表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第3話 箱入り魔女、はじめての一人旅


 ※本文中の「◇◇◇」は場面転換、「◆◆◆」は視点転換を表しています。


 ---------------------------------------


 改めて見ると巣窟の外は、中よりもずっと広く感じる。

 外にある門を出てすぐの場所には、長い石の道があった。たぶん、みんなが使うための道だと思う。でも、少し歩くと石はだんだん土に埋もれていき、代わりに柔らかい草や、小さな花や、名前の分からない葉っぱが増えていった。

 私は何度も後ろを振り返った。

 大きな門は、まだ見えていた。その奥に見える巣窟の入口は山の一部みたいに大きくて、遠くからでもすぐに分かりそうだ。けれど、少し歩くたびに、門は少しずつ小さくなり、門越しでしか見えなかった巣窟の入口は、次第に小さな点へと変わって見えた。

 それが、少し不思議だった。

 振り返れば、ちゃんとある。帰ろうと思えば、きっと帰れる。なのに、前へ歩くたびに、今までの当たり前から少しずつ離れている気がした。

 私は指にはめたパパの指輪に、そっと触れた。


「大丈夫……。」


 誰かに聞かせるためではなく、自分に言うために小さく呟いた。

 首元では、セレスティアママの首飾りが服の内側でほんのり温かい。腰の鞄には、オフィーリアママが用意してくれた財布と身分証。シズクママにもらった短い木剣は、腰のベルトに差してある。

 大きな荷物のほとんどは、見えない場所にしまった。

 本当なら、何も持たずに歩くこともできる。けど、オフィーリアママに「外では、何も持っていない旅人の方が不自然です」って言われたから、普通の旅人が持っていそうな小さな鞄だけを肩にかけていた。

 中に入っているのも、最低限のものだけだ。少しのお金、身分を示すための札、干し肉とパン、小さな水筒、簡単な布、植物の絵本。

 ルベリアママが持たせようとしていた岩山三つは、ちゃんと置いてきた。最後まで「持てるだろう?」って言われたけれど、オフィーリアママが「持てるかどうかの問題ではありません」と止めてくれた。

 

 私は歩きながら、足元の草を見た。

 巣窟の中にも植物はあった。魔力を含んだ薬草や、水晶の光で育つ花や、セレスティアママが大切にしている白い木もある。けれど、外の草はそれとは違っていた。形が少し不揃いで、背の高さもばらばらで、風が吹くたびに勝手に揺れる。

 誰かが整えたわけではないのに、ちゃんとそこにある。

 それが、少しだけすごいと思った。

 私はしゃがんで葉っぱに触れてみた。指先に朝露がついて、ひんやりした。思わず指を引っ込めてから、もう一度そっと触る。


「冷たい」


 葉っぱは何も答えない。

 でも、私は少し笑った。

 外の世界で最初に話しかけた相手が草なのは、もしかしたら少し変かもしれない。でも、誰も見ていないから大丈夫だと思う。

 そう思った瞬間、ふと、ママたちの見守り水晶のことを思い出した。

 私はゆっくりと顔を上げた。


「……見えてないですよね?」


 空に向かって小さく聞いてみる。

 もちろん、返事はない。

 ないけれど、どこかでルベリアママが口笛を吹いて、セレスティアママが微笑んで、オフィーリアママが目を逸らして、シズクママが黙っている気がした。

 私は少しだけ頬を膨らませてから、また歩き出した。


 

◇◇◇


 

 外の昼は、巣窟の中よりずっと明るかった。

 水晶の光も綺麗だけれど、太陽の光はそれとは違う。目に入るものが全部はっきりしていて、木の葉の影まで地面に映る。私はその影を踏まないように歩いてみたけれど、すぐに影だらけになって諦めた。

 しばらく歩いていると、道の横の茂みがかさりと揺れた。

 私は足を止めた。 茂みの中から、小さな丸い生き物が顔を出す。耳が長くて、体はふわふわしていて、黒い目でこちらをじっと見ていた。巣窟にも小さな魔物はいたけれど、この子は見たことがない。


