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第4話 森で出会った冒険者たち


 ※本文中の「◇◇◇」は場面転換、「◆◆◆」は視点転換を表しています。


 ---------------------------------------


 ガルドさんたちと一緒に歩き出して、最初に分かったことがある。

 誰かと一緒に歩くのは、一人で歩くより少し難しい。

 一人なら、自分の足の速さだけを考えればよかった。木の根を避けるのも、ぬかるんだ土を踏まないようにするのも、枝に服を引っかけないようにするのも、全部自分の都合で決められる。

 でも、今は違う。

 前を歩くガルドさんは、大きな盾と荷物を背負っているのに足取りが重くない。地面の柔らかい場所を避け、折れた枝を踏まず、周りを見ながら進んでいる。

 その少し後ろで、ミナさんが弓を手にしたまま歩いていた。弓を下ろしているように見えて、指はすぐ矢を取れる位置にある。時々こちらを振り返って、私の歩幅も見てくれていた。

 セイルさんは最後尾で、杖を片手に森の奥を気にしている。さっきの戦いで一番疲れているように見えたけれど、後ろを見る役をちゃんとしていた。

 私は三人の歩く速さに合わせようとして、少しだけ足を止めたり、また少しだけ早く歩いたりした。

 すると、ミナさんが振り返って、柔らかく笑った。


「ヒストリアちゃん、もしかして、私たちに歩幅を合わせようとしてる?」

「はい。合っていませんか?」

「ううん、ちゃんと合わせようとしてくれてるのは分かるわ。ただ、無理に足を止めたり進めたりしなくても大丈夫。少しずつ慣れればいいの」

「慣れれば……」

「そう。誰かと歩くのも、たぶん練習よ」


 ミナさんの言い方は、少しお姉さんみたいだった。

 私は頷いて、もう一度三人の歩き方を見た。ガルドさんは前を見て、ミナさんは横と上を見て、セイルさんは後ろを見る。三人で一つの目みたいに、森を見ている。

 さっきの戦い方もそうだった。一人ひとりが別々に動いているのに、全部がつながっている。

 私はそれが少し不思議だった。


「冒険者さんは、いつもそうやって歩くんですか?」


 私が聞くと、ガルドさんが前を見たまま答えた。


「森の中ならな。特に魔物と戦った後は、血の匂いや音で別の魔物が寄ってくることがある。気を抜くと、帰り道でやられる」

「帰り道でも、危ないんですね」

「ああ。討伐した後が一番危ない、なんてことも珍しくない。疲れてるし、荷物は増えてるし、気が緩むからな」


 ガルドさんの背中には、さっき回収したロックボアの牙と魔石が入った袋が結ばれていた。持ち帰れる分の肉も、布に包まれている。ミナさんは皮も持ち帰りたがっていたけれど、荷物になるので置いてきた。

 私はその袋を見ながら、首を傾げた。


「その素材は、ガルドさんたちのものになるんですか?」

「ああ……いや、今回は少し違うな」


 ガルドさんは少し考えるように足を緩めた。


「ロックボアを止めたのはヒストリアだ。俺たちは仕留めと最低限の解体をしたが、討伐への貢献で言えば君が一番大きい。だから、ギルドで換金したら取り分を渡す」

「取り分?」

「報酬の分け前よ」


 ミナさんが横から説明してくれた。


「冒険者は、依頼で決まっている報酬のほかに、魔物の素材を売ったお金も分けるの。誰がどれくらい危険を負ったか、誰がどれくらい働いたかで相談する感じね」

「でも、私は冒険者ではありません」

「登録してなくても、助けた事実は変わらないわ。もちろん、細かい決まりは町やギルドによって違うけど、少なくとも私たちは全部自分たちのものにするつもりはないわよ」


 ミナさんはそう言って、少しだけ目を細めた。


「それをやったら、ただの恩知らずになっちゃうもの」

「恩知らず……」


 私は少しだけ考えた。

 お金は、家を出る前に用意してもらっている。だから、今すぐ困っているわけではない。けれど、外では働いたら報酬を受け取るものだと教わった。断りすぎるのも失礼だと、たしか聞いていた。


