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第2話 旅立ちの準備は、なぜか災害級

 ※本文中の「◇◇◇」は場面転換、「◆◆◆」は視点転換を表しています。


 ---------------------------------------


「え………………。」

 

 朝起きたら、私の部屋の床が半分くらい荷物で埋まっていた。

 昨日寝る前までは、ちゃんと普通の部屋だったはず…………。

 ベッドがあって、本棚があって、机があって、窓の代わりに外の空を映してくれる水晶があって、いつも通りの落ち着く部屋だった。

 それなのに今は、大きな鞄が三つ、木箱が五つ、布に包まれた長い何かが二つ、薬瓶が詰まった小箱が一つ。さらに、見たことのない丸い金属の容器や、手のひらくらいの水晶、なぜか折りたたまれた結界用の杭まで置かれている。

 私はベッドの端に腰かけたまま、しばらくそれを見つめた。


「……私、巣窟ごと持っていくの?」


 誰に聞いたわけでもないのに、思わず声に出てしまった。

 そっと足を床に下ろす。けれど、いつもならすぐ触れるはずの床が、今日は小さな鞄に当たった。つま先で軽く押すと、中からかちゃりと硬い音がする。

 私は膝を抱えるようにして、もう一度部屋を見回した。

 外の世界へ行くことは、昨日決まった。パパに言われて、私も見てみたいと答えた。それは嘘じゃない。人の町を見てみたいし、冒険者という人たちにも会ってみたい。竜を撫でてはいけない場所があるなら、どうしてそうなのかも知りたい。

 でも、こうして荷物でいっぱいになった部屋を見ると、急に胸の奥が変な感じになった。

 

 (本当に行くんだ…………。)


 そう思ったら、息を吸うのが少しだけゆっくりになった。


「ヒストリア、起きていますか?」


 扉の向こうから、オフィーリアママの声がした。


「はい。起きています」

「入りますね」


 扉が静かに開いた。入ってきたオフィーリアママは、いつも通り綺麗に髪を結んでいて、片手に分厚い紙束を持っている。この荷物の量を見ても、少しも驚いていない顔だった。


「おはようございます、ヒストリア。よく眠れましたか?」

「おはようございます、オフィーリアママ。えっと……眠れました。たぶん」

「たぶん、ですか」

「途中で少し起きました。外のことを考えていたら、目が覚めちゃって」


 私がそう言うと、オフィーリアママは少しだけ目元を柔らかくした。

 荷物を避けるようにして椅子に腰を下ろす。その動きがあまりにも自然だった。……多分、私が寝ているうちに入ってきていたんだと思う。


「不安ですか?」

「少しだけ」

「外の世界を見てみたい気持ちはありますか?」

「あります」

「なら、大丈夫です。どちらも本当なら、無理に片方だけにしなくていいのですよ」


 オフィーリアママはそう言って、紙束を机に置いた。どさり、という音がして、私は思わず肩を小さく跳ねさせる。


「今日から、旅立ち前の最終確認を始めます」

「それ、昨日も始まっていた気がします」

「昨日は導入です。今日は実践です」

「実践……」


 嫌な予感がした。

 オフィーリアママは机の上に小さな袋を置き、口を開けると、中から金色や銀色や銅色の丸いものがいくつか転がり出てきた。


「まずは買い物の練習をします」

「買い物」

「はい。外では、欲しい物を見つけた時、勝手にもらってはいけません。お金を払います」

「それは昨日聞きました」

「聞いたことと、できることは違います」


 オフィーリアママは、指先で空中を軽くなぞった。——

 すると、何もなかった場所に小さな揺らぎが生まれ、オフィーリアママがそこから焼きたてのパンが1つ、すっと取り出す。

 表面は少し焼けていて、まだほんのり温かそうだった。

 