「こんにちは」


 私はしゃがんで、できるだけ優しい声で挨拶した。

 小さな生き物は、耳をぴくっと動かした。


「私はヒストリアです。あなたは、えっと……お名前ありますか?」


 もちろん返事はない。

 でも、逃げない。

 私は少しだけ手を伸ばした。ふわふわしていそうだったから、撫でてみたかった。けれど、指先が近づいた瞬間、小さな生き物は口を開けた。

 口の中には、思っていたより鋭い牙が並んでいた。


「わっ!?」


 思わず声が出た。

 噛まれる——そう思った時には、体が勝手に動いていた。私は手を引き、少しだけ横へ避ける。小さな生き物の牙は空を噛み、かちんと小さな音を立てた。

 私はその場にしゃがんだまま、しばらく固まった。

 小さな生き物は、もう一度耳をぴくっと動かしてから、茂みの中へ走っていった。ふわふわした背中が草の中に消える。

 私は伸ばしかけた手を見た。


「外だと、可愛い子も噛むんだ……」


 たぶん、オフィーリアママに言ったら「だから不用意に触ってはいけないと言いました」って言われるだろう。シズクママなら「避けられた。良い」と言うかもしれない。ルベリアママなら「噛まれる前に捕まえればいい」と言いそうだし、セレスティアママなら、あの子が私に近づけないよう結界を張るかもしれない。

 私は手を胸元に戻した。

 撫でられなかったのは少し残念だったけれど、噛まれなかったからよかった。小さいから安全とは限らない。可愛いから優しいとも限らない。

 外の世界は、見た目だけでは分からないことが多いらしい。

 私はそのことを忘れないように、鞄の紐をぎゅっと握った。

 それから少し歩いたところで、木の実を見つけた。

 赤くて丸くて、とても美味しそうだった。枝からいくつもぶら下がっていて、陽の光を受けてつやつやしている。お腹が空いていたわけではないけれど、外で初めて見つけた食べ物かもしれないと思うと、少し気になった。

 私は木の実に手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「知らないものは、すぐ食べない」


 オフィーリアママの教えを思い出す。

 毒があるかもしれない。見た目が美味しそうでも、食べたらお腹が痛くなるかもしれない。私には効かない毒でも、効かないから食べていいわけではない。

 私は鞄から小さな本を取り出した。オフィーリアママが持たせてくれた、外で見つけやすい植物の絵本だ。ページをめくりながら、目の前の木の実と似ているものを探す。

 赤くて、丸くて、葉っぱの形がこうで、枝の色が少し黒い。


 (…………あった!)


 説明のところに、小さな文字で「食べられない」と書いてあった。

 私はそっと本を閉じた。


「危なかった…………」


 木の実は、何も知らない顔で枝に揺れている。美味しそうなのに食べられないなんて、少しずるいと思った。

 でも、見た目だけで決めなかったのは、たぶん良いことだ。

 私は少しだけ胸を張って、また歩き始めた。


 

◇◇◇


 

 初めての夜は、思っていたよりも暗かった。

 巣窟の夜は、完全な暗闇ではない。水晶が柔らかく光っているし、廊下の奥にはいつも誰かの気配がある。パパの部屋から光が漏れていることもあったし、ルベリアママが夜中に訓練場へ行く足音が聞こえることもあった。

 でも、外の夜は違う。 森の中は本当に暗くて、木々の間に何かがいるように見える。風が吹くと葉がこすれ、その音だけで誰かが近づいてきたような気がした。遠くで鳥のような声がしたかと思うと、今度はもっと低い、獣の唸り声みたいなものが聞こえる。