「では、受け取った方がいいんですね」

「うん。そうしてくれると、こっちも助かるわ」


 ミナさんは嬉しそうに笑った。

 セイルさんが後ろから少しだけ身を乗り出す。


「というか、ロックボアを木剣で気絶させた子に報酬渡さなかったら、俺たちが怖いよ」

「怖い、ですか?」

「いや、ヒストリアが怖いっていうか、世の中の決まり的に怖いっていうか……」

「セイル。説明が下手」

「分かってるよ、ミナ」


 二人のやり取りを聞いて、ガルドさんが小さく笑った。

 私は少し首を傾げたけれど、三人の空気が柔らかくなったのは分かった。さっきまで戦っていた人たちなのに、こうして話していると、普通の人みたいに見える。

 たぶん、冒険者もずっと戦っているわけではないのだ。



◇◇◇



 しばらく歩くと、森の中に細い道が見えてきた。

 人が何度も通ったのだと思う。土が踏み固められていて、木の枝も少し払われている。さっきまでの獣道みたいな場所より歩きやすい。

 ガルドさんはそこで一度立ち止まり、周囲を確認した。


「ここまで来れば、少しは安全だ。もちろん油断はできないがな」

「町までは、あとどれくらいですか?」

「この足なら、夕方前には着く。リーヴェルの町だ」

「リーヴェル……」


 私は初めて聞く町の名前を、口の中で小さく繰り返した。

 人間の町へ入ること自体が、初めてというわけではない。まだ小さかった頃、お母さんと一緒に何度か町を歩いた記憶がある。

 けど、それはもう百年近く前のことだ。

 覚えているのは、つないだ手の温かさや、たくさんの人の声、買ってもらった甘いものの味くらいで、町のことはほとんど思い出せない。

 それに、リーヴェルという町も、この領地も初めてだった。

 昔見た町と似ているのか。それとも、全く違う場所なのか。

 そんなことを考えていると、ガルドさんが私を見た。


「そういえば、ヒストリアは町に入ったことはあるのか?」

「ありません」

「一度も?」

「はい。たぶん」

「たぶんって……」


 セイルさんが小さく呟いた。

 ミナさんは少し驚いた顔をしたあと、すぐに優しく言った。


「じゃあ、門で慌てないように軽く説明しておくね。旅をしている人は、だいたいギルド証を持っているの。冒険者ギルドでも、商業ギルドでも、職人ギルドでも、薬師ギルドでもいいわ。町に入る時や宿を取る時は、それがあると話が早いの」

「ギルド証は、持っていません」

「そうなの?」

「はい。でも、身元を保証する書類ならあります」


 私は鞄から封筒を取り出した。

 厚手の紙でできた封筒には、淡い銀色の線で梟の印が描かれている。派手ではないけれど、角度を変えると羽の部分がわずかに光った。中には、折りたたまれた身元保証書が入っている。