「私は店員です。ヒストリアは旅の途中でパンを買いに来たお客様です。始めましょう」

「はい」


 私は背筋を伸ばした。


「いらっしゃいませ。本日は何をお求めですか?」

「このパンをください」

「銅貨二枚です」

「分かりました」


 私は袋の中を覗いた。銅貨二枚と言われたので、銅色のものを探せばいい。そこまでは分かった。

 分かったのだけれど、袋の中で銅貨が他の貨幣に隠れていて、指先で触れるたびにころころ逃げる。私は少しむきになって、小さな貨幣をつまみ上げた。


「どうぞ」

「それは金貨です」

「…………違いました」

「かなり違います」


 私は金貨をそっと戻し、今度こそ銅貨を二枚取り出す。念のため両手に乗せて見せると、オフィーリアママは頷いた。


「正解です」

「よかったです」

「では、次です。宿を取ります。一泊銀貨三枚です」


 今度は少し早く取り出せたけれど、オフィーリアママはすぐに首を横に振った。


「一枚多いです」

「多い分には、大丈夫じゃないんですか?」

「大丈夫ではありません。相手が良い人なら返してくれますが、悪い人ならそのまま受け取ります」

「悪い人、いるんですね」

「います」


 はっきり言われて、私は手の中の貨幣を見つめた。

 金属の丸いものなのに、これを間違えるだけで困ることがある。魔法なら少し間違えても自分で直せることが多いけれど、お金は相手がいる。

 相手が優しいか、そうじゃないかで、結果が変わってしまう。——少し、難しい。


「ヒストリア」

「はい」

「分からない時は、分からないと言いなさい。知らないことを隠すより、丁寧に聞いた方が安全です」

「はい。分からない時は、ちゃんと聞きます」

「よろしい」


 それからしばらく、私は買い物、宿、食事、馬車、そして契約書に名前を書いてはいけない練習をした。

 契約書は特に怖かった。見た目は普通の紙なのに、変な魔法が仕込まれていることもあるらしい。


「知らない紙に名前を書いてはいけません」

「はい」

「知らない人に、少しだけでいいから名前を書いてと言われても?」

「書きません」

「景品が当たると言われても?」

「書きません」

「とても美味しいお菓子をくれると言われても?」

「……書きません」

「今、少し迷いましたね」

「お菓子は少しだけ強いです」


 私が正直に言うと、オフィーリアママは額に手を当てた。


「やはり、お菓子を使った詐欺への対策も必要ですね」

「そんな詐欺があるんですか?」

「今、可能性が生まれました」


 外の世界は、思っていたより危ないのかもしれない。

 そう思いながら、私は小さな財布を両手で包んだ。オフィーリアママが旅用に用意してくれたものだ。柔らかい革でできていて、手に持つと少し温かい。


「なくさないようにします」

「ええ。ですが、本当に困った時は、お金より自分を優先しなさい。財布を取られても、あなたが無事なら取り返す方法はあります」

「取り返しに行くんですか?」

「場合によります。自分で追いかけてはいけません」

「はい」


 私は財布を鞄にしまい、上からそっと押さえた。ここに入れた、と思っておかないと、あとで忘れそうだったからだ。

 オフィーリアママはそれを見て、小さく笑った。


「そうやって一つずつ確認するのは良いことです」

「本当ですか?」

「はい。丁寧に確認できる子は、外でも少しずつ覚えられます」

 

 褒められると、少しだけ胸が温かくなる。

 けれど、オフィーリアママはすぐに次の紙束を持ち上げた。


「では次に、貴族と関わる時の注意点です」

「まだ続くんですね」

「もちろんです。外の世界は、貨幣だけでできているわけではありませんから」


 私は机の上の紙束を見て、外へ出る前に、まず紙の山を越えないといけないのだと思った。


 

◇◇◇


 

 オフィーリアママの実践講義が終わる頃には、私の頭の中は銅貨と銀貨と契約書でいっぱいになっていた。

 部屋を出る時、鞄の上から財布の位置をもう一度押さえる。


(…………うん、ちゃんとある。さっきしまった場所にある。)