 私は雨を防げそうな大木を見つけて、その下で野宿することにした。


「まず、火を……」


 火は出せる。

 出せるけれど、普通に出すとたぶん大きくなりすぎる。私は両手を前に出して、できるだけ小さく、できるだけ弱くと考えながら魔力を集めた。

 指先に小さな火が灯る。


「できた」


 思わず嬉しくなった。

 けれど、その火は次の瞬間、ぼんっと音を立てて私の背丈くらいまで大きくなった。


「わっ、違う、違う!」


 慌てて魔力を引っ込めると、火はすぐに小さくなった。


(周りの草には燃え移ってない…………よかった……。)


 私は胸を撫で下ろして、今度はもっと慎重に調整した。

 小さな焚き火ができるまで、思っていたより時間がかかった。

 焚き火の前に座ると、少しだけ安心した。火の光があるだけで、森の暗さが少し遠くなる。鞄からパンと干し肉を取り出して、少しずつ食べた。

 外で食べるご飯は、巣窟の食堂で食べるものよりずっと簡単だった。

 ルベリアママが皿に山ほど肉を乗せてくれることもないし、セレスティアママがスープをちょうど良い温度にしてくれることもない。シズクママが黙って野菜を追加することも、オフィーリアママが予定表を広げることも、パパが静かにお茶を飲んでいることもない。

 それなのに、パンを少しずつ食べていると、胸の奥がじんわりした。


「ちゃんと食べてますよ」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 食べ終わったあと、私はセレスティアママの首飾りに触れた。温かい。危険はないということだと思う。…………たぶん。

 それでも念のため、寝る前に小さな結界を張ることにした。

 小さく。本当に小さく。私一人が入るくらい。

 そう思いながら術式を組むと、淡い光の膜が周辺を包んだ。木の幹をいくつか巻き込み、少し遠くの岩まで入っている。


「……少し、大きいかな」


 でも、森全部を包んでいるわけではない。町一つ入るほどでもない。だから、たぶん大丈夫だと思う。

 私は外套にくるまり、焚き火の近くに横になった。

 地面は少し硬かった。寝返りを打つと、小さな石が背中に当たる。巣窟のベッドがどれだけ柔らかかったのか、今になって分かった。

 目を閉じる。

 葉の音、火の音、遠くの獣の声。知らない音がたくさんする。怖くないと言えば嘘になる。でも、全部が嫌な音ではなかった。

 外の夜は、静かなのに賑やかだ。

 私はそう思いながら、少しずつ眠りに落ちていった。


 

◇◇◇


 

 二日目の朝、目を覚ますと、結界の外に魔物が三匹座っていた。


「……おはよう」


 私は寝ぼけたまま挨拶した。

 魔物たちは返事をしなかった。大きさは私の腰くらいまでで、体は黒い毛に覆われている。目が赤く、牙が少し見えていた。たぶん、普通の人が見たら怖いと思う。

 でも、三匹とも結界の外でじっとしていた。

 近づこうとして、結界に触れて、弾かれて、諦めたのかもしれない。よく見ると、一匹は前足で結界をぺしぺし叩いていた。あまり強く叩いていないので、ちょっとだけ可愛く見える。

 私は起き上がり、結界の内側から魔物たちを見た。


「入れないよ?」


 魔物は赤い目でこちらを見ている。

 私は少し考えてから、鞄の中の干し肉を見た。

 あげていいのだろうか。

 でも、餌をあげたらついてくるかもしれない。オフィーリアママなら、野生の魔物に不用意に餌を与えてはいけませんと言う気がする。シズクママも、距離を保てと言うと思う。

 私は干し肉をしまった。


「ごめんね。これは私の朝ご飯」


 そう言うと、一匹が低く唸った。

 私は少しだけ手を振った。


「危ないから、離れて」


 言葉が通じるかは分からない。でも、私が立ち上がって結界を解く準備をすると、魔物たちはびくっと体を震わせた。私の魔力が少し漏れたのかもしれない。

 三匹は、慌てたように森の奥へ走っていった。ふわふわとした背中が草の中に消える。

 私はその後ろ姿を見送りながら、首を傾げた。


「そんなに怖かったのかな…………」


 少しだけ寂しい。

 でも、外ではこれが普通なのかもしれない。魔物は危険で、人は距離を取る。竜を撫でてはいけないのと、少し似ている。

 私は朝ご飯を食べて、火を消して、荷物をまとめた。最後に、結界の跡が残っていないか確認する。地面に淡い光の線が少しだけ残っていたので、指先でなぞるようにして消した。