 ギルド証ではない。けれど、家を出る前に、門や公的な場所ではこれを見せればいいと教わっていた。


「見てもいいか?」


 ガルドさんが手を出しかけて、すぐに止めた。

 私は頷いて、保証書を渡す。


「はい」


 ガルドさんは慎重にそれを受け取った。封を開くと、紙面の端に刻まれた銀色の梟が一瞬だけ淡く光った。そこから細い紋様が広がり、保証人の名前の横で静かに止まる。

 ミナさんも横から覗き込み、セイルさんは背伸びをして見ようとして、ミナさんに少し押し返されていた。

 ガルドさんの眉が、少しだけ動いた。


「…………身元保証書か」

「はい」

「メルディア・オルフェン……」


 ガルドさんは保証人の名前を小さく読み上げた。

 ミナさんが目を瞬かせる。


「メルディアって、銀梟商会の!?」

「……たぶん、そのメルディアだ。確か銀梟商会の筆頭保証人兼、契約顧問だったはずだ。商業ギルド絡みで名前を聞いたことがある」

「そんなに有名なんですか?」


 私が聞くと、ガルドさんは少しだけ困った顔をした。


「少なくとも、俺みたいな冒険者でも名前を聞いたことがあるくらいにはな。」

「そうなんですね」


 勿論、知っていたわけではない。

 オフィーリアママが外では別の名前で活動していることは聞いていたけれど、その名前がどれくらい有名なのかまでは、よく分かっていなかった。

 ガルドさんは、保証書の下に浮かぶ細い紋様を見た。


「魔力紋もある。銀梟の魔力印も反応している。偽造には見えない。むしろ、かなり丁寧な保証書だ」

「使えませんか?」

「いや、使える。門で止められることはまずないと思う。ただ……」

「ただ?」

「いや、何でもない」


 ガルドさんはそう言って、身元保証書を私に返してくれた。

 何でもないと言いながら、何でもなくない顔をしていた。けれど、聞いていいのか分からなかったので、私は保証書を封筒に戻した。

 ミナさんが、さりげなく話を変える。


「町に入ったら、まずはギルドに行く予定よ。ロックボアの素材も売らないといけないし、森で何があったか報告もしないといけないから」

「ギルドは、冒険者さんが集まる場所ですよね」

「そう。依頼を受けたり、素材を売ったり、情報を交換したりする場所。登録すれば、ヒストリアちゃんも冒険者になれるわ」

「私も、なれるんですか?」

「登録できればね。もちろん、最初は低いランクからだけど」


 ランク。さっき三人が名乗った時にも聞いた言葉だ。ガルドさんはBランク。ミナさんとセイルさんはC+ランク。


「ランクは、どのくらいあるんですか?」


 私が聞くと、セイルさんが少し嬉しそうに杖を持ち直した。


「下からF、E、D、C、B、A、Sって感じだな。細かく分けるところだと、C+みたいにプラスがつくこともある」

「Fが一番下で、Sが一番上ですか?」

「そう。Fは見習い。Eは簡単な採取や雑用。Dになると小型の魔物相手も増えて、Cなら一般的な冒険者って感じ。Bは町ではけっこう頼られる。Aは一流。Sは……まあ、別格だな」

「別格」

「国が動くような依頼に呼ばれることもある。普通の町だと、Sランク冒険者を近くで見る機会なんてほとんどないよ」


 セイルさんの声には、少し憧れが混じっていた。

 Sランク。家での訓練でも聞いたことはある。普通の冒険者の中では、とても強い人たち。国が頼るくらいの力を持つ人たち。

 でも、パパやママたちは、Sランクよりもっと上の場所にいる。

 そう思いかけて、私は口を閉じた。外では、自分の基準をそのまま言わない方がいい。さっき少し学んだばかりだ。

 ミナさんが私の顔を見て、少しだけ目を細める。


「ヒストリアちゃん、今、何か言いかけた?」

「いえ。大丈夫です」

「本当に?」

「はい。たぶん」

「たぶんなんだ」


 ミナさんはくすっと笑った。

 私は少しだけ視線を逸らした。

 ガルドさんが歩きながら言う。


「ちなみに、さっきのロックボアは普通ならBランク相当だ。個体差や状況次第ではB+扱いになることもある」

「Bランク……」

「ああ。だから、俺たち三人でも油断できなかった。正面から受け続ければ盾も腕も保たないし、セイルを狙われたら崩れる」

「でも、動きは見えていました」


 言ってから、私はしまったと思った。

 三人の足が一瞬止まる。

 セイルさんがゆっくりこちらを見た。


「……見えてた?」

「はい」

「ロックボアの突進が?」

「はい。速いとは思いました。でも、見失うほどではありませんでした」


 セイルさんの顔が、少しだけ引きつった。ガルドさんは無言で私を見ている。ミナさんは額に指を当てて、小さく息を吐いた。


「ヒストリアちゃん」

「はい」

「それ、普通の人の前ではあまり言わない方がいいかも」

「そうなんですか?」

「うん。ロックボアの突進がちゃんと見える子は、あまり普通じゃないの」

「……分かりました。気をつけます」


 私は真面目に頷いた。

 普通じゃない。それは、少し困る言葉だった。私は外の普通を知らない。だから、自分がどこで普通ではないのか分からない。魔力を出しすぎてはいけないことは教わった。竜を撫でてはいけないことも教わった。でも、魔物の動きが見えることまで、言わない方がいいとは思っていなかった。

 ミナさんは私の顔を見て、少し声を柔らかくした。


「怒ってるわけじゃないの。ただ、世の中には、自分より強すぎるものを怖がる人もいるから」

「怖がらせない方がいい、ということですか?」

「そうね。それに、変な人に目をつけられることもあるわ」

「変な人」

「自分の利益のために、強い子を利用しようとする人」


 ミナさんの言葉に、ガルドさんが少しだけ目を細めた。セイルさんも黙った。

 私はその空気の変化に気づいたけれど、理由はまだ分からなかった。

 外には、魔物だけではなく、人にも気をつけなければいけない。そう教わっていたことを、私はもう一度思い出した。



◇◇◇



 道は少しずつ広くなっていった。

 木々の隙間から差し込む光も増え、空が見える場所も多くなる。森の匂いに混じって、遠くから煙の匂いがした。焚き火とは少し違う。もっとたくさんの家で、たくさんの火が使われているような匂いだった。