 それを確認してから廊下へ出ると、ルベリアママが腕を組んで待っていた。


「終わったか、ヒストリア」

「はい。たぶん、少し賢くなりました」

「よし、次は体を動かすぞ。頭だけ使うと疲れるからな」


 私は頷きかけて、少しだけ足を止めた。


「あの、今日は何をするんですか?」

「護身術だ」

「護身術……?」

「ああ。外で悪いやつに絡まれた時、どうするかの練習だ」


 ルベリアママはにっと笑った。とても頼もしい笑顔だ。けれど、少しだけ嫌な予感もする。


「まず、悪いやつが近づいてきたらどうする?」

「逃げます」

「正解だ。逃げられなかったら?」

「助けを呼びます」

「それも正解だ。助けが来なかったら?」

「……殴ります?」

「よし!」

「よし、ではありません」


 背後からオフィーリアママの声が飛んできて、私はびくっと肩を揺らした。ルベリアママは悪びれずに笑っている。


「最後の手段としては間違っていないだろう?」

「最後の手段にたどり着くまでの段階を教えてください」

「だから、逃げて、助けを呼んで、それでも駄目なら殴る」

「雑です」


 オフィーリアママは深くため息をついた。

 けれど、ルベリアママは私の手を取って、そのまま運動場へ向かって歩き出した。手のひらが温かい。引っ張る力は強いけれど、私が転ばないよう速度を合わせてくれているのが分かる。

 運動場には、すでにシズクママがいた。

 黒い髪を背中に流し、手には木剣を持っている。いつもと同じ静かな姿なのに、そこに立っているだけで空気が少し引き締まる。


「シズク、頼む」

「分かった」

「今日はヒストリアに、悪いやつから逃げる方法を教える」

「逃げる練習。大事」


 シズクママが頷いた。

 私はシズクママの前に立ち、木剣を見た。昨日までの手合わせとは少し違うらしい。勝つ練習ではなく、逃げる練習。そう思うと、なぜかいつもより難しそうに感じた。


「ヒストリア」

「はい、シズクママ」

「勝とうとしない」

「はい」

「傷つけようとしない」

「はい」

「離れる。見る。壊さない」

「……壊さない」

 

 私はその言葉を繰り返した。

 壊さない。たぶん、これが一番難しい。


「始める」

「はい」


 次の瞬間、シズクママが一歩で距離を詰めてきた。

 私は慌てて後ろへ下がろうとした。けれど、下がった先には小さな石の柱があって足が当たりそうになる。反射的に横へ跳ぶと、今度はシズクママの木剣がその先に置かれていた。

 避ける場所がない。

 そう思った瞬間、私はつい足に力を入れてしまった。

 どん、と鈍い音がして、石床に細い亀裂が走る。


「あっ」


 シズクママの木剣が、私の肩のすぐ横で止まった。


「今、壊した」

「ごめんなさい。逃げようと思ったら、床が……」

「床は逃げない」

「はい……」


 ルベリアママが横で大笑いしている。


「まあ、床で済んだならいいじゃないか」

「外では、床では済まない」


 シズクママが短く言うと、ルベリアママも少しだけ笑いを抑えた。

 私はひびの入った床の前にしゃがみ込んだ。指先でそっと触れると、亀裂の中に小さな砂が落ちていく。こんなふうに、外で誰かの家や道を壊してしまったら、きっとすごく困らせる。


「もう一回、お願いします」


 私は立ち上がって、シズクママを見た。


「次は、床を壊さないようにします」

「うん」


 シズクママは、ほんの少しだけ目を細めた。

 二回目は、足に力を入れすぎないように意識した。三回目は、逃げる先を先に見るようにした。四回目は、シズクママの剣だけでなく、肩と足を見るようにした。

 それでも、何度も捕まった。

 シズクママは強い。動きが速いだけじゃない。私が逃げたいと思った場所に、先に立っている。まるで私より先に、私の考えを知っているみたいだ。


「シズクママ」

「何?」

「外の強い人も、こうやって先が読めるんですか?」

「読める人も、いる」

「すごいですね」

「怖い?」

「少し怖いです。でも、会ってみたいです」

 

 私がそう言うと、ルベリアママが嬉しそうに笑った。

 