「よし」


 たぶん、ちゃんとできた。

 私はまた歩き出した。

 二日目は、一日目より少しだけ歩きやすかった。道が下りになっていて、木々の隙間から遠くの平地が見える場所もあった。巣窟のある山は高い。そこから下りていくと、空が広くなっていくような気がした。

 昼頃、小さな川を見つけた。

 水が澄んでいて、底の石まで見える。私は川辺にしゃがみ、手を入れてみた。冷たくて、気持ちいい。水をすくって顔を洗うと、眠気が少し取れた。

 その時、水面に映った自分の顔が見えた。

 いつもと同じ顔のはずなのに、少しだけ違って見えた。髪に葉っぱがついているし、服の裾には土がついている。巣窟にいた時なら、セレスティアママがすぐ整えてくれただろうし、オフィーリアママが服の汚れを見て眉をひそめたかもしれない。

 私は髪についた葉っぱを取って、指先で少しだけ髪を整えた。


「これくらいなら、大丈夫だよね」


 水面の私に聞いてみる。

 水面の私は、少し不安そうな顔をしていた。

 私は頬を軽く叩いた。


「大丈夫」


 水面の私も、同じように頬を叩いた。

 少しだけおかしくなって、私は笑った。


 

◇◇◇



 三日目になると、森の空気が少し変わった。

 木々の間隔が広くなり、道らしいものも見えてきた。草が踏まれている場所があり、古い車輪の跡のようなものも残っている。たぶん、人が使う道に近づいているのだと思う。

 私は少し緊張した。もうすぐ、人に会うかもしれない。

 そう思うと、オフィーリアママの講義が頭の中で何度も流れた。初対面では丁寧に挨拶をすること。知らない人についていかないこと。値段が分からない時は聞くこと。貴族らしき人に絡まれた時は、まず相手を刺激しないこと。失礼なことを言われても、軽めに魔力を出してはいけないこと。

 最後のは、特にたくさん言われた。

 私は胸元の首飾りに軽く触れて、深呼吸した。


「大丈夫。魔力は出てない……」


 そう呟いた直後、遠くで何かが爆ぜるような音がした。

 私は足を止めた。鳥が一斉に飛び立つ。森の奥から、獣の唸り声と、人の声が聞こえた。風に混じって、焦げた匂いも流れてくる。

 誰かがいる。しかも、たぶん困っている。

 私は音のした方へ顔を向けた。木々の間の向こう、少し低くなった場所から、魔力の揺れが伝わってくる。巣窟で感じるパパやママたちの魔力とは全然違う。もっと小さくて、不安定で、でも必死に何かを押し返そうとしている感じがした。

 魔物の魔力は、私から見れば大きくはなかった。少なくとも、パパやママたちとの訓練で感じる圧とは比べものにならない。けれど、その場にいる人たちにとって危険なものだということは、声を聞けば分かった。

 私は行った方がいいのか、一瞬迷った。

 

 ——知らない人についていってはいけない。危ないものに不用意に近づいてはいけない。困ったら逃げろ。勝てると思っても戦うな。

 

 たくさん教わった言葉が、頭の中で重なる。

 でも、今聞こえている声は、知らない人が私を呼んでいる声ではない。誰かが困っている音だ。

 私は腰のベルトに差していた木剣に触れた。

 シズクママの声を思い出す。

 

 ——見る。避ける。離れる。壊さない。でも、本当に危ない時は、自分を守って。

 