 私は鼻を小さく動かした。


「匂いが変わりました」

「町が近いからな」


 ガルドさんが言った。


「人が多い場所は、匂いも音も増える。最初は少し疲れるかもしれない」

「音も、増えるんですか?」

「ああ。馬車、商人、鍛冶屋、子ども、呼び込み、犬、鐘。森とは違ううるささだ」

「うるさい場所なんですね」

「まあ、悪い意味ばかりじゃないわ」


 ミナさんが笑う。


「賑やか、とも言うの。市場には食べ物もあるし、綺麗な布や道具も売ってる。初めてなら、きっと見るものが多くて大変よ」

「市場……」


 家で練習した買い物ごっこを思い出した。あの時は、パンを買う練習をした。値段を聞いて、お金を出して、お釣りを受け取る。ちゃんとできたと思う。たぶん。

 でも、あれは知っている人が相手だった。本物の町では、相手は知らない人だ。

 私は鞄の紐を握り直した。


「町に入る時は、魔力を抑えればいいんですよね」


 三人が、また足を止めた。

 セイルさんが、今度ははっきり困った顔をする。


「普通の人は、町に入る時にそんな確認しないよ」

「そうなんですか?」

「うん。少なくとも俺はしたことない」

「でも、魔力を出しすぎると、周りの人が驚くと教わりました」

「それは……間違ってないけど、前提がちょっとおかしいというか」


 セイルさんが言葉を探していると、ミナさんが笑いをこらえるように口元を押さえた。


「でも、確認するだけ偉いわ。ヒストリアちゃんは、ちゃんと気をつけようとしてるもの」

「はい。気をつけます」

「うん。とりあえず、町では大きな魔法を使わない。人を睨みながら魔力を出さない。値段交渉で魔力を出さない。これだけ守れば大丈夫」

「値段交渉で魔力は出しません」

「偉い偉い」


 ミナさんが冗談みたいに言って、私は少しだけ頬を膨らませた。ガルドさんは肩を揺らして笑っている。セイルさんも、少しだけ安心したように息を吐いた。


「いや、でも大事だよ。町中で魔力圧を出すと、下手したら騒ぎになるから」

「騒ぎ」

「衛兵が来る。ギルドにも連絡が行く。場合によっては事情聴取」

「それは、困ります」

「なら、出さない方がいい」

「はい」


 私はしっかり頷いた。

 町に入る前から、覚えることが多い。人間の町は、魔物の森より難しいかもしれない。

 そう思っていると、ガルドさんがふと森の奥へ視線を向けた。


「……それにしても、やっぱり変だな」

「何がですか?」

「ロックボアだ。あの大きさの個体が、あの辺りまで出るのは珍しい」


 ガルドさんの声は、さっきまでより少し低かった。ミナさんも真面目な顔になる。


「奥の縄張りが荒れてるのかしら」

「可能性はある。何かに追われて浅い場所へ出てきたか、餌場を奪われたか」


 セイルさんが杖を握り直す。


「最近、採取依頼の場所が少しずつ浅くなってるって、ギルドでも話が出てたよな」

「ああ。報告は上がっているはずだ」

「上がっているはず、ね」


 ミナさんの声に、少しだけ引っかかるものがあった。

 私は三人を見た。


「ギルドに報告しても、すぐには動かないこともあるんですか?」

「あるわ。報告が多すぎたり、重要度が低いと判断されたり、調査に人を回せなかったり。もちろん、ちゃんと処理されるのが一番なんだけどね」


 ミナさんはそう言ったあと、少しだけ困ったように笑った。


「リーヴェルのギルドは、最近ちょっと忙しそうだから」

「忙しい」

「受付の子たちがね、いつも大変そうなの。特に一人、かなり仕事を抱えてる子がいて……」

「ミナ」


 ガルドさんが短く呼ぶと、ミナさんは口を閉じた。

 私はその様子を見て、首を傾げた。受付の子。仕事を抱えている子。それは、まだ私の知らない誰かだ。

 ミナさんは少し迷ったように私を見て、それから柔らかく笑った。


「ごめんね。町に着けば、たぶん会うと思うわ」

「はい」


 私は頷いた。今の話が何を意味しているのかは分からない。でも、ミナさんの顔は、さっきロックボアの素材の話をしていた時とは違っていた。少し心配している顔だった。