「いいな、その顔。怖いのに前を見てる」

「前、見れてますか?」

「ああ。だが、危ないやつには近づくなよ」

「はい」

「本当か?」

「たぶん」

「そこは言い切れ!」


 ルベリアママが私の背中をばしんと叩いた。私は一歩前につんのめって、慌てて足を踏ん張る。床にまたひびが入りそうになって、私は急いで力を抜いた。

 それを見て、シズクママが頷いた。


「今のは、良い」

「え?」

「壊す前に止めた」


 褒められたのだと分かるまで、少し時間がかかった。

 胸の奥が、ふわっと温かくなる。


「ありがとうございます」

「うん」


 シズクママは短く返した。

 外の世界では、私は知らないことばかりだと思う。お金も、契約も、逃げ方も、強い人の見方も、まだ全然分かっていない。

 でも、少しずつなら覚えられるのかもしれない。

 そう思うと、さっきより少しだけ、外へ行くのが怖くなくなった。


 

 ◇◇◇


 

 午後になると、セレスティアママの部屋へ呼ばれた。

 セレスティアママの部屋は、いつ入っても綺麗だ。白と銀の光がふわりと浮かんでいて、床には薄い魔法陣が水面みたいに揺れている。壁際には小さな水晶がいくつも並び、その中で星のような光が瞬いていた。

 中央の机の上には、いくつかの護符が置かれていた。首飾り、腕輪、指輪、小さな鈴。どれも綺麗で、見ているだけなら装飾品みたいだ。けれど、周りに浮かんでいる術式の量を見ると、たぶん普通の飾りではない。