 私は深く息を吸った。


「見るだけ。まずは、見るだけ」


 自分にそう言い聞かせて、音の方へ向かって走り出した。

 森の中を駆ける。枝が服の袖に引っかかり、葉が頬をかすめる。足元の根に引っかからないように、少しだけ速度を落とした。力を入れすぎると地面を壊してしまうから、足の裏に伝わる感触を確かめながら進む。

 音が近づく。

 人の声が、はっきりと聞こえた。


「下がれ! 隊列を崩すな!」

「無理、速い! そっち行く!」

「荷物を捨てろ! 生きて帰るのが先だ!」


 声のする場所へ出る少し手前で、私は木の陰に身を寄せた。いきなり飛び出してはいけない。まずは見る。そう教わったから。

 木々の隙間から、開けた場所が見えた。

 

 そこには、三人の人間がいた。

 一人は大きな盾と片手剣を持った男の人。前に立って、黒い魔物の突進を何度も受け止めている。

 もう一人は弓を持った女の人。少し離れた位置から矢を放ちながら、仲間の動きをよく見ていた。声の出し方が落ち着いていて、二人を支えるお姉さんみたいな人に見える。

 最後の一人は短い杖を握った男の人だった。風の魔法で魔物の足元を崩そうとしているけれど、少し息が上がっている。

 

 三人の前にいる魔物は、黒い猪のような姿をしていた。

 普通の猪よりずっと大きい。背中には岩みたいな硬い突起があり、息を吐くたびに鼻先から白い煙が漏れている。地面には大きな蹄の跡が残り、周りの木が何本か折れていた。

 私は魔物を見て、少しだけ首を傾げた。

 大きい。でも、巣窟の下層にいる竜たちよりは小さい。

 そう思ってしまってから、すぐに首を横に振った。駄目だ。比べる相手を間違えてはいけない。外の人にとって、これはきっと危ない魔物だ。

 

 盾の男の人が、魔物の突進を受け止めた。

 鈍い音がして、男の人の足が地面を削る。弓の女の人が横から矢を放ち、杖の男の人が風の刃みたいな魔法を飛ばした。けれど、魔物の背中の突起が矢を弾き、風の刃も深くは通らない。


「硬いわね……! ガルド、足を止められる?」

「止めたいが、正面から受け続けるのはきつい!」

「セイル、次の風は右足に合わせて!」

「分かってる!」


 三人は必死だった。

 怖がっている。でも、逃げていない。お互いに声をかけて、少しずつ位置を変えながら戦っている。

 私はその動きを見て、胸の奥が少し熱くなった。

 これが、外の冒険者。

 強さは、パパやママたちとは全然違う。けれど、弱いからすごくないわけではない。三人は自分たちにできることを必死に探して、相手を見て、仲間を守ろうとしている。

 シズクママが言っていた。

 

 ——外の強者は、私が思うよりずるい。だから強い。

 

 たぶん、この人たちはまだ本当に強い冒険者ではないのかもしれない。それでも、私には分からない戦い方をしていた。

 その時、魔物が急に向きを変えた。

 盾の男の人ではなく、後ろにいた杖の男の人へ突進する。杖の男の人は魔法を撃った直後で、動きが少し遅れていた。


「セイル、避けて!」


 弓の女の人が叫ぶ。

 魔物の動きは、私にはちゃんと見えていた。

 速いとは思う。けれど、見失うほどではない。ルベリアママが「ゆっくり」と言いながら振るう拳の方が、ずっと速かった。シズクママの踏み込みの方が、ずっと静かで、ずっと見えにくかった。

 だから、怖いのは魔物の速さではなかった。

 私が間に合わないことではなく、私が間違えて力を入れすぎることの方が怖かった。

 それでも、目の前の人は避けられない。

 私は考えるより先に、木の陰から飛び出していた。

 足に力を入れすぎない。地面を壊さない。前を見る。魔物の動きだけじゃなく、周りも見る。

 私は杖の男の人と魔物の間へ滑り込んだ。

 

 木剣を抜く。

 

