。どうか私の代わりに……魔族の復活を阻止してくれ」
「あたしが」
それはアーチが世界の、人族の命運を握ることになる。命の危険もある。田舎の村娘にはあまりに大きすぎる重責。
沈黙が下り、波音がやけに大きく聞こえた。
「……いや、さすがに身勝手すぎる頼みか。やはり聖剣を使えずとも私が」
ドルクの言葉を遮り、アーチが唐突に立ち上がった。
海を眺めながら大きく伸びをする。
「例えばさ、道に誰かの落し物が落ちてるとするじゃん?」
脈絡もなく語り出すアーチ。デフトンが「アーチ何を」と問いかけようとするのを、ロウルが手で制した。
「最初はほかの誰かが拾って持ち主に届けてくれるっしょって思って素通りするんだけど、でもすぐ戻って拾っちゃうんだよね。どうせあとになって『あの落とし物どうなったかなー』とか『やっぱあたしが拾ってあげればよかったかなー』って気になっちゃうって自分でわかってるから。あたしは……自分にできたはずなのにやらなかったことを後悔するのが嫌なんだ」
翡翠色の目は夕日に染まりゆく海を見ている。
その目は海よりも、空よりも、さらに遥か遠くにいる誰かに向けられていた。
「上手く言えないけど、たぶん『あたしにできること』が『あたしのやるべきこと』なんだと思う。だからさ──」
アーチはくるりと振り返り、海を背にして告げる。
「あたし、やるよ!」