「ヒストリア、旅先で身につける護符を選びましょう」

「どれでもいいんですか?」

「はい。あなたが一番身につけやすいものが良いです」


 私は机に近づき、そっと護符を見比べた。

 腕輪は綺麗だけれど、剣を使う時に気になるかもしれない。指輪はパパが何か用意してくれると聞いている。鈴は可愛いけれど、歩くたびに鳴ったら魔物に気づかれそうだ。

 そうして、最終的に私は小さな首飾りを手に取った。透明な石が一つついているだけの、控えめなものだった。光にかざすと、石の奥で淡い青色がふわりと揺れる。


「これがいいです」

「ええ。私も、それが似合うと思っていました」

「最初から決めてました?」

「少しだけ」


 セレスティアママはにっこり笑った。その笑顔は優しい。優しいけれど、どこか嬉しそうすぎる気もする。

 セレスティアママが首飾りを手に取り、指先で軽く撫でると、石の中に細かな光の線が生まれた。糸みたいな魔法が、何重にも重なっていく。


「この護符は、あなたの魔力を少し整えて、危険があれば私たちに知らせます」

「少し、ですか?」

「はい。少しです」


 セレスティアママがそう言った瞬間、部屋の端にいたオフィーリアママがすっと目を細めた。


「セレスティア、念のため確認します。その護符の防御結界の範囲は?」

「最初は半径三十里でしたが、さすがに外では目立つと思いまして」

「当然です」

「半径三里まで抑えました」

「それは抑えたとは言いません」


 オフィーリアママの声が、とても静かだった。

 私は首飾りとセレスティアママを交互に見る。


「半径三里って、どれくらいですか?」

「小国なら、丸ごと入るくらいです。」

「それは、ちょっと大きいと思います」

「そうですか……」


 セレスティアママは少し残念そうに首飾りを見た。まるで、せっかく可愛くできたのに、と言いたそうな顔だった。


「あなたにお願いしたのは護符です。要塞ではありません」

「要塞ほどではありません」

「比較対象が間違っています。」


 セレスティアママは少し考えてから、もう一度術式を組み直し始めた。光の糸がほどけ、細くなり、石の中へ静かに収まっていく。

 私はその様子をじっと見ていた。

 ママたちは、私のことになるといつも少し大げさだ。でも、それは私が大事だからなのだと思う。そう思うと、困る気持ちと嬉しい気持ちが一緒に来る。

 私は首飾りに触れた。まだセレスティアママの手の中にあるのに、ほんのり温かい。


「セレスティアママ」

「はい」

「守ってくれようとしてくれて、ありがとうございます」


 セレスティアママの指先が、少しだけ止まった。

 それから、私の頭にそっと手が置かれる。撫で方はルベリアママよりずっと軽くて、髪を崩さないように触れているのが分かった。


「守りたいのです。ずっと」

「はい」

「……でも、守るだけではいけないのでしょうね」


 セレスティアママの声は、少しだけ寂しそうだった。

 私は何と言えばいいか分からなくて、首飾りの石を見つめた。


「私、ちゃんと帰ってきます」


 気づいたら、そう言っていた。


「だから、行ってきてもいいですか?」


 セレスティアママは、ゆっくりと瞬きをした。それから、少しだけ困ったように笑う。


「そんなふうに聞かれたら、止められないではありませんか」

「止めますか?」

「止めたいです」


 とても素直な答えだった。

 けれど、セレスティアママは首飾りを私の首にかけてくれた。石が胸元に触れる。冷たいと思ったのは一瞬だけで、すぐに肌になじむような温かさに変わった。


「行ってらっしゃいを言う準備を、私たちもしなければなりませんね」

「…………はい」


 私は首飾りを両手で包み、小さく頷いた。


 

 ◇◇◇


 

 夕方近くになって、私はパパに呼ばれた。

 巣窟の奥にある広い部屋へ向かう。壁には古い地図や、私には読めない文字が刻まれた石板が置かれていて、大きな窓のような水晶には外の山脈が映っていた。赤く染まった空の下で、遠くの雲がゆっくり流れている。

 パパは、その水晶の前に立っていた。

 人の姿をしているのに、背中がとても大きく見える。私は入口で少しだけ立ち止まり、それから足音を小さくして近づいた。


「来たか、ヒストリア」

「はい、パパ」


 パパは振り返り、私を見た。金色の瞳はいつも静かで、何を考えているのか全部は分からない。でも、怖いと思ったことは一度もない。


「旅支度は進んでいるか」

「はい。お金の使い方を少し覚えて、逃げる練習をして、要塞みたいな護符を弱くしてもらいました」

「……………………。」


 パパは少しだけ眉を動かした。


「要塞とはなんだ?」

「オフィーリアママがそう言っていました」

「……後で確認しておこう」


 パパは小さく息を吐いた。それから、手のひらを開く。

 そこには、小さな指輪があった。

 銀色にも黒色にも見える不思議な色をしていて、飾りはほとんどない。けれど内側に細かな模様が刻まれていて、見ていると深い夜の底みたいに光が沈んでいく。


「これは、お前に渡しておく」

「指輪、ですか?」

「ああ」


 パパは私の手を取った。大きな手だった。私の指をそっと支え、指輪をはめてくれる。少し大きいと思ったのに、指輪は私の指に触れた瞬間、ぴったりの大きさになった。

 私は手を持ち上げて、指輪を見つめた。


「綺麗です」

「派手なものではない」

「でも、綺麗です」

「そうか」


 パパは少しだけ表情を緩めた。私はそれが嬉しくて、指輪をもう一度見た。首飾りと指輪、外へ行くためのものが一つずつ増えていくたびに、本当に旅立つのだと分かってしまう。


「これは、お前を縛るものではない」


 パパが静かに言った。


「はい」

「お前を私のものだと示すためのものでもない。お前はお前だ。ヒストリア・A・ルクシアとして、自分の足で外へ出る」

「はい」

「ただし、どうしても困った時は、その指輪を見せなさい。龍や竜の中には、その印を見て争いを避ける者もいる。人の国では、むやみに見せる必要はないがな」

「パパの庇護の印、ですか?」

「ああ。そんなものだ。」


 庇護。難しい言葉だけれど、たぶん「守っている」という意味だ。私を縛るものではない。でも、帰る場所があることを忘れないためのもの。

 そう思ったら、喉の奥が少しだけきゅっとなった。


「パパ」

「なんだ」

「私、外へ行きたいです」

「ああ」

「でも、ここを離れるのは、少し寂しいです」


 言ってから、私は指輪のついた手をもう片方の手で包んだ。

 寂しいと言ったら、パパがやっぱり行かなくていいと言ってくれるかもしれないと——そう、思ったわけではない。

 でも、言葉にしたら、本当に寂しくなってしまった。

 パパは、すぐには何も言わなかった。

 ただ、私の頭に手を置いた。

 大きくて、重くて、温かい手だった。


「寂しいと思える場所があるのは、悪いことではない」

「そうなんですか?」

「ああ。帰る場所がある者は、誰よりも遠くへ行ける」


 私は顔を上げた。

 パパの目は、いつもより少しだけ優しかった。


「困ったら逃げろ。助けを求めろ。帰りたくなったら帰ってこい。外へ出ることは、ここを捨てることではない」

「はい」

「ここは、お前の家だ」


 その言葉で、私は少し泣きそうになった。

 でも、泣かなかった。

 ここで泣いたら、ママたちがどこかから飛び出してきて、出発が一週間くらい延びるかもしれない。ルベリアママなら本当にやりそうだし、セレスティアママなら部屋ごと結界で包むかもしれない。