 魔物の正面に立っても、怖いとは少し違った。大きいとは思う。鼻先から漏れる熱い息も、蹄が地面を削る音も、普通の人なら足がすくむものなのかもしれない。

 けれど、私にはその動きが見えていた。

 困ったのは、止め方だった。

 真正面から受け止めれば、たぶん止められる。でも、その場合、魔物か地面か、近くにいる人のどれかを()()()()()()気がした。

 だから、少しずらす。

 シズクママに何度も崩された時のことを思い出す。


 ——力で受けるのではなく、角度を変える。


 相手の向きを、ほんの少しだけ外す。

 魔物の鼻先に木剣を当て、体を横へ流す。

 次の瞬間、黒い猪のような魔物は、私の横を通り過ぎていった。突進の勢いはそのままなのに、向きだけがずれて、大きな体が地面をえぐりながら横へ流れる。

 魔物はそのまま木にぶつかった。

 ばきん、と太い幹が折れる。

 私は木剣を握ったまま、少しだけ目を丸くした。


「……木は、壊しちゃった」


 すると、背後で誰かが息を呑む音がした。

 振り返ると、三人の冒険者が私を見ていた。杖の男の人は尻もちをついたまま、口を開けている。盾の男の人は盾を構えた姿勢で固まり、弓の女の人は矢をつがえたまま動かない。