 外の人は、魔物だけではなく、仕事でも大変になるらしい。私はそれを、なんとなく覚えておこうと思った。


「森のことは、町に戻ったら俺からギルドに報告する」


 ガルドさんが言った。


「ロックボアの出現位置、個体の大きさ、戦闘の状況。全部な」

「私のことも、報告しますか?」


 私が聞くと、三人は少し黙った。ガルドさんが顎に手を当てる。


「……難しいところだな」

「難しい?」

「君に助けられたのは事実だ。だが、ありのままに報告しても、混乱を招くだけだ」

「混乱…………。」

「木剣でロックボアの突進を逸らし、気絶させた旅の少女。そんな報告、普通は冗談だと思われる」

「冗談ではありません」

「分かってる。だから困ってる」


 ガルドさんは真面目な顔でそう言った。

 ミナさんが考えるように指を唇へ当てる。


「報告には、通りかかった旅人の助力あり、くらいでいいんじゃない? 詳しいことは、必要になったら説明すればいいわ」

「だな。ヒストリア、君もそれでいいか?」

「はい。あまり目立たない方がいいと教わりました」

「それを教えた人は、かなりまともだな」


 ガルドさんが言う。

 私は、身元保証書を用意してくれた人の顔を思い浮かべた。かなりまとも。たぶん、合っている。少し過保護だけど。


「はい。とても、しっかりした方です」

「保証書にあった、メルディア・オルフェンという人か?」

「……はい。私の身元を保証してくださっている方です」


 私は少しだけ言葉を選んだ。本当の呼び方を、そのまま外で出してはいけない。そう教わっていたからだ。

 ガルドさんはそれ以上、深く聞かなかった。ミナさんも、何かに気づいたように柔らかく笑う。


「大切な人なのね」

「はい。とても」


 それだけなら、たぶん大丈夫だと思った。



◇◇◇



 森の出口は、思っていたより急に現れた。

 木々の密度が薄くなったと思った次の瞬間、視界が開けた。

 私は思わず足を止めた。

 森の向こうに、広い道があった。土を固めた道の上を、荷馬車がゆっくり進んでいる。馬車の後ろには木箱が積まれていて、その横を人が何人か歩いていた。

 さらに遠くには、石の壁が見えた。高い壁だった。古龍の巣窟の門ほどではない。パパの本来の姿と比べたら、とても小さい。けれど、人が作ったものだと思うと、十分に大きかった。

 壁の上には見張り台があり、旗が揺れている。門の前には列ができていて、商人らしい人や旅人らしい人たちが順番を待っていた。

 その向こうから、たくさんの音が聞こえてくる。車輪の音。人の声。遠くで鳴る鐘。何かを叩く金属音。子どもが笑う声。犬の鳴き声。

 森の音とは全然違う。

 私は鞄の紐を、ぎゅっと握った。


「あれが……」

「ああ。リーヴェルだ」


 ガルドさんが言った。

 ミナさんが私の隣に立つ。


「初めての町は、少し緊張する?」

「はい。少し」

「大丈夫。最初は私たちと一緒に行きましょう。門で困ったら、私が説明してあげる」

「ありがとうございます、ミナさん」

「どういたしまして」


 ミナさんは、お姉さんみたいに笑った。

 セイルさんが後ろで小さく伸びをする。


「やっと帰ってきた……。今日はもう、温かいもの食べたい」

「その前にギルドで報告だ」

「分かってるよ、ガルド」


 ガルドさんとセイルさんの会話を聞きながら、私はもう一度町を見た。あそこには、私の知らないものがたくさんある。お金の使い方。冒険者ギルド。素材の売り方。ランク。依頼。門の通り方。市場。人の多い場所での魔力の抑え方。

 それから、ミナさんが少し心配そうに話していた受付の子。私はまだ、その人の名前も知らない。けれど、なぜか少し気になった。

 町の壁の向こうで、鐘の音がもう一度鳴る。

 私は胸元の首飾りにそっと触れてから、一歩前へ出た。

 そこが、私が旅に出てから初めて入る人間の町だった。

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