 だから私は、目をこすらずに、指輪をぎゅっと握った。


「ちゃんと行って、ちゃんと帰ってきます」

「ああ」


 パパは頷いた。

 短い返事だったけれど、それだけで胸の奥が少し落ち着いた。


◇◇◇


 その日の夜、私はなかなか眠れなかった。

 ベッドに入っても、明日のことばかり考えてしまう。外の光はどんな色なのか。町は本当に本で読んだみたいに賑やかなのか。冒険者はみんな武器を持っているのか。竜を撫でてはいけないなら、外の人は竜とどうやって仲良くなるのか。

 考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。

 でも、分からないことが増えるのは、嫌じゃない。

 私は毛布を少しだけ握り、天井の水晶を見上げた。淡い光がゆっくり揺れている。いつも見ている光なのに、今日は少し違って見えた。明日の夜は、この光を見ながら眠るわけではないのだと思ったからだ。

 

 私はそっとベッドから降りた。

 廊下に出ると、巣窟は静かだった。水晶の明かりが壁を淡く照らしていて、遠くから竜たちの寝息が聞こえる。低くて大きな音なのに、私には子守歌みたいに聞こえた。

 歩きながら、壁に手を触れる。

 冷たい石の感触が、手のひらに残る。

 この廊下を、私は何度も歩いた。ルベリアママに追いかけられて走ったこともあるし、セレスティアママに髪を整えてもらいながら歩いたこともある。シズクママに足運びを注意されながら通ったこともあるし、オフィーリアママに本を抱えさせられて前が見えなくなったこともある。

 全部、当たり前だった。

 

 ——でも、明日からは少しの間、当たり前じゃなくなる。

 

 そう思うと、胸が少しだけきゅっとした。


「ヒストリア?」


 背後から声がして、私は振り返った。

 シズクママが立っていた。寝る前なのに、姿勢はいつも通りまっすぐで、足音はほとんどしなかった。


「シズクママ」

「眠れない?」

「はい。少しだけ」

「怖い?」

「…………………………怖いです。…………でも、知りたいです」

「うん」


 シズクママは私の隣に来て、同じように壁へ目を向けた。

 しばらく、二人で何も言わなかった。

 沈黙は嫌じゃなかった。シズクママの沈黙は、私を急かさない。言葉を探す時間を、そのまま置いておいてくれる。


「——外に行きたいです!」


 私は小さく言った。


「でも、ここを離れるのは寂しいです。外が怖くないわけでもありません」


 言葉にすると、胸の中にあったものが少しだけ形を持った気がした。私は壁から手を離し、自分の指先を見た。さっきまで触れていた石の冷たさが、まだ少し残っている。


「それでも、パパやママたちが教えてくれた外の世界を、自分の目で見てみたいです。怖くても、寂しくても、行ってみたいです」


 そこまで言ってから、私はシズクママを見た。


「それは、嘘じゃないです」


 シズクママは、私の方を静かに見ていた。

 それから、ほんの少しだけ手を伸ばして、私の頭に触れた。撫でるというより、そこにいることを確かめるみたいな触れ方だった。


「なら、行っていい」

「はい」

「怖くなったら、帰ってきていい」

「はい」

「でも、見たいなら——色んな世界を、見てきな。」


 私は頷いた。

 その時、遠くの廊下からルベリアママの声が聞こえた。


「ヒストリアー! 寝る前にもう一回だけ抱きしめておくぞー!」

「もう寝るところです!」

「寝る前だからだ!」


 別の方向から、セレスティアママの声も聞こえる。


「ヒストリア、夜更かしは明日に響きますよ。眠れないなら、安眠の魔法をかけます」

「三日くらい眠りそうなので大丈夫です!」


 さらに、オフィーリアママの声が少し遅れて響いた。


「ヒストリア、明日の持ち物確認を最後に一度だけします。財布、身分証、護符、指輪の位置を確認しましょう」

「最後が多いです!」


 通路のあちこちから声がする。

 私は困って、でも少し笑った。

 明日ここを出ても、きっとこの声を思い出す。うるさいくらい心配してくれる声。大げさなくらい守ろうとしてくれる手。私のことを、ちゃんと見ていてくれる人たち。

 私は、それを全部持っていくのだと思った。


 