 私は慌てて頭を下げた。


「あの、勝手に入ってごめんなさい。怪我はありませんか?」


 三人は、すぐには答えなかった。

 その間に、木にぶつかった魔物が低く唸りながら立ち上がる。まだ倒れてはいない。怒ったように前足で地面を掻き、こちらを睨んでいる。

 私は木剣を構え直した。

 今度は、ちゃんと見る。

 この魔物は硬い。力も強い。けれど、向きを変えるのは少し苦手そうだ。突進の前に、右前足へ体重が乗る。鼻先から煙が出る時は、たぶん次の動きが来る合図。

 全部、見えるわけではない。

 でも、少しなら分かる。


「すみません。もう少しだけ、手伝います」


 私は冒険者たちにそう言って、前へ出た。

 魔物が再び突進してくる。

 今度は、真正面に立たない。私は横へ半歩動き、木剣で鼻先を軽く打った。軽く、のつもりだった。

 ごん、と鈍い音がして、魔物の頭が少し下がる。


「あ……」


 私は慌てて力を抜いた。

 魔物は足をもつれさせ、その場で大きく傾いた。そこへ、盾の男の人が叫ぶ。


「今だ、足を!」


 弓の女の人が矢を放つ。杖の男の人も立ち上がり、短く詠唱して地面をぬかるませた。魔物の足が沈み、体勢が崩れる。

 盾の男の人が前へ出て魔物の進路を塞ぐ。弓の女の人が目の前に矢を撃ち込んで注意を逸らし、杖の男の人が風を起こして魔物の横腹を押した。

 三人の動きが、さっきよりずっと合っていた。

 私はそれを見て、すごいと思った。

 私が少し向きを変えただけでは、たぶん終わらなかった。でも、三人が一緒に動いたから、魔物の足が止まった。誰か一人が強いのではなく、三人で一つの動きになっている。

 魔物が最後に大きく暴れようとしたので、私は木剣を握り直した。


「ごめんね」


 そう言ってから、魔物の鼻先をもう一度、今度は本当に少しだけ打った。

 魔物は白目をむいて、その場に崩れ落ちた。

 地面が少し揺れる。

 私は木剣を下ろし、倒れた魔物を見た。息はある。死んではいない。たぶん、気絶しているだけだ。


「よかった。壊してない」


 そう呟いてから、私は冒険者たちの方へ振り返った。

 三人は、まだ私を見ていた。

 今度はさっきよりも、もっと変な顔をしていた。


「あの……大丈夫ですか?」


 私が聞くと、盾の男の人がようやく口を開いた。


「君は……何者だ?」


 何者。

 そう聞かれて、私は少しだけ考えた。

 名前を言えばいいのだろうか。でも、オフィーリアママは、外で家名を不用意に名乗る必要はないと言っていた。だから、全部言うのはやめた方がいい。

 私は木剣を腰のベルトに戻し、服の裾についた葉っぱを手で払った。

 それから、できるだけ丁寧に頭を下げる。


「ヒストリアです。三日前に家を出て、外の世界を見に来ました」

「家を出て……?」

「はい」

「外の世界を見に……?」

「はい」


 三人は顔を見合わせた。

 どうやら、また何か変なことを言ってしまったらしい。

 私は少し不安になって、首飾りに触れた。


「あの、もしかして、勝手に手伝ったら駄目でしたか?」


 そう聞くと、杖の男の人が慌てて首を横に振った。


「いや、助かった! すごく助かった! 助かったんだけど……」

「だけど?」

「君、本当に何者?」


 また聞かれてしまった。

 私は困って、少しだけ視線を落とした。

 何者と言われても、私は私だ。ヒストリアで、パパとママたちの家から出てきて、外を見に来た。それ以外に、どう説明すればいいのか分からない。

 考えていると、盾の男の人が大きく息を吐いた。


「……まあ、悪い子じゃなさそうだな。助けてもらったのは事実だし、こっちも名乗っておく」


 盾の男の人は、盾を少し下ろした。


「俺はガルド。Bランク冒険者で、こいつらの前衛をやってる」


 次に、弓を持った女の人が軽く手を上げた。


「私はミナ。C+ランクの弓使いよ。よろしくね、ヒストリアちゃん」


 ミナさんは、少しお姉さんみたいに柔らかく笑った。

 最後に、杖の男の人がまだ少し驚いた顔のまま頭を下げる。


「セイルだ。同じくC+ランク。風魔法と補助を担当してる。さっきは本当に助かった」

「ガルドさん、ミナさん、セイルさん」


 私は一人ずつ名前を繰り返した。


「よろしくお願いします」


 三人の名前を知ると、少しだけ話しやすくなった気がした。

 その時、倒れていた魔物が、低く喉を鳴らした。

 ガルドさんの表情がすぐに引き締まる。


「自己紹介はここまでだ。まずはこいつを処理する」


 ガルドさんは、倒れた魔物へ視線を向けた。

 私もつられて、黒い猪のような魔物を見る。


「この魔物は、どうしますか?」

「討伐証明を取る。あと、持てる分の素材も回収する」

「討伐証明……」


 私が繰り返すと、ミナさんが少し表情を和らげた。弓は構えたままだけれど、声はさっきより優しい。


「冒険者はね、魔物を倒すと報酬がもらえるの。依頼で狩ったなら依頼料が出るし、依頼じゃなくても牙や皮、肉、魔石なんかはギルドで買い取ってもらえるわ」

「そうなんですね」

「このロックボアなら、牙と魔石は確実に売れる。皮も肉も値はつくけど、全部持って帰るには重いし、ここで長く解体していると他の魔物が寄ってくるかもしれないから、今回は最低限ね」


 ミナさんは、お姉さんみたいにゆっくり説明してくれた。

 私は頷いて、倒れたロックボアを見た。

 息はまだある。


「気絶しているだけですね」

「ああ。だから、このままにはしない」


 ガルドさんが短く言った。


「放っておけば、目を覚ましてまた誰かを襲うかもしれない。冒険者の仕事は、倒して終わりじゃない。安全に処理して、証明部位や素材を持ち帰って、ギルドに報告するところまで含めて仕事だ」

「なるほど」


 私は頷いた。

 命を奪うことが好きなわけではない。必要のない殺しなら、しない方がいいと思う。でも、危ない魔物をそのまま残して、次に誰かが襲われるなら、それは違う。

 生きるために必要なことはある。守るために、終わらせなければいけないこともある。

 それは、昔から知っていた。


「討伐証明は、どこを取るんですか?」


 私が聞くと、三人が一瞬だけ黙った。

 セイルさんが、少し困ったように笑う。


「……思ったより落ち着いてるね」

「え?」

「いや、こういう処理を初めて見る子は、嫌がることも多いから」

「好きではないです。でも、必要なら分かります」


 そう答えると、ミナさんが少しだけ目を細めた。


「そっか。ヒストリアちゃん、見た目よりしっかりしてるのね」

「見た目より……?」

「あ、ごめん。褒めたつもり」


 ミナさんは慌てて片手を振った。その仕草が少し柔らかくて、私はなんとなく怒らなくていいのだと思った。

 ガルドさんはロックボアの首元を確認し、短く息を吐いた。


「よし。俺が止めを刺す。ミナ、周囲を見てくれ。セイル、血の匂いで別の魔物が寄らないように風を流せ」

「了解」

「分かった」


 三人はすぐに動いた。

 ガルドさんが短剣を抜き、迷いなくロックボアへ近づく。ミナさんは弓を構えたまま、森の奥と私たちの周囲を順番に見ている。セイルさんは小さく詠唱し、風を起こして血の匂いを散らした。

 私はその動きを黙って見ていた。

 少しして、ロックボアの息が止まった。

 ガルドさんは手早く牙を外し、魔石を取り出す。皮や肉も価値があるらしいけれど、ここで全部を運ぶのは時間がかかるため、持てる分だけにするらしい。


「皮は惜しいわね」


 ミナさんが言うと、セイルさんが頷いた。


「状態も悪くないし、町まで持って帰れたらいい額になるんだけどな」

「欲張って次の魔物に囲まれたら意味ないでしょ。命より高い素材はないわ」


 ミナさんはそう言って、少しだけ肩をすくめた。

 ガルドさんは牙を布に包み、魔石を小袋に入れる。


「最低限は回収した。これだけでも十分な額になる」

「魔物って、倒したあとも大事なんですね」

「そうだな。冒険者にとっては危険でもあり、収入でもある」


 ガルドさんはそう言ってから、私を見た。


「それで、ヒストリア。君は町まで行く予定はあるか?」

「町ですか?」

「ああ。俺たちも近くの町へ戻るところだった。助けてもらった礼もしたいし、森を一人で歩かせるのも、その……色々と心配だ」

「心配、ですか?」


 私が聞くと、ミナさんが苦笑した。


「うん。ロックボアを木剣で気絶させる子を心配するのも変かもしれないけど、それでも一人旅に慣れてるようには見えないもの」

「それは……たぶん、慣れていません」

「でしょう?」


 ミナさんは、少し得意そうに笑った。

 少し不思議だった。私は一人で歩けると思う。でも、心配してくれているのは悪い感じではなかった。

 私は少し考えた。

 知らない人についていってはいけない。けれど、この人たちはさっきまで仲間を守ろうとしていた。お礼をしたいと言っている。町へ行くなら、道を知っている人と一緒の方がいいかもしれない。

 それでも、すぐには答えず、私は三人の顔を見た。

 怖い人には、見えなかった。


「では、少しだけご一緒してもいいですか?」


 そう言うと、ガルドさんはほっとしたように笑った。


「ああ。助かる」


 ミナさんも、弓を下ろして柔らかく笑う。


「じゃあ、町まで一緒に行きましょう。道中、分からないことがあったら聞いていいからね」

「はい。ありがとうございます」


 私は頭を下げた。

 森の奥で、風が吹いた。

 巣窟を出てから三日目。私は初めて、外の人たちと一緒に歩くことになった。

 まだ分からないことばかりだ。お金も、魔物も、外の戦い方も、人との距離も、全部ちゃんとは分かっていない。

 でも、知りたいと思った。

 この人たちがどうやって戦って、どうやって町へ帰って、どんな場所で暮らしているのか。外の世界には怖いものもあるけれど、それだけではないのだと、少しだけ分かった気がした。

 私は鞄の紐を握り直して、三人の冒険者たちの後ろを歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