 ◆◆◆


 

 ヒストリアがようやく部屋へ戻り、巣窟が再び静けさを取り戻した頃、最奥の小部屋にはヴァルグリムと四人の妻たちが集まっていた。

 部屋の中央には、オフィーリアが調整した水晶が置かれている。内部では細かな術式が幾重にも回り、光は一定の間隔で明滅していた。それはまだ何も映していない。ただ、ヒストリアの身に本当の危険が迫った時、術式は彼女たちへ異変を知らせる。


「調整は終わりました」


 オフィーリアが言った。


「ヒストリアの行動を常時映すものではありません。危険察知、位置確認、緊急連絡。それ以上の機能は、原則として封じています」

「原則として、か」


 ヴァルグリムが低く呟くと、オフィーリアはわずかに視線を逸らした。


「緊急時には、例外も必要です」

「その例外が多くなりすぎぬようにせよ」

「あなたが一番見たがると思いますけどね」


 返す言葉はなかった。

 ルベリアは腕を組み、落ち着かない様子で足先を動かしていた。セレスティアは水晶の光を見つめ、シズクは壁際に静かに立っている。誰も、明日の旅立ちを軽く見てはいない。


「この巣窟にいれば、あの子は守れる」


 ヴァルグリムは言った。


「だが、守り続けるだけでは、あの子は世界を知らぬままだ。人の善意も、悪意も、弱さも、強さも、すべて本で読んだ言葉のまま終わってしまう」


 オフィーリアは何も言わなかった。

 知識として教えることはできる。危険を遠ざけることもできる。けれど、ヒストリア自身が何を見て、何に傷つき、何を大切にするのかまでは、ここにいる大人たちが代わりに決めることはできない。


「ヒストリアには、私たち以外の誰かと出会う必要がある」


 ヴァルグリムは水晶を見つめた。


「家族だけでは届かぬ言葉がある。家族だからこそ、届かぬ痛みもある。あの子が自分の足で歩くには、外の世界を知らねばならぬ」

「そのために、傷つくとしても?」


 セレスティアの声は静かだった。責める響きではない。ただ、どうしても消せない痛みが、その一言に混じっていた。


「傷つかずに世界を知ることはできぬ」


 ヴァルグリムは低く答えた。


「だが、傷つくことだけが外にあるわけでもない。あの子には、それを知ってほしい」


 部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。

 守るという言葉は美しい。だが、守るために何も見せず、何も選ばせず、ただ安全な場所に閉じ込め続けるなら、それはいつか檻と同じ形になる。

 ヒストリアは優しい。無垢で、素直で、外の悪意を知らない。だが、知らないままでは、悪意に触れた時に選べない。怒ることも、逃げることも、誰かを信じることも、自分の足で決められない。

 やがて、ルベリアが大きく息を吐いた。


「分かった。行かせる。行かせるが、変なやつが近づいたら私は動くぞ」

「状況を見てからです」


 オフィーリアが即座に言う。


「殴る前に?」

「当然です」

「必要なら殴るっ!」


 シズクが短く付け加えた。

 予想通りの答えに、セレスティアは困ったように微笑んだ。


「結局、私たちは全員過保護ですね」

「今さらだ」


 ヴァルグリムはそう言って、水晶から目を離した。

 明日、ヒストリアは巣窟の外へ出る。世界はあの子に優しいものばかりではない。むしろ、知らぬまま触れれば傷つくものの方が多いかもしれない。

 それでも、あの子は行きたいと言った。

 その言葉が嘘でないことを、ヴァルグリムは知っている。


「…………行ってこい、ヒストリア」


 まだ眠っている娘に届かぬ声で、彼は呟いた。


「この巣窟だけが世界ではない。だが、ここがお前の帰る場所であることも、忘れるな」


 水晶の光が、静かに揺れた。


 

 ◆◆◆


 

 翌朝、私は旅立ちの服に着替えた。

 動きやすい白い服の上に、薄い外套を羽織る。外套は見た目よりずっと丈夫で、セレスティアママの結界とオフィーリアママの術式が縫い込まれているらしい。ルベリアママは「多少殴られても破れない」と言っていたけれど、私はできれば殴られたくない。

 腰の鞄には財布と身分証(偽装品)。首にはセレスティアママの首飾り。指にはパパの指輪。シズクママにもらった短い木剣は、邪魔にならないよう腰のベルトに固定している。

 私は一つずつ手で触れて、ちゃんとあることを確認した。


「財布、あります。身分証、あります。護符、あります。指輪、あります。木剣、あります」

「よろしい」

 

 オフィーリアママが頷いた。


「忘れ物はありませんね?」

「ありません」

「本当に?」

「……たぶん」

「そこは言い切りましょう」

「ありません」


 私が言い直すと、オフィーリアママは少しだけ満足そうにした。

 セレスティアママは、最後に私の髪を整えてくれた。指先が髪に触れると、跳ねていたところがすっと落ち着く。いつもの魔法だ。いつもの朝みたいで、でも今日はいつもと違う。


「無理をしてはいけませんよ」

「はい」

「怖いと思ったら逃げてください」

「はい」

「寂しくなったら帰ってきてください」

「はい」

「知らない人についていってはいけません」

「それは、たくさん聞きました」

「大切なことは何度でも言います」


 ルベリアママは、私をぎゅっと抱きしめた。


「むぎゅ……」

「あ、すまん。力が入った」


 少しだけ腕の力が緩んで、私は胸元から顔を出した。小さく息を吸うと、ルベリアママの服から、いつもの温かい匂いがした。訓練場の風と、焼いた肉と、少しだけ甘い香りが混ざった匂い。


「危なくなったら呼べ。すぐ行く」

「はい」

「変な男にも気をつけろ」

「それも聞きました」

「何度でも聞け」


 シズクママは、私の前に立って、短く言った。


「見る。避ける。離れる」

「はい」

「壊さない」

「はい。壊さないようにします」

「でも、本当に危ない時は、自分を守って」


 私は頷いた。


「はい、シズクママ」


 最後に、パパが私の前に立った。

 巣窟の大門は、すぐ後ろにある。大きな扉の隙間から、外の光が差し込んでいた。朝の光は、思っていたより白くて、少し眩しい。


「ヒストリア」

「はい、パパ」

「行ってこい」


 短い言葉だった。

 でも、それだけで胸がいっぱいになった。

 私は一度、パパとママたちを見た。眷属さんたちも遠くにいる。下層の竜たちも、門の影から大きな目でこちらを見ていた。いつもなら少し怖く見える牙も、今日は寂しそうに見える。

 ここは、私の家だ。

 それは、これからもずっと変わらない。


「——行ってきます!」


 私はそう言って、頭を下げた。

 顔を上げると、ルベリアママがもう泣きそうになっていた。セレスティアママは口元を押さえていて、シズクママは目を伏せている。オフィーリアママは平気そうな顔をしているけれど、手元の紙を少し強く握っていた。パパはいつも通り静かに見えた。でも、少しだけ寂しそうだった。

 大門がゆっくりと開いていく。

 外の空気が、巣窟の中へ流れ込んできた。冷たくて、少し土の匂いがして、知らない草の匂いもした。

 私は門の前で、一度だけ立ち止まった。

 外の光は眩しくて、知らない匂いがして、足を出せばもう今までの当たり前から少しだけ離れてしまう気がした。怖くないと言えば嘘になるし、ここを離れるのが寂しくないわけでもない。

 それでも、知りたい。

 パパやママたちが教えてくれた外の世界を、自分の目で見てみたい。怖くても、寂しくても、行ってみたい。

 それは、嘘じゃない。

 私は指輪にそっと触れてから、前を向いた。


 そして、古龍の巣窟の外へ――初めての一歩を踏み出した。

